春、僕は恋をした
朏猫(ミカヅキネコ)
第1話
「う、わっ……っ!」
「おっ……と」
「大丈夫?」
「……っ、は、はい、大丈夫、です」
「ん。じゃ、気をつけて」
「あ、の、ありがとう」
「どういたしまして」
そう言ってイケメンがコートへと向かった。千尋はというと背中を見送るようにボーッと突っ立ったままで、チームメイトに声をかけられて慌てて眼鏡の位置を直してからコートに入った。
(知ってたけど、やっぱりかっこいいな)
この瞬間、千尋は恋に落ちていた。
高校二年に進級したばかりの
教室の一角に人だかりができている。よくよく見ると、中心には学内一のイケメンと呼び声高い
祖父がフランス人らしいと囁かれている神崎の容姿は噂以上で、明るい茶色の髪に日本人にはない色の瞳をしていた。その色がヘーゼルだと千尋が知ったのは、つい最近のことだ。
(モデルみたいだ)
神崎は一八〇センチを超える長身で手足が長く、どうしてモデルをしていないのかと女子が騒いでいたのを聞いたことがある。そのときは「ふぅん」としか思わなかったが、実際に近くで見ると千尋もそのとおりだと思った。
そんな彼に、偶然とはいえ抱き留められた。気のせいでなければふんわりといい匂いもした。はっきりとはわからなかったが、オレンジやレモンだったような気がする。
体育の授業はバスケットボールで、相手チームに神崎がいた。彼はスポーツも得意で、しなやかな動きは男の目から見ても抜群にかっこいい。そんな姿に見惚れていたわけではないが、コートに入る前に足を絡ませて派手に倒れかけたところを助けられた。
初めて間近で見た顔は、遠目で見ていたものと違ってキラキラと眩しかった。なによりヘーゼル色の瞳がとても綺麗で目を奪われた。一瞬にしてすべてを忘れてしまう衝撃に全身を打ち抜かれた。
(一目惚れってほんとにあるんだな)
ホームルームが終わり、教室は帰宅する人や部活に行く人でゴチャゴチャと賑やかだ。そんな中、千尋はぼんやりと神崎に抱き留められたときのことを思い出していた。
(まさか同じ男を好きになるとは思わなかった)
最初はとても驚いた。一日経つと、神崎相手なら自分でなくてもあり得そうだなと思えてきた。
実際、クラスでも神崎に気に入られたがっている男子は大勢いる。学内中で考えれば、憧れや尊敬以上の好意を持つ男子もそこそこいそうなくらいの人気者だ。もちろん神崎に熱烈な視線を送る大半は女子だが、彼を巡って揉めたという話は聞いたことがない。
神崎は来る者拒まずらしく“一回だけ”みたいなお付き合いが多いのだという。同じくらい去る者も追わないようで、いままで特定の恋人がいたという話も聞いたことがなかった。
「イケメンでスポーツが得意で勉強もできるって噂だし、モテないはずがないよね」
そんな人に一目惚れしてしまった。しかも同じ男だ。こういうのを“最初から叶わぬ恋”と言うに違いない。
小さくため息をついた千尋は、カバンを持って第二音楽室へと向かった。第一音楽室は特別教室棟にあって放課後は吹奏楽部が使っているが、小さい第二音楽室は一般棟を挟んだ反対側にあり、いまはほとんど使われていない。周りは空き教室や物置代わりになっている教室が多く、放課後は生徒も教師も用事がない限り来ないのでやけに静かだった。
「今日は何を弾こうかな」
千尋の目的は第二音楽室にあるピアノだ。一応学校の備品だからか調律はされていて、ここでピアノを弾くのが千尋の密かな楽しみになっていた。
「最初は叱られるんじゃないかとビクビクしてたけど、全然平気だった」
一年の夏休み前から通っているが、いままで誰かに注意されたことはない。おそらくこの教室が三階の一番外れにあり、窓を少し開けたくらいでは一般棟に聞こえないからだろう。
今日も少しだけ窓を開け、春の暖かな風を感じながらポロロンと鍵盤を弾く。
「気分的にはショパンかな」
鍵盤にそっと乗せた指が、まるで小さな犬たちが駆け回っているかのような旋律を奏で始めた。子犬のワルツは、とても小さい頃に母に教わった曲だった。クルクルと回るような音が楽しくて、飽きるまで何度も弾いたのを覚えている。
楽しくて踊りたくなるような音楽は、恋をするいまの千尋にぴったりだった。ほんの少し浮かれるような気分が指をますます軽快に走らせる。
「んー、気持ちいいなぁ」
ふふ、と笑った千尋は子犬とじゃれ合うように指を動かし、大満足で第二音楽室をあとにした。
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