最悪を招く夢

 一面の青い花畑。今は太陽が姿を隠し、丸い月が地上を優しく照らしている。月光によって、花が星のように見えた。まるで星空の中を歩いているような錯覚を覚える。

 診療所が、ポツンと寂しげに佇んでいる。広い土地だというのに、あり余る余白の中で二階建ての家は小さく思えた。


(……グレースが寝ているのか)


 この世界に、時間の概念は無かった。ここは、ギヴァーが心を病んだ者たちのために用意した、特別な空間。この世でもあの世でもない、特別な場所。時間が無くとも、太陽と月は存在している。もちろん本物ではなく、ギヴァーの思うままに昼にも夜にもできた。基本、グレースやノアが寝て起きる時を見計らって、2人が落ち着いて生活できるよう調整してくれる。

 ここに訪れる者たちはみな、心を壊した者。普通の病院と違って金も取らなければ、予約もできない。来るべき者が迷い込み、ギヴァーと会話するのだ。定期的に来る患者もいれば、一度きりだけの人間も居る。

 どんな治療法か? 人間世界にあるカウンセリングと同じだ。薬は使わず、ただ話をする。ギヴァーの淹れる紅茶やコーヒーは、不思議と患者の症状を和らげる効果がある。しかし、それでも救われない者は居る。そんな相手には、天使の核を渡していた。ギヴァーにとって、それは心を解放できる、最終手段だ。


(……甘ったるい)


 ノアは怪我によって味覚や嗅覚を失っていた。だから花の香りなんて分からない。しかしノアにとっては甘かった。この空間自体が、吐きそうなほど、甘い。

 突然、包帯からわずかに見える目が丸くなり、その場にうずくまる。痛い。体が激痛を訴えた。いつも思い出したかのように、体が壊れているのを訴える時がある。


「ノア」


 ノアは真上から降った柔らかな声に、かろうじて顔を上げた。ギヴァーはすぐにしゃがみ、彼と視線を合わせる。少し心配そうな表情で、鎮痛剤を渡した。いつもノアが服用している、気休めの薬だ。ギヴァーの手にかかれば治せるが、ノアは頑なに拒んでいる。

 ギヴァーはノアが落ち着いたのを見計らって、そっと手を引いて立たせる。


「少し、無茶をしすぎたみたいだね。もう休みなさい」

「……一つ、ご報告を…………大天使と、日本代表が、ドイツに。夢の天使の、調査で……」

「そうか」

「夢の、天使が……考えが、ある、そうです。代表の、夢を……ゲホ、ゴホッ!」

「彼女の夢?」


 ギヴァーは記憶を辿るように、紺色の空に昇る鏡のような月を見上げた。リーラの夢は、たしか、とても儚かった。何も特別を望まない、欲のない夢だ。しかしそれは、叶えてあげられなかった。となれば、もう一つの──。


「……あまり、リーラをいじめないであげてくれ」


 部屋へ続く廊下のドアノブを回した手を、ノアは止めた。ゆっくり振り向くと、その言葉を呟いたギヴァーは思った通り、眉を下げた微笑みを浮かべている。


「…………それは、あなたの感情では、ありません」

「ああ、そうかもしれないが」

は、器です。楽園化に、彼女は邪魔だと、お忘れなきよう……」


 掠れて潰れた声が紡ぐ言葉は丁寧だが、まるで忠告に聞こえる。ギヴァーを見る目が睨んでいるかのように鋭い。視線の絡み合いは、ギヴァーが青い目を閉ざした事で終わった。


─── **─── **


 人里離れた、湖の中央に立つ屋敷。そこは比較的静まり返っている事が多い。しかし今は、キッチンを中心に何やら賑やかだった。蝶子が3人を集めたのだ。そして彼女を中心に、家主のリーラが帰ってくるまでにお菓子を作ろうという、楽しい企画を考えた。


「今日作るのは、アプフェルシュトゥルーデルです」

「あぷ……?」

「アプフェルシュトゥルーデル!」

「作れるのか?」

「はい、母とよく作ってました」


 えらく長い名前にリーベは首をかしげる余裕もなく、ただぽかんとする。ゾネは何度か食べた事があるのか、尻尾が嬉しそうに揺れている。

 アプフェルシュトゥルーデルとは、ドイツでポピュラーなケーキだ。だから選んだというのもあるが、1番の決めては、ゾネとリーベの事を考えたから。この料理過程には、りんごを薄い生地で包むという行動がある。それは子供がやっても難しくなく、むしろ遊び感覚で楽しめるだろうと思ったのだ。

 ゾネはリーベに、単語でだがりんごを使った美味しいケーキだと、楽しげに説明している。


「ギャレンさんは、お菓子作りの経験は?」

「いや……」


 ギャレンは気まずそうに目を逸らして、さらに言い淀んで咳払いする。不思議そうにする蝶子に、小さく「黒いパンは得意だ」と呟いた。料理が得意な彼女は、驚きのあまり理解が及ばず、ただ「黒いパン……」と繰り返す。


「リーラと一緒!」

「……砂糖を入れすぎても、入れなさすぎてもダメ……成功する方が変だ」

「目分量は絶対禁止です。お菓子作りにはもってのほかですよ」

「そ、そうなのか」

「1グラム違うだけで、味が変だったり生地が膨らまないって事もありますからね」


 蝶子にひと蹴りされたギャレンは、もう疲弊したように渋い顔をする。彼は頭脳派だと思っていたから、心底意外だ。しかもゾネが言った「リーラと一緒」も気になる。つまり彼女の得意料理も、焦げで黒くなったパンという事か。

 蝶子は気合いを入れるように深く息を吐く。


「下準備はできてます。あとの難しいところは、僕に任せてください! みんなで、美味しいケーキを作りましょうね」

「お手伝いは任せてくれ!」

「やる!」

「……善処する」


 まずギャレンは蝶子と一緒に生地を作り、ゾネとリーベはその間、包むりんごの皮剥きなどを担当した。生地を麺棒で広く伸ばし、用意していたクラム、りんご、ラムレーズを敷く。慎重に巻くのは、予想通りゾネとリーベがやりたいと立候補してくれた。

 巻き終えたのを蝶子が整えて、バターを縫って竹ぐしなどで生地に穴を開ける。あとはオーブンで焼き上がるのを待つだけだ。

 ゾネとリーベは、体を密着させてオーブンの中をずっと覗く。微笑ましい姿に、蝶子は洗い物をしながら眺めた。


「君は、器用なのだな」

「自由だったのは、手を動かす事でしたから、自然と手先のものが得意になったんです」

「そうか」


 隣で使った道具を洗うギャレンは、じっと自分の手元を見ながら思い出したように呟く。


「君の事件を担当した時、正直こうなるとは、思っていなかった」

「そ、その節はすみませんでした……」

「責めてるんじゃない。ただ、写真を見る限り愛のあった家庭なのは分かったから、これ以上罪を負ってほしくなかった。私は、ゾネやリーラ様のように、うまく言えないが」


 ギャレンは厳しい性格だ。しかし彼も人間。こういった事件に胸を痛める事はある。ギャレンは顔を上げ、驚いた様子の蝶子を見た。


「生きていてくれて、良かったと思ってる」


 ギャレンは不器用だ。しかしそんな彼の言葉にも、これまで蝶子は救われていた。気を負う必要はない、堂々といていればいいと、下を向きそうになのを、何度もそう言って背を押してくれた。

 蝶子は涙ぐみながら、微笑んで「ありがとうございます」と小さく言った。


「それに、君はリーラ様のお気に入りだし」

「へっ⁈」

「? 君だって、想っているのだろう?」

「いや、いやいやいやいや、僕はただ推せていただいているだけであって、認知してくださっているのももう奇跡で」

(急な日本語……)


 ギャレンは日本語に明るくなく、言っている事を理解できなかった。しかしたとえ日本語を知っていたとしても、今の蝶子の言葉を理解できるかどうかは、また別の話だろう。

 遠くの方で、小さな鐘が鳴るのを聞いた。これは、リーラが鳴らす呼び鈴。気配が近くにないからだろう。


「リーラ!」

「帰ってきたのか?」

「すず鳴った、玄関」


 狼の聴覚力を持つゾネは、さすがの反応だ。


「すず?」

「呼び鈴だ。君も来るか?」

「はい、お出迎えさせてください」


 全員でリーラを出迎える事になった。しかしキッチンを出た時、ゾネは怪訝そうな顔をして鼻を動かす。


「どうした?」

「テンシ」

「わたしの核の気配がする」


 ギャレンと蝶子は驚いて顔を見合わせる。どうやら帰ってきたのはリーラだけではないようだと、皆は玄関へ急いだ。

 リーラの隣に居たのは、見知らぬ少女。彼女はリーラと手を繋ぎながら、興味津々に広い玄関を見渡している。


「やあ、みんなで出迎えか。ありがとう」

「リーラ、おかえり!」

「おかえりなさい、リーラさん」

「ただいま」

「おかえりなさいませ、リーラ様。その、隣のは」

「彼女はルチナ。新しいテンシだ」

「まあ! リーラにはたくさんの家族がいるのね」


 ルチナはそう言って花のように微笑む。警戒しているゾネはその顔に既視感を覚えた。そうだ、唯一残る古い写真の中、小さなリーラと一緒に写っていた少女だ。リーラが昔、話してくれた事がある、大事な存在。


「初めまして、私はルチナよ。よろしくね」

「ルチナ、わたしはリーベだ!」

「蝶子と言います」

「あら、珍しいお名前ね?」

「日本出身なんです」

「まあ素敵!」


 3人は仲良くなれそうだ。そう思いながら眺めているリーラに、ギャレンはそっと耳打ちする。


「夢の天使の被害者ですか?」

「ああ。それも彼女は、とうの昔に亡くなっている」

「わざわざ魂を?」


 こんな事例は初めてだった。数少ないが、動物の願いを叶える天使は居た。しかし大抵、まだこの世に肉体がある存在が対象のはず。そこで気になる事がある。どうして天使は、初めての事例でルチナに目を付けたのか。それは単に、彼女の未練の強さだけではない気がするのだ。


「夢の天使はどうやら、ただ願いを叶えるのが目的ではないようだ。3匹にはもう情報を渡してある。アルフレッドに、写真に写っていた例の少年について、情報収集を頼んでくれ」

「承知いたしました」


 ギャレンは会釈し、早々に去って行った。すると彼が居た場所に、今度はゾネが立つ。彼はリーラをじっと、少し心配そうな顔で見つめていた。リーラは一瞬、どうしたのかと疑問を抱いたが、彼が写真でルチナを知っているのをすぐ理解した。

 リーラは「大丈夫だ」と言って、いつも通り微笑みながら頭を優しく撫でた。ゾネは心が乱されているのを心配しているのだ。


「リーラさん、さっきアプフェルシュトゥルーデルを作ったんです。ちょうど焼き終わる頃ですから、ご一緒にどうですか? ルチナさんもお好きだそうですし」

「わたしもお手伝いしたんだ!」

「オレも!」

「すごいじゃないか。ありがとうみんな。いただくよ」

「あれ、ギャレンさんは」

「すまない、少し頼み事をしたんだ。切り分けてあげてくれるかい?」

「もちろんです」


 食堂に向かうと、近くのキッチンからいい香りが漂ってきた。ちょうど出来立てだ。蝶子が切り分けてくれたアプフェルシュトゥルーデルは、生地から熱そうな湯気が立っている。しかし彼女はそれと一緒に、別の箱も持ってきた。


「今日はここに、バニラアイスをトッピングします!」

「アイス!」

「!」


 リーベとゾネは興奮に席を立ち上がる。カフェなどで出てくる時、アイスが乗っている事が多い。熱々の上に冷たいアイスが乗ると、味はさらに美味しくなった。


「突然お邪魔しちゃって、いただいていいのかしら?」

「はい。人数が多ければ多いほど、一緒に食べれば美味しくなるものですから」

「しかし大したものだね。すごいよ」

「えへへ……恐れ入ります。冷めないうちに食べましょう」


 久々に食べる故郷のお菓子は、美味いだけでなく暖かい気持ちになる。しかも今は昔よりも賑やかで、リーラはそれぞれの顔を見て、目を細めて笑った。この光景が続けばいい。いや、自分が続けさせる。そのためにこの力を手に入れたんだ。

 ふと、ルチナの口元に食べかすが付いているのに気づく。リーラがティッシュで拭くと、ルチナは可笑しそうに笑った。


「昔は逆だったのにね」

「はは、そうだね」

「ねえリーラ」

「ん?」


 ルチナは透き通る新緑の瞳で、数秒の間じっとリーラを見つめる。その顔は幼いが、どこか大人のような雰囲気を感じた。


「あなたは、ちゃんと幸せ?」


 リーラはそれに顔をキョトンとさせる。しかしすぐ小さく笑うと「ああ」と、心から頷いて返した。


 賑やかなティータイムは終わり、リーラはルチナを自室に招いた。しかしその間、ルチナはどこか遠い場所に思いを馳せている。テンシとなったばかりの、しかも急に肉体を手に入れた彼女だ。どこか体調を崩したかと、リーラはベッドに腰掛けた彼女を心配そうに顔を覗きこむ。

 やがてルチナは小さく「あのね」と呟いた。


「天使は、私に声をかける時、名前を呼んだわ。そしてね、リーラの事も知っていたの」

「なんだって……?」


 やはり、夢の天使は偶然ではなくあえてルチナの夢を叶えたのだ。ではなんのために?なぜルチナでなければならなかったのか。

 ルチナは目を閉じて、昨晩の事をよく思い出す。


「私の願いが叶えば、リーラの夢も、同時に叶うって言っていたわ」

「ワタシの、夢……?」


 心臓が緊張に重く跳ねる。リーラの夢は、今が続く事。しかしそれだったら、ルチナが生き返る必要はない。だとすれば、もう一つの夢。それは平凡だが、リーラにとっては最悪を招く夢だった。

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