第3話

「千尋、大丈夫か?」

「う……ん、たぶん」

「秋山くん、もういいよ。髪、切っていいから」


 女子の言葉に「でも、もう少しかもしれないし」と答える。

 千尋は少し焦っていた。放課後になり、廊下に出ようとしたところで入れ違いに走ってきた女子とぶつかった。そのとき長い髪の毛が千尋のシャツのボタンに引っかかってしまったのだ。

「まさかこんな漫画みたいなことが起きるなんて」と思いながらも、何とか外せないかとがんばった。せっかく綺麗に伸ばしている髪の毛を切るなんてもったいない。しかし、どうやっても絡まった細い毛は取れそうになかった。


「ほら、ハサミ借りてきたぞ」


 そう言って携帯裁縫セットを差し出したのは幼馴染みの原田慎司はらだしんじだ。頼んだわけでもないのに、いつもこうして何かと手伝ってくれる。


「う、ん……もうちょっと……って、ダメかぁ」


 差し出された携帯裁縫セットのハサミを手に取ってからも、千尋は何とかならないか考えた。


「秋山くん、ほんとに気にしないで。ぶつかったわたしが悪いんだし」

「うーん、でも……そうか、糸のほうを切れば」


 髪の毛ではなく、ボタンを留めている糸を切れば絡んだ髪の毛も取れるはず。そう考えた千尋は小さなハサミを右手に、左手の親指と人差し指でボタンを糸が伸びるギリギリまで摘み上げた。そうして髪の毛とシャツを中指と薬指で押さえるようにしながら隙間に刃をねじ込む。


「んー……よ、し……っ取れた!」


 千尋の予想どおり、糸が切れて髪の毛がハラリとシャツから離れた。


「千尋、手!」


 急な大声に何だろうと視線を向けると、慌てたような慎司がこちらを見ている。


「秋山くん、血!」


 髪の毛を救出した女子も大声を出した。慌てて左手を見ると、中指の腹がザックリと切れている。ボタンとシャツの隙間に無理やりねじ込んだから、勢い余って中指を切ってしまったのだろう。


「ぅわー、やっちゃった」


 切り傷は思ったより出血するし、思った以上に痛い。


「やっちゃった、じゃねぇよ! ほら、腕上げて!」

「ちょっと慎司、痛いから」


 騒ぎを聞きつけた女子が絆創膏を数枚、差し出した。それを「サンキュ」と受け取った慎司は問答無用で千尋をトイレへと連行した。


「なに、なんでトイレ?」

「痛いだろうけど我慢しろよ」


 言うなり傷口の近くを痛いくらい握りしめた慎司が、蛇口から勢いよく出る水に自分の手ごと千尋の左手を突っ込んだ。千尋の腕がビクッと震えたが、水が冷たかったからで痛みはほとんどない。それでもそこそこ出血しているらしく、洗面台の上を血液と水が混じり合いながら流れていく。


(そっか、流血騒ぎにならないようにトイレに連れて来たのか)


 そんなことを考えながらボーッと見ている間に傷口が拭かれ、手早く絆創膏を巻かれた。それも指先に血が通わないんじゃないかと思うくらいのキツさでだ。


「もうちょっとの間、腕上げてろよ」


 慎司の言葉に頷いて左手を上げていると、入り口のドアが開く音がした。誰かが入ってきたんだと思った千尋は、邪魔にならないようにと横を向く。


「絆創膏だけじゃ止血できなくない?」


 聞こえて来た声に千尋は驚いた。慌てて顔を向けると出入り口のところに神崎が立っている。


「あー……だよな、やっぱり」


 見惚れている千尋の代わりに慎司がそう答えた。


「これ、絆創膏の上から縛れば何とかなると思うけど、使う?」

「お、サンキュ。ほら、千尋、手ぇちょっと下げて」


 意識のすべてが神崎に向いている千尋に慎司の声は届かない。それでも左手をグイッと引かれ、されるがままに手を預けた。


(やっぱり神崎ってイケメンだよなぁ)


 傷のことなどすっかり忘れて、千尋はただただ神崎を見つめていた。こんなに近くで見られるチャンスは二度とないからと、それこそ顔に穴が空くほど熱心に見つめ続ける。そんな千尋の腕を慎司がポンと叩いた。


「ほら、終わったぞ。家に帰り着くまでこれ取るなよ」

「うん、わかった……って、何?」

「これ、止血で巻いてるから取るなって言ったんだ」


 見ると絆創膏の上に綺麗な空色のハンカチが巻かれていた。


「止血できると思うけど、念のため夜まで縛っていたほうがいいよ」


「じゃ、お大事に」と言った神崎がドアを開けて出て行った。


「……もしかしてこれ、神崎の?」

「おまえ、話聞いてなかったのかよ」

「えーと……うん」


 神崎に夢中になっていて、ハンカチを差し出されたことにもそれを巻かれたことにも気づいていなかった。


「あの、ありがと」


 呆れ顔の慎司にお礼を言った千尋は、改めて指に巻かれたハンカチを見た。ハンカチはそこそこ大きかったらしく、指全体を覆いながら真ん中あたりが妙に膨らんでいる。


(神崎の、ハンカチ)


 ただのハンカチなのに、そう思うだけでドキドキしてきた。それを悟られないように、千尋はハンカチが巻かれた中指をそっと握った。

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