器となった男

 リーラは夜、蝶子が寝泊まりしている部屋に居た。吸血のためだ。吸血鬼のような体になった蝶子にとって、人間の食事は間食にすぎない。テンシ化の症状を悪化させないためにも、1日一回、リーラの血を取り込む必要がある。


「朝ごはんは、何がいいですか?」

「そうだねぇ……ブレッチェンが食べたいな。日本にはあまり売ってないんだ。リーベも気に入るだろう」

「承知いたしました! 美味しいブレッチェンをご用意いたします」


 ブレッツェンはドイツの朝食で多く食べられるパンだ。少し小さめで丸く、可愛らしい見た目をしている。味は派手ではないが、パンそのものの甘味があって美味しい。

 リーラは自身たっぷりに胸に手を置く蝶子に、クスリと笑いながら首をかしげた。


「チョウコ君、お喋りもいいが……もう夜も遅い。そろそろ血を飲みたまえ」


 蝶子はぎくりと肩を跳ねさせる。別に彼女と会話する事に疲れは無いし、むしろ楽しい。だが明日のため、彼女の吸血欲求を抑えるためにも、早めに済ませたほうがいい。しかし蝶子は、何故かはぐらかすように会話を繋げようとしていた。

 ローズティーのような目が不安定に揺れ、リーラを見るとまた逸らされた。何かしてしまったのかと、リーラは訝しんで片眉を上げる。蝶子は目をぎゅっと閉じ、顔を赤くして弱々しく言った。


「目のやり場に……困るんです」


 リーラは風呂上がり。ガウンを着ていて、その下は下着だけ。彼女は肌に布が密着していると窮屈で眠れないタイプで、もう何年とこのスタイルだった。蝶子にとっては直視が敵わず、ましてや近づくなんて到底できない。

 リーラは目をパチクリさせ、改めるように自身を見る。確かに谷間は見えているが、長い丈だし、足を組んでも平気だ。


「一応隠すところは隠してるんだがな」

「それが余計にです。人は隠れているからこそ色気を見出すんです。絶対領域というのをご存知ですか?」

「ご存知ないねぇ」


 なんだその攻撃力の高そうな名前は。そんな事を思ってリーラは可笑しそうにする。蝶子は顔を両手で隠して悶えた。それでも耳まで赤いのを隠しきれない彼女に、リーラは悪戯げ笑う。


「なら、次からはちゃんと服を着ようかな?」

「…………ごめんなさいご褒美なのでそのままでお願いします」

「はははは! そう言うと思ったよ。おいで」


 手を差し出された蝶子は「うぅ~」と小さな呻き声のようなものを零しながら、小さな牙が見える口を食いしばる。しかし負けたように、微笑むリーラの手を取った。


「僕死んじゃう……」

「物騒だな。さて、どこがいい?」


 1番効率よく血を吸える場所と言えば手首や首筋。チラリと視線が向いたのは、艶やかな黒髪が少し隠す首筋。しかし蝶子にはそこを申し出るほどの勇気はなく、手でそっと黒い手首を撫でた。リーラは視線の動きで本能を理解していたが、彼女が選んだのだからと何も言わず、腕を差し出す。


「い、いただきます」

「どうぞ」


 薄く口を開いたが、中々躊躇ってかぶり付かない。蝶子の頭の中で、血に染まる父と母が鮮明に思い浮かぶ。

 これは違う。衝動を抑えるため、一口だけ。こうしないと、また誰かを殺してしまう。蝶子はそう言い聞かせ、目を固くつぶりながら人間よりも分厚い皮膚を牙で破り、溢れた血を飲んだ。血が舌の上に伝った瞬間、蝶子は赤い目を驚いたように見開く。心臓が大きく震えるのが分かった。体に染み渡る感覚は快感で、両親を吸い殺した時に感じた満足感を優に超える。

 一生堪能していたい。しかしその本能に反して、蝶子の口は数秒で離される。高揚した様子の彼女に、リーラは頭を優しく撫でて「いい子だね」と言った。よろけた蝶子の体をそっと抱き留め、ベッドに寝かせた。


「ワタシの血は、テンシの体にとって薬でもある。それが直接だからね。それもキミにとって血というのは、他の子と感じ方も大きく違うだろう」

「は、はい……な、なんか……体がふわふわします」

「うん、よく効いている証拠だ。今日はゆっくりお休み」


 吸血衝動を満たすと同時、快楽を感じる作用がある。リーラは平気だが、蝶子には少し強いだろう。

 蝶子は初めての感覚に、少し戸惑いを浮かべる赤茶色の目でリーラを見る。リーラは「おやすみ」と、まじないの口付けを額に落とし、部屋を出た。

 あの反応は、リーラの血が溶け込んでいる証拠だ。やはり血の相性がいい。これなら生きている間に、彼女を人間に戻せるかもしれない。蝶子の「人間のまま生きて死にたい」という願いは、叶えてあげたい。永遠に近い時を生きるからこその同情だ。

 真夜中だと言うのに、廊下は窓からの月光で電気要らずに明るい。雲一つない空に満月が昇り、紫の目が眩しそうに見つめる。


(……ワタシが死ねる体だったら、あの時一緒に)


 リーラは馬鹿馬鹿しいと笑い、こちらを見つめる月から顔を背けた。


 月がよく見える窓を、ルチナはうっとりとして見つめている。レーレから聞いた情報では、魂のままずっとこの世に留まっていたらしいが、その間の事はほとんど覚えていない。まるで空虚だ。だから、こんなに綺麗な月を見るのは久しぶりだった。


「お待たせ」

「あ、リーラ。今日は月がとっても綺麗ね」


 ルチナは、風呂から部屋に戻って来たリーラに振り返る。しかし今度は、彼女を夢中になって見つめた。じーっと集中しだしたルチナに、リーラは不思議そうに片眉を上げた。


「リーラのお顔、ずいぶん変わったのね」

「……? あぁ、肌の事か」


 そういえばまだ幼少時代、自分の正体すら分かっていない頃は、肌の色は人間に近い白だった。少し無防備にガウンに包まれた肌も、下ろした髪先の紫色もルチナには珍しいのだろう。ベッドに座る彼女の隣に腰掛けると、興味深そうに髪の毛を小さな手がすくった。


「綺麗ね。まるでアメジストみたい」

「はは、ありがとう。しかしそんなに見つめたら、危険だよ」

「あら、どうして?」

「ワタシは悪魔と天使の娘だからね。知ってるか? 悪魔は人間を誘惑するために、綺麗なものを持っているんだよ」


 そう言って、リーラはルチナの頬に手を添える。冷たく硬い肌は刃物のように鋭利で、ルチナの柔肌なんか、一瞬で切り裂かれそうだ。まるで今にも、悪魔が小さな少女を喰らいそうに顔が近づく。しかしルチナは全く怯える様子はない。変わらない笑顔で、リーラの手に擦り寄る。


「なら悪魔は全然怖くないのね」

「これでも結構強いんだけどなぁ」

「本当よ? あなたの正体がなんであれ、とても優しい事には変わりないもの。大好きなリーラのままだわ」

「……いいや、ワタシは悪魔だよ。正真正銘」


 低く呟かれた言葉に、今まであった揶揄いの色は含まれていない。光に透かしたエメラルドのような、美しい目。リーラの光を含まない暗いアメジストの目が、静かに伏せられる。


「先生は……ヤネスは死んだ。キミが孤児院を出て、7年後のことだ」


 ルチナが度々呼んでいた【ヤネス】という名前。それは2人の恩師である、教会の牧師。心優しく、清らかで、まっすぐな人だ。傷付いた子供たちを数多く救った人。

 ルチナの小さな手が、そっとリーラの灰色の頬を撫でる。促されるように、彼女の口は続きを形作った。


「ワタシを庇って殺された。ワタシが居なければ……もしくは、逃げられる足があったらあの人は──」

「リーラ」


 憤りに昂るリーラの唇に、そっとルチナの華奢な指が添えられる。彼女の指に力は入っていない。しかしリーラはハッとしたように、言葉を止めた。ルチナは眉を下げて微笑むと、昔よりも大きく広くなった背中に腕を回す。


「リーラ、あなたはいい子よ。他人の事を許せる子。でも、自分の事は絶対に許せない」


 リーラは完璧主義だ。しかも自分限定の。それは狩人代表の今に始まった話ではない。小さい頃から、誰かに頼る、甘えるという事をしない。甘やかす方法は知っているのに、甘える方法は知らないのだ。それはもちろん、幼少期の環境がそうさせた。

 そんな彼女を救うには、許す人物が必要だった。昔はそれがルチナや、ヤネスだった。


「過去の事は変えられない。あなたは、今を生きているんだもの。だから過去の存在である私が、あなたを許すわ」


 リーラは小さな背中に手を回し、目を閉じると深く、長く息を吐く。

 いけない。故郷に来てから、傷心してばかりいる。こんな事では、代表として失格だ。もう自分は立てる足があり、誰かを庇う腕もある。全ては終わらせるために。


「……天使が来たんだ。教会に」

「うん」

「先生とは、知り合いのようだった。あの日の前、先生はワタシにとっての幸せや夢を聞いたんだ──」


 ──外の景色を見ていたヤネスの海のような目が、ふとリーラに向く。彼は尋ねた。「リーラは、何があれば幸せ?」と。突拍子のない質問。しかしリーラはただ「今が続けばいいよ」とだけ答えた。遠慮してるわけではなく、本心だった。リーラにとって、その時間は何にも変えられない、かけがえのないものだったから。だから「これ以上は、何もいらない」と、小さく付け加えた。ヤネスは驚いた顔をしたが、すぐに「そうだね、僕もそう思うよ」と、優しく微笑んで言った。

 それから数日後だった。いつも通り、子供たちと一緒に祈りの時間を過ごした時。ステンドグラスに重なるようにして、眩い光とともに天使が姿を現した──。


「先生は、天使と何か話して……そして、みんな殺された」


 正直に言うと、その瞬間の事はあまり覚えていなかった。ただ、天使が「幸せを与えよう」と、子供たちに手を差し出した。その瞬間、周囲が血の海と化した。ヤネスは天使に止めるよう叫んで、残されたリーラを庇うように抱きしめた。


「先生の体は、ワタシごと天使の持つ剣で貫かれた」


 リーラは無事だった。それは彼女が特殊な血を持っていたから。後に知ったが、あの剣はただの刃ではなく、天使の核で作り上げた物。浄化できるリーラには、効かなかったのだ。そして、ヤネスは絶命した。


「話してくれて、ありがとうリーラ。だからあなたは、テンシ狩りをしているのね?」

「ああ」


 天使たちへの復讐のため。そしてもう一つは。


「ああ、もうこんな時間か。ルチナ、少し先に寝ていてくれ。ワタシは葉巻を吸ってくる」

「夜更かししすぎちゃダメよ?」

「ふふ、分かってるよ、姉さん」


 リーラは「おやすみ」と、ルチナの額にキスをする。彼女の体に毛布をかけ、部屋を出た。渡り廊下が囲む中庭のベンチに腰を下ろす。


「すまないルチナ、全ては話せない」


 深く吸った煙とともに、懺悔をこぼす。もちろん嘘は言っていない。ただ、ヤネスが死んだその後を語っていないだけだ。

 言えるわけがない。ヤネスが……あの人が、楽園化を目論む張本人になっただなんて。

 貫かれたヤネス。その体から6枚の巨大な翼が生まれ、彼はヤツの器となった。あの、楽園化のためにテンシを作り続けるあの男の。本来、ヤネスは大天使の器候補だった。しかし完璧ではなく、楽園を作るには力が足りない。先生を器にしたヤツは、そう言っていた。そうしてテンシを作り続け、リーベという完全な大天使を生み出した。

 死ねなかったリーラは、一部始終を見ていた。見ているしかできなかった。ヤツらは勝手に先生を、友を、幸せを奪っていった。楽園化だかなんだか知らないが、どうしてあの平穏を奪われなければいけなかったのか。

 バキッと、葉巻が折れた。この怒りが、彼女を生かす。この怒りが、彼女にとって全て。


「ヤツを殺すまで、ワタシは死ねない。なんとしても、殺す約束を果たす」


 先生の体で、これ以上好きにはさせない。あの頃は叶わなかった、今を守るために。

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テンシを狩る者 小枝 唯 @moerder2015

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