第4話 うさぎの夜
「先輩、先輩っ」
「……」
「ほら、夜ですよ。もう起きてください」
「……む」
京子さんが目を覚ますと、目の前に一羽のうさぎがいました。
垂れた耳が特徴の、オレンジ色の毛並みをしたうさぎです。
「……」
「うさぎ」と聞くと、足元ほどのほんの小さな身体を思い浮かべるかもしれません。しかし目の前のそれは、京子さんの身体と同じくらいの大きさがありました。
そんなうさぎが、大きな黒目をぱちぱちと瞬かせながらこちらを覗いています。
「……陽花」
京子さんはうさぎに向けてそう言いました。
理由を訊かれても答えられませんが、その垂れ耳うさぎが陽花であることは直感でわかったのです。
「はい、先輩。おはようございます」
陽花もそう応えます。
いつもとかわらぬその声を聞いて、京子さんは深い安心感を覚えました。
周りを見ると、座席やつり革がずらりと並んでいて、前方には料金表の表示が見えます。バスだ――と京子さんは思いました。どうやら自分達はバスに乗ってどこかに向かっているようです。
内装は見るからに古くて、おんぼろの車体は道路の起伏に合わせてがたごとと揺れていますが、今の京子さんにはそれも穏やかなもののように思えました。
「……」
京子さんは一番後ろから二番目の座席の窓際に乗っていました。
外は暗く、黒い窓にはこれまた一羽のうさぎが映っていて、こちらのことをじっと見ています。
耳をぴん、と立てた様子のうさぎ――
試しにそれを動かそうとしてみると、耳は京子さんの思う通りに、ぴくり、と動きました。
自分の手や身体を見てみると、ふわふわの白い毛に覆われています。
なるほど、と京子さんは理解しました。
どうやら自分自身もうさぎになってしまっているようです。
「……」
「先輩?」
京子さんは、左隣の席にいる陽花の身体に自分の頭を寄せました。
彼女の胸の辺りの毛皮は暖かく、耳を澄ますと鼓動の音が微かに聞こえてくるようです。
「……」
「……まだ眠いんですか?」
「……うん」
まるでふかふかの枕にそうするように、京子さんは自分の頭を陽花の胸に押し付けながら答えます。その声は弱々しく、まるで母親にすがる子供のようでした。
そんな風に弱々しい姿も、子供のように甘えた声も、人間であった昼間の京子さんにとっては考えられない姿ですが、でも今は大丈夫。
このバスに他に誰が乗っていようと、陽花と自分が同じ性別であろうと、なんの問題もありません。
だって今は夜。ここは現実の世界ではなく、ふたりは人間でもなく、ただのうさぎなのですから。
★★★
バスは終点にたどり着き、ここからは歩きで向かうようです。
ふたりはならんでぴょんぴょん跳ねながら、深い闇へ続く坂道を登っていきました。
「先輩、大丈夫ですか?疲れてないですか?」
「ぜんぜん」
坂道は急で、うさぎの身体でそれを登っていくのはなかなかの重労働なはずでしたが、京子さんは不思議なほど疲れを感じませんでした。
うさぎというものは案外体力のある生き物なんだな――と京子さんはぼんやりと考えていました。
「でもなんでこんな坂を登ってるんだっけ?」
「それはですね、先輩に見せたいものがあるからですね」
「見せたいもの?」
すると、陽花が急に立ち止まりました。
どうしたの、と訊いても答えず、目を閉じて鼻を動かしています。
「あ、先輩、見てください」
陽花はそう言って、脇道の方へとぴょんぴょん跳ねていってしまいます。
「ま、待って。おいていかないで」
京子さんが慌ててそれについていくと、彼女の向かった先には、大きな青い花が一輪だけ咲いていました。
まるでクレマチスの花のように車輪状に咲いたその花は、よく見るとぼんやりと発光していて、中心からは甘い香りの蜜が滴り落ちています。
「あ、陽花――」
京子さんが止めようとする暇もなく、陽花はそのうさぎの口を青い花の中心にくっつけて、その味を確かめています。
「……うまい!」
嬉しそうに尻尾をふりながら、きらきらした笑顔で陽花はそんなことを言います。
「ほら、先輩も」
「え……」
警戒心の強いうさぎである京子さんはあまり気が進みませんでしたが、せっかく彼女が薦めてくれたのだからと、おそるおそるその花に口をつけます。
すると、
「……おいしい」
「ね?」
花からはミルクティの味がしました。
あんまり甘すぎない、京子さんの好きな味です。
「よく見つけたね」
「えへへ、あたし、先輩の好きなものに対しては、鼻が効くんですよね」
「……なにそれ」
そんなことを言われて、京子さんはその場でぴょんぴょん跳び跳ねたくなるほど嬉しくなりましたが、それはなんとか堪えました。
代わりに、自分の口を陽花のそれにくっつけて、キスをします。
「くすぐったいですよ」
「……いいでしょ」
「……いいですけど」
そんな風に恥ずかしそうにしながらも、きらきらとした笑顔でそう応えてくれる陽花を見て、京子さんの脳裏に、「幸せ」、という単語が浮かびましたが、果たしてそれに触れていいものかどうかはわかりませんでした。
「ねえ、見せたいものって、これのこと?」
「違います、これはあくまでおまけです。本命はもう少し先ですから」
「そうなんだ?」
「ええ、だから、もう少し、一緒にいきましょう」
「うん」
★★★
やがてふたりが頂上までたどり着くと、丘のてっぺんは銀色に輝いていました。
夜空にはいつのまにか月が昇っていて、その光が一面を照らしているのでした。
そのクレーターまでがはっきりと見えてしまうようなほど、大きな大きな丸い月。大きいなあ、すごいなあ、と京子さんがそれに見とれていると、
「先輩、来てみてください」
崖の端に立った陽花がこちらを呼んでいます。
「……うわあ」
思わず声が出てしまいます。
ふたりが見下ろした丘の下には、星が積もっていました。
普段は夜空に浮かんでいるはずの、あの星です。
それらは琥珀のように透明に輝きながら、現在進行形で降り続き、眼下の街並み――例えば、道路や車、信号機やマンション、大きな川に架かる橋や、がたごとと流れていく電車――を金色に包んで、まるで海底に沈む宝物のようにこの
「どうですか、先輩」
「……すごい」
「ふふん」
陽花は誇らしげな顔をしています。
「先輩が喜ぶと思って、ここに連れてこようとずっと思ってたんですよ」
「……ありがと」
すごく嬉しい――京子さんはそう言って、陽花の口にもう一度キスをします。
陽花もキスを返してくれます。
ふたりはしばらくそうやって時間を過ごしました。
ここではそんなふたりを邪魔するものはありません。
おんぼろバスも、ミルクティ味の花も、星のつもる街並みも、見上げた月も、誰もなにも京子さんのことを責めたりはしません。
だから京子さんは安心して、
「ねえ、陽花」
「なんですか、先輩」
「あのね――大好き」
と、自分の気持ちを伝えることができるのでした。
「……あたしも、好きですよ」
「ほんと?」
「もちろんです。だから先輩、いつか一緒に――あの月までいきましょうね」
「月まで?」
「ええ、だって、うさぎは月に住む生き物ですから。あたしたちもいつかそこに行って、そこで暮らすんですよ」
――そしたら、一生一緒です。
陽花が最後にそう言い加えたとき、京子さんはなにも答えられませんでした。
一生、一緒――その言葉があまりにも京子さんの本心であったので、それ以上の返す言葉が見つからなかったのです。
そんな風になにも言えずにうつむいた京子さんのことを、陽花はその胸で優しく受け止めました。
この夜が、もうずっと明けなければいいのに――京子さんは心からそう思って、その目を閉じました。
★★★
もちろん、京子さんにはわかっていました。
こんなの本当じゃない。
こんなのはただ逃げているだけだ。
現実でそれを叶える勇気がないから、こうして自分の見たい
おんぼろのバスも、ミルクティ味の花も、星がつもる街並みも、見上げた月も、うさぎの姿の彼女も自分も、何一つ本当じゃない。
こんな場所で嬉しくなったって、いくら距離を縮めてみたって、寄りかかってキスをしてみたって、一緒に暮らそうなんて言われたって――朝になったら、人間に戻ったら、虚しいだけなんだ。
そんなことも全部、京子さんにはわかっていました。
それでも、
「ねえ、陽花?」
「なんですか、先輩」
「私、今、幸せだよ」
「……あたしもですよ、先輩」
そういう風に想う自分の気持ちだけは、本当のものだと、京子さんは信じていたいのでした。
うさぎの夜 きつね月 @ywrkywrk
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