第2話

 神崎優夜に恋をしたからといって、千尋の日常が変わったわけではない。朝起きて、学校に行って授業を受け、放課後は第二音楽室でピアノを弾いてから帰宅する。もともとクラスメイト以上の接点がない神崎と言葉を交わす機会などあるはずがなく、人気者の彼が千尋に声をかけることもなかった。


「まぁ、当然なんだけどね」


 放課後、いつもどおり第二音楽室に来た千尋は、ピアノの前で「はぁ」と小さなため息をついた。


「何だかアイドルに恋してるみたいだ」


 思わずつぶやいた言葉に「あながち間違いじゃないかも」と思った。神崎は間違いなく学内のアイドルだ。そんな人に男の自分が恋をしただけでも事件だろうし、この気持ちを伝えるつもりはまったくない。

 そもそもこんな平凡な男に告白されて喜ぶイケメンはいないだろう。わかっているのに、改めてそう思うと少しだけ切なくなる。


「今日はベートーベンかな」


 千尋はベートーベンが好きだった。重苦しくて繊細でドラマチックで、たまに苦悩が滲み出ているようなところがいいと思っている。もちろんこれは千尋の勝手なイメージだが、そう思うと少しだけベートーベンに寄り添っているような気になれた。


「弾ける曲は少ないけどね」


 千尋は母に教えてもらった曲しか弾けない。教えてもらわなかった曲も、覚えているものは独学で学んだ。誰かに師事するわけでもないピアノは少し不恰好で歪な完成度だが、千尋自身は自分にピッタリだと満足している。


「誰かに聞かせるために弾いてるわけじゃないし」


 そう言って鍵盤に指を置き、右手の主旋律と左手の和音をゆっくりと奏で始める。紡がれるのは静かな夜にそっと光るような月光の曲だった。


(こんな静かで穏やかな気持ちのまま、好きでいたいな)


 男の自分が神崎を好きになったことは、きっと想像以上に大変なことだ。周りに知られれば陰口を叩かれたり指を指されたりするだろう。


(だから、好きな気持ちだけで十分)


 これまで恋らしい恋をしたことがなかった千尋は、現状で十分満足していた。だから神崎に振り向いてほしいだとか、もっと近づきたいだとかは思わない。

 そんなことを考えながら第一楽章を弾き終わり、何気なく窓のそばに近づいたときだった。


「神崎?」


 一般棟とこの棟の間にある中庭に神崎の姿が見える。少し遠いけど、あの髪の色とスタイルのよさは彼以外にあり得ない。

 思わず見つめていると、女子が一人やって来た。遠目でも綺麗に巻かれた髪の毛だとわかる。二人は向かい合ってしばらく話をしていたが、神崎が少しかがんで女子に近づくのが見えた。


(……あ、キスした)


 それから女子の頭を撫でて一般棟に入っていく。残された女子は興奮しているのかしばらくそこにいたが、小走りで神崎とは反対側へと消えて行った。


「モテモテだねー……」


 神崎にとっては日常茶飯事のことなのかもしれない。そういった話も一年のときから耳にしている。


「それでも、実際に見ちゃうとさ」


 千尋は胸をチクリと刺されたような気分になり、ピアノの蓋を閉じて帰宅することにした。



ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 千尋が朝起きると、珍しく父親が帰宅していた。父親は出版社に勤めていて、徹夜が多く帰宅しない日もある。二日ぶりに帰宅した父親はソファの上で力尽きたらしく、ジャケットは脱いでいたものの他はそのままだった。


「とーさん、こんなところで寝てると風邪ひくよ」

「んー……」


 ムニャムニャ返事をしているようだが、起きる気配はない。「仕方ないなぁ」と思いながら毛布を持って来た千尋は、起こさないようにそっと掛けてやった。そうしてパンと牛乳で朝食を済ませ、学校へと向かう。


「あ、進路のこと話してなかった」


 親と相談して提出するように言われていたが、父親に話をするのをすっかり忘れていた。どうしようかなと思いつつ、事後報告でもいいかと考える。


「二年生になったばかりで将来を考えろとか、無茶な話だよね」


 葉桜になってしまった桜並木を見ながら、ついそんなことをつぶやいてしまう。

 千尋は自分が至って平凡な部類だと理解していた。取り立てて良くも悪くもない容姿に眼鏡をかけ、勉強も中の上くらい、身長は一六五センチ程度と男子の中では決して大きくない。骨格が細いのか痩せ型なうえに筋肉もあまりつかなくて、小学生の頃からやっていた水泳はとっくの昔にやめていた。

 ただ、ピアノを弾いているからか指だけは長いほうだと思っている。手を見ると、白くて長くて少し骨ばったような貧相な指が十本あった。何の変哲もない指だけど、好きな曲を弾くには十分だ。

 ピアノは好きだが音楽家になりたいわけじゃなく、ピアニストになりたいわけでもない。進級してすぐに進路の話が出たが、やりたいことがない千尋は地元の大学の適当な学部を書き込んでそのままにしていた。


「将来どうしたいかなんて、そんなの急にわかるわけないじゃん」


 クラスメイトたちがどうなのか興味もない。一瞬神崎のことが頭をよぎったが、友達でもないのに聞くことなんてできるはずもなかった。

 そんなこんなで授業を受け、帰りのホームルームで進路調査の紙を提出する。そうして千尋はいつもどおり第二音楽室へと向かった。

 いつもなら少し窓を開けて春の空気を感じてからピアノに向かうところだが、できるだけ外を見ないように急いで窓を開けた。どうやら第二音楽室の窓から見える中庭は神崎が女子と会う場所の一つにしているらしく、それを知ってからは極力窓の外を見ないように気をつけている。


「僕が勝手に一目惚れしてるだけだけど、好きな人が誰かとイチャイチャしてるのは見たくないっていうかさ」


 神崎が女子といるのを見ると少しだけ胸が痛い。それは自分勝手な気持ちで、神崎も女子も悪くない。それでも気になるのだから、それなら目にしないようにするのが一番だ。


「今日も気分はベートーベンかな」


 春の柔らかな暖かさに、ほんの少し初夏の空気が混じり始めている。今年の春は驚くほどの早さでやって来て、桜もあっという間に散ってしまった。

 そんな空気を感じながら、千尋はタララララと有名なフレーズを奏でた。この曲はベートーベンがテレーゼという愛する女性に送った曲だと言われているが、本当かどうか千尋にはわからない。ただ母が幸せそうに弾いていたから、これを弾けば幸せな気分になれるような気がしていた。

 途中、少しだけ楽譜とは違う音が散りばめられている。楽譜が読めるようになってから気づいたが、母の演奏には彼女のオリジナルがほんの少し混ざっていたらしい。わかってからも、千尋は母の演奏が懐かしくてオリジナルを織り交ぜた旋律を弾き続けている。


「ベートーベンの好きな人って、どんな人だったのかなぁ」


 ふと、そんなことを思った。こんな素敵な曲を捧げる相手だから、きっと美人だったに違いない。もしくは音楽的な才能に溢れていたのだろうか。


「僕も、もう少しイケメンだったら何か違ってたのかな」


 それとも運動が得意だったりすれば神崎と接点が持てたのだろうか。もしくは悪ふざけしあえるくらい仲がいい男子だったら希望が持てたのだろうか。


「……って、なんで僕が男のままなんだよ」


 神崎に近づきたいのなら可愛い女の子になることを想像するべきだ。それなら告白できるチャンスも少しはあったはず。


「そっか、神崎が女子になる手もあるか」


 想像してみた。……想像できないくらい美人になりそうで失敗してしまった。ただ、そんな美人に平凡な僕が声をかけるなんて絶対に無理なことだけは理解できた。

 そこまで考えた千尋はハタと気がついた。


「もしかして僕、神崎に告白したいとか思ってるってこと?」


 自分の考えに自分で驚いた。途端に千尋の顔は真っ赤になり、指も完全に止まってしまう。「うわー、ないない!」と独り言を言いながら立ち上がる。そうして誰もいない教室で「今日はもう終わり!」と宣言してから教室をあとにした。

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