轍を踏んだ二人の事

紫鳥コウ

轍を踏んだ二人の事

 厄災にり荒廃した都には、賊に限らず悪人は多く、その罪というのは、平生へいぜいは保たれていた理性が唾棄だきされたことにより起こった事柄のほとんどを指すのですが、しかし、あの鋳物師いもじの男もまた、悪人のひとりに数えあげても差し支えないに違いありません。

 この男の罪というのは、悲しいことに、地獄絵から飛び出てきたような都の中で、正義とか倫理とか、理性を固持していなければ信奉できない観念を捨てきれなかったが故に、起こるべくして起きた事なのでございます。


 もしお暇でしたら、どうぞこちらの日陰に腰を下ろして、事の顛末をお聞きになってください。

 さて……いえ、烏帽子えぼしはこちらへ。ええ、ええ。


 さて、まずはその鋳物師の男の素性ですが、それについては格別言うべき事はありません。まあ、そんな男なのですが、或る日、長筵ながむしろの上に並べられた干魚ひうおを、ばばの目を盗んで、持ち去ったわらべを見かけたものですから、やはり追いかけて行ったのでございます。

 こう申しますと、婆が気の毒な人だと思われるかもしれませんが、彼女もまた有名な悪人で、或る郎党共と契りを結び、鮓売すしうりや禰宜ねぎなどから簒奪さんだつした物品を、自分の子の身と引き換えに分け与えてもらっていたのです。

 そしてまた、その刃にかかった鮓売りたちも、食えぬかどうか怪しいものを、飢えゆく者に高く売りつけて悠々と生活を営んでいたのでございますから、…………いえ、もうこれ以上、罪の網を引っ張っても仕方ありません。かの鋳物師の男の事へと話を戻しましょう。


 童は男から一目散に逃げておりました。いえ、もしかしたら、だんだんはっきりとしてくる罪悪の気持ちを追い払うために、疾走していたのかもしれません。

 その後、この童が、通りかかった檳榔毛びろうげの俥のわだちつまづいたこと、そして太刀を鞘に収めた某という若侍の水干を汚してしまったこと、のみならず、この某が都の荒廃とは似つかわしくない着物の大事に狼狽ろうばいし、狼藉ろうぜきを働いたこと、これらが光陰矢の如しと言う暇もなく起きたのです。

 さて、こうなりますと、若侍はお縄にかかるよりほかありません。が、当時の都のことですから、そう簡単に万事は進みません。この某はそれ相応の罰を受けるに足りる事をしました。が、鋳物師の男にその責任を転嫁することを、この若侍は思いついたのです。曰く、

「男が童を何時いつまでも追わなければ、わたくしにぶつかる事などあり得ますまい。確かに刀を走らせたのは私でございます。が、私とて、何の因縁もなしに童に手をかけた訳ではございません。私が刀を抜いたのには、あの男の方にも原因があると言えぬこともございますまいか」…………云々。

 荒廃とした都のことですから、必ずしも某の方へ一斉に罪を負わせようなどという力が働くはずがありません。むしろ今となっては、同情というものこそが、一昔前より一層、人々に訴求するようになっておりましたから。

 今度は鋳物師の男の方が、某という若侍の弁明に対して反駁はんばくせねばなりません。それは容易なことです。長筵の上に並べられた干魚を盗んだのは童です。盗みは罪悪ですから、追いかけて捕まえようとするのは、当然の事です。

 しかし、童の死骸を抱きかかえた母の涙が、轍の上に落ちて黒い染みを作っているのを目にしたせいで、それをはっきりと口に出すことができませんでした。

 この男はいま、あの童の死骸を押し付け合う土俵の上に立たされているのです。二人の生命いのちは、あの童の死骸をどちらが背負うかによって決する状態にあるのです。両人とも、生命は惜しい。

 しかし、この鋳物師の男には、こんな考えも浮かんでいました。


(誰か一人が、本当に悪いという事ではないのかもしれぬ。確かにわらべ干魚ひうおを盗んだ。が、俺は見逃すこともできた。のみならず、あのばばの悪事と比して、童に同情することさえできたはずだ。俺も悪い。もちろん、あの童も悪い。そしてこの若侍も悪い。皆、この一事において、何かしらの逃げ道を持ち合わせているが、皆、罪の意識に正直に捕縛されてしまった方が、公平で公正ではあるまいか…………)


   *   *   *


 あれから都は正気を取り返し、前のような賑やかさと豊かさが目に見えるようになりました。

 ちょうどその頃、或る國の或る村の外れの藁葺わらぶきの家に居る、或る仙人に関する逸事奇聞が洛中の大路小路を駆けておりました。

 そうした騒動ですから、或る殿様が、その仙人をここに連れてくるようにと家臣に命じたのは、自然の数でございましょう。


 さて、主の命を受けて、國境くにざかいの峠の中を、一人の侍が馬を走らせておりました。すると突然、馬の前脚が空を蹴ったのです。侍は慌てて手綱をさばきました。

 花曇りの日のことです。侍の目の前で、杖をついた童のような何者かが、幸福な微笑を見せていたのでございます。

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