煙草の香りは想い出と共に

和尚@二番目な僕と一番の彼女。好評発売中

煙草の香りは想い出と共に



 俺は、改めて何もなくなった部屋を見渡した。

 12畳の部屋に家具が無くなると、本当に広く感じる。大学生が二人で住むには程よい家賃と、風呂トイレ別、キッチンはこじんまりしているものの三口のコンロが置けるサイズ。


 カーテンすらもなくなったベランダに直通している大きな窓の外には、星が沢山瞬いているのが見える。三階建でも、傾斜の途中にあるマンションなので、景色の邪魔も入らなかった。


 窓を横にスライドして開けて、俺は外に出る。

 今この家にあるのは、煙草と灰皿と、今日の一夜だけを明かすための寝袋。

 それ以外のものは、全て処分するか新生活のために送ってしまった。


 高校を出て、初めて尽くしの一人暮らしの中で四年間をこの土地で過ごした。

 夜八時には暗くなるし、冬は路面が凍るから自転車は季節限定だし、坂道が多いから車が無いとやっていけない、飲み会で外で寝たら凍死の危険があるから、全員が酔いつぶれることなんて出来ない。


 そして、正直他の大学は知らないけれど、都会というわけでは無い場所にあるここでは、皆実家を出て一人暮らしをしていて、そして一年ほど経つと結構な面々が同棲を始める。

 一人が寂しい事もあってそういう関係になりやすいのかもしれないし、もしかしたら物理的に寒い地域であることも関係するのかも知れない。

 そして結果的に同棲に繋がるのは、その方が楽だからだ。


 かくいう俺も、そんな流れに沿った一人だった。まぁ、かなり遅い方だったが。

 バイト先で仲良くなって、家まで送っていく関係になって、ちょっとした事件からそういう関係になって、付き合いだしたらどちらかの家に帰ってばかりで二つ家があるのは無駄だよねという話をした。


 そしてどちらの家も解約して、二年前から二人で住み始めたのがこの家だった。


 最後の日で、感傷的になっているのはわかる。

 煙草の残りの本数は四本、もう買いに行くことも無い。

 少し甘い香りのする、黒い悪魔を模した箱。これを見るのも最後だ。


 明日の朝、ここを出たらもうこのベランダからの景色も、こうして吸う煙草の香りを嗅ぐこともないのだろう。そう思って一本ずつ、大事に火をつけながら、この二年を思い出す。




 ◇◇ 一本目 ~邂逅かいこう~ ◆◆




 彼女と出会ったのは二年生になったばかりの春のことだった。

 実家ではもう散っていると聞く桜の花は、標高が高いこの街では入学式に満開となる。


 通っている大学のみならず、道行く人が新生活への期待に胸を膨らませている中、俺はいつもの通り歩いてバイト先の居酒屋へと足を運んでいた。

 居酒屋と言いつつ、昼にはランチも提供している店だ。大学に少しなれた去年の夏にオープンスタッフとして入ってもう半年以上になるか。既にバイトが生活の一部となっている俺にとっては、年次が変わろうとも何も変わらない一日のはずだった。


「お、相変わらず早めに来るね、感心感心」


 店の裏口に回ると、同じくオープンスタッフで入って気安い付き合いとなっているキョウカさんが煙草を吸っているのが見えた。

 俺に早いと言いつつ、それよりも早く着替えて一服しているのが彼女だ。

 一つ上の三回生で、気怠げな態度をいつもしているが美人なことは間違いない。ホールスタッフとして営業スマイルを振りまいているとまるで別人のようで、彼女目当ての客も割といるのではないかと思っていた。


「おはざっす」


 俺もいつものようにおざなりな挨拶をして、店の中に入ろうとすると、今日は呼び止められて言葉を告げられる。


「あ、今日からキッチン志望で新人が入るからよろしくね。私の知り合いだから優しく扱うように」


「え? そうなんすか? 今日からってことは一回生? いや流石に入学式だから無いか」


「うん、うちの学部の一つ後輩の子でね、コンビニでバイトしてたんだけどそこで変なお客さんに当たっちゃったらしくてさぁ。そこは辞めちゃったんだけど、でも生活費とかもあるしすぐにでも入れてっていうバイトを探してるっていうから。料理も得意みたいで、ここのキッチンなら変な男も居ないし、私も居るしってことで入れてもらった」


「…………なるほど、とりあえず変な男ではない認定されてて良かったです」


「くふふ、ちなみにめちゃくちゃ可愛いから。多分フリーだけど、変に気まずくさせないように注意ね!」


 煽りたいのか釘を差しているのか分からないそんなセリフに、俺はため息をついて言った。

 女が言うめちゃくちゃ可愛いは信用ならないし、それに。


「明らかに男が苦手そうな子にちょっかい出すほど空気読めなくもないですし、何よりそんなバイタリティがあったら既に彼女が出来てます」


「あはは、ヘタレだもんねぇキミ」


 そうからかってくるキョウカさんの言葉には何も言えない。

 以前酔っ払った際に、ちょっとそういう雰囲気になりかけたところを、付き合ってるわけでもないのにそういう事は出来ないと、変な拘りを持って踏みとどまって以来、彼女はこういうからかいを言うようになったのだ。仲良くはなったものの、それ以降そういう感じには一切ならないため、今でもあれが正解だったのかわからない。


「お疲れ様ですー」


 そう言いながら二階の更衣室兼休憩室に向かい、先程のキョウカさんの言葉を思い出して念のためノックをした。

 そうすると、ちょっと待ってください! と聞き慣れない可愛い声がして、どたばたと何かが落ちる音がする。


「えっと、大丈夫ですか?」


「ごめんなさい! ちょっと貰ったシャツがサイズが合うか試してるとこで…………」


「あ、なるほど。ここ更衣室一つしか無いんで、来てきちゃうかトイレで着替えるんですよね、ノックして良かったです…………その、俺も時間あるから焦らないでいいんでゆっくりで、オッケーになったら声かけて下さい」


 そうして少しの待ち時間の後で、ガチャリとドアノブが回って開いた扉から出てきたのは美少女としか言いようがない女の子だった。

 染めたことはなさそうな黒髪に、大きな猫を思わせるような瞳、髪と対象的に白い透き通るような肌、主張しすぎない鼻に、桃色の唇。

 一言でいうと、めちゃくちゃ好みの女の子だった。自分の好みってこういう外見をしているのか、と自分で気づくほどに。


「…………」


「えっと、すみませんでした、どうぞ…………あ、私今日からお世話になります、杉崎奏すぎさきかなでと言います」


 そして、一瞬見とれてしまっていた俺は、おずおずと謝罪と自己紹介をする彼女の言葉にはっとして、慌てて自分も自己紹介をする。


「あ、こっちこそ慌てさせてごめん! えっと、佐久間雄二さくまゆうじって言います、キョウカさんから聞いたけど、多分同じキッチンスタッフになると思うんでよろしく」


「よろしくお願いします。あ、私じゃあ下に降りてますね」


「ああ、店長とキョウカさんは居ると思うから」

 

 すれ違い様に、ふわっと、物凄くいい匂いが漂った。

 そして、入れ替わりに扉を閉めると、狭い部屋の中には、今感じたのと同様の良い匂いが残っている気がして。それにドキドキしている自分に引きながら、俺は着替えたのだった。


 今にして思えば、この時の出会いが、俺にとって人生で初めての一目惚れというやつだったのかもしれない。




 ◇◇ 二本目 ~変転へんてん~ ◆◆




 ピーピー、という電子音とともに際限なくオーダーの紙が垂れ流されてくる。

 夏の暑さと忙しさによる熱気で、俺は少し頭がぼーっとしながらもただひたすらに機械のように手を動かしていた。


「雄二くん、水分ちゃんと取ってね、フライヤーは特に暑いから熱中症になっちゃうから」


 サラダ場を担当している奏が、補充のついでにジョッキに入った水を持ってきてくれるのに礼を言いながら、俺たちは地獄のような忙しさの真っ只中にいた。



「いやー、流石に祭りの夜はやばいねぇ…………ひっきりなしにお客さん入ってくるし」


「マジで死ぬかと思った、来年もここにいたらこの日は出たくねぇ。店長、この日だけは同じ時給じゃ納得いかねぇっすよ」


 深夜一時のラストオーダーが終わり、その後の片付けも終わった後着替えた俺は、同じく着替えて上がっていたキョウカさんと店長と、煙草を吸って帰る前の一息をついていた。


「ふふ、雄二くん大活躍だったねぇ」


「いや、奏こそ半年も経ってないのに手際良くてマジで助かった。これで奏以外と組んでたら今日は乗り切れなかった気がするわ……水とかもありがとうな、あれ無かったらまじで倒れてたかもしれん」


 一瞬朦朧もうろうとしながらも、よくオーダーを読み取っては正確なレシピで作って提供できていたものだ、身体に染み込んだスキルはバイトと言えど凄いものだと思う。


「ふふ、それはお互い様ってことで」


 そう言って笑う奏に、俺は目を釘付けにされてしまう。

 初めて出会ってから四ヶ月程。バイト内での暗黙のルールのおかげでもあるが、下の名前で気安く会話できる関係になってなお、そのはにかむような笑顔には慣れないでいた。

 同じ二回生ということもあって、そしてお互いバイトがメインな生活をしていること、少なくとも週に四回は会っていることもあってか、奏は特に俺に対して近しい距離で接してくれている。

 勘違いしてしまいそうになる心を、同僚だからだとそっと押さえながら、煙草の煙を空に吐き出した。


 それをニヤニヤしながら見ているキョウカさんと店長の視線もわかっているからいたたまれない。


「さ、そろそろ閉めちゃうけど皆忘れ物はないね……じゃあお疲れ様でした」


 店長がそう言って店の施錠をすると、キョウカさんを伴って車に向かって立ち去っていく。

 いつからそういう関係なのかは明確には把握していないが、いつの間にか店長とキョウカさんは車で一緒に帰っていくようになった。


 そして残された俺はというと。


「いつもごめんね」


「いや、奏をこの時間に一人で帰らせるほうが怖い。ただ、ちょっとばかし吸い終わるまで待ってて」


「いいよ、煙草ってくさいと思ってたけど、その匂いは何だか好きだから」


 自分に向けられた言葉ではないのに『好き』という言葉の響きにどぎまぎしてしまっているが、努めてそれは表に出さないようにする。


 店のクローズまでいると日付も変わり深夜だ。不審者というよりは人自体が少ない帰り道ではあるものの、暗い夜道を女の子、それも極上の美少女とも言える奏を一人で帰らせる気はなかった。

 出会ってからというもの、俺と奏はこうして、仲の良いバイト仲間としての関係を培っている。


 キョウカさんに聞いていた通り、前のコンビニでストーカーとはいかないまでも、連絡先をしつこく聞いてきていた男性客が居たらしく、奏は、男嫌いというほどではないがあまり得意ではないようだった。

 そんな奏に対しての自分の感情はもう随分と前に自覚している。

 キョウカさんにもさっさと告っちゃいなよと言われているが、どうしても今の関係性を崩すのも怖くて踏み込めないでいた。まぁヘタレと言われるのも仕方がない。


 少なくともこうして一緒に歩いて家まで帰ったり、ちょっとしたことでメッセージをやり取りしたりと、一番近しい男にはなれているのではないかと自分を慰めていた。


 そしてその日も、いつものように送って言ってお礼を言われて、家に帰るはずだった。

 でも、そうはならなかったのだ。


「…………ねぇ、雄二くん」


「どした?」


「何だか後ろから、ずっと誰かついてきてない?」


 並んで歩いている中、そっとこちらに身を寄せて小声でそう言う奏に、俺はぎょっとして、何気なさを装って振り返る。

 暗いためよく見えないが、確かに少し背の高い男性が少し離れた距離を歩いているように見えた。


いてきてるかはわからないけど、男がいる……どうしたの?」


「……気のせいかと思ってたんだけど、最近視線を感じることがあって。その、前のバイトでしつこくされた人と似てる気がするの、もしかしたら勘違いかもしれなくて、自意識過剰なだけかもしれないんだけど」


「そりゃ…………わかった。なぁ、俺のこと信用してくれるか?」


 少し考えて、そう言った俺の言葉に、奏は驚きに目を丸くした後で、はっきりと頷いた。


 あえて遠回りをしながら、奏の家ではない方向に俺たちは歩いた。

 そして、ある角を曲がる。この先に俺の家があった。


 そっと鍵を奏に渡して、部屋番号を言う。

 携帯で通報する準備もしてもらう。物凄く不安そうにされたが、俺は大丈夫だよと安心させるように、普段は絶対しないようなこと、軽く彼女の頭をなでて送り出した。


 そして数瞬待つと、気配とともにその男が現れた。

 流石に確定だ、そう思って俺は息を吐いて声をかけた。


「なぁあんた。何で俺たちの事を尾けて来るんだ?」


「…………っ。いや、何の事だい? 偶々同じ方向に向かっていただけだけれど」


「じゃああんたこの先に何があるか知ってて言ってんのか?」


「え?」


「この先は、俺の住んでいるアパートと駐車場と大家の爺さんの家しかねぇよ。あんたみたいな住人は知らねえな」


 俺はそっと体勢を整えながら、男にそう言った。


「………………んだ」


「あん? 何だって?」


「お前はあの子のなんなんだよ!? 僕のほうが先に見つけたんだ、いっぱい店にも通って、なのに急にいなくなったと思って心配していたら男と二人で夜道を歩いて、しかも男の家にだって!? この――」


「うるせぇよ」


 話している間に興奮してきたのか、その大きな体格で殴りかかって来た男を避けて、そのまま流れるように体幹と回転の力を利用して踵を刺すようにして相手の脇腹の部分を蹴り飛ばす。

 背後で、息を呑むような気配がした。


「なぁ、あんたみたいなやつがいるから、奏がわざわざ仕事を変えないと行けなかったんだろうが? 自分の事ばっかじゃなくて、ちゃんと相手の事を考えろよ」


「…………ゲホっ、何でお前にそんなこと」


「あー…………俺はあの子の彼氏なんだよ。じゃなきゃこうして一緒に家に帰ったりしねぇ。なぁ、わかってないようだから言葉にして伝えてやるけどな。俺は今結構キレてんだよ。人の大事な女の子を怖がらせやがって」


 前半の嘘はともかくとして、後半は完全に本心だった。

 そして、殺気ともいうべき気配を敢えて放出して、びくっとなった男に俺は続ける。


「これでも中学高校の頃から真面目に武道を習ってるもんでな…………警察に突き出されるか、それともこの場で俺にボコボコにされるか、それとも二度と現れないと約束するか、どっちが良い?」


 そう言ってまだ脇腹を押さえてうめいている男の首筋を掴んで引っ張り上げて、目を見て脅した。

 言葉に載っている感情が全て本物で、言っていることも本当の事だ。


「ひっ…………もうつきまとったりしないから、勘弁してくれ」


 俺の本気を悟ったのか、それとも今も押さえている脇腹の痛みが冷静さを取り戻させたのか、男は大人しくなっていた。


「わかった。じゃあ三番目ってことで、免許証出せよ」


「え?」


「え、じゃねぇよ良いから見せろ。悪用はしないが二度と現れんな。もし俺かあの子の前に現れたら、免許の情報を元に通報する」


 実際は、証拠もなく通報しても対応はされないだろうが。少なくとも身元を押さえておく必要はあるだろう。そう思った俺は、怯えと混乱に襲われている男に出させた免許証をスマホで撮って、クラウドにも保存する。


「じゃあ、行けよ。俺の気が変わらないうちにな」



 男が逃げるように――実際逃げているのだろうが――走り去っていくのを見送って、俺は背後の電柱の裏で隠れていた気配、奏に声をかけた。


「……いざという時に部屋に逃げ込めるように、離れてるか家に向かってって言ったのに」


「…………ばか!」


 俺の言葉に、奏は走って駆け寄ってくるとその勢いのままに俺のもとに飛び込んで来た。

 咄嗟に抱きしめて、そしてその柔らかさを堪能する前に俺は気づく。


「か、奏? もしかして泣いてるのか?」


「当たり前じゃん! 物凄く怖かったんだから…………」


「あぁ、悪い。怖がらせるつもりは…………いやああいうのはちょっと脅しとかないとと思って。その、ごめん、俺の事怖いよな……」


 あの時はあれしか方法がないと思ってしまっていたが、男が苦手になっている奏の前で荒事を匂わすべきでも、ましてや暗い中とは言え見せるべきではなかった。

 そう思った俺の言葉に一瞬奏は呆けるようにして、そして益々怒った表情を作って言った。


「馬鹿馬鹿! 何で私が雄二くんを怖がってるみたいな勘違いをするの!?」


「え? 違うのか?」


「違うよ!! 怖かったのなんて、雄二くんが怪我させられたりしちゃうんじゃないかって心配で怖かったに決まってんじゃん!」


 そう言って、また言葉にならないように強く抱きついて、泣き出してしまう。

 俺はただオロオロするだけだった。


「……雄二くん、もしかしてまだ私が雄二くんのことを怖いって思ってると疑ってるの?」


 少し経って、恐る恐ると俺が抱きしめていると、涙を拭って奏がそう俺に問いかけた。


「いやその、ああいう風に男に言い寄られてると、やっぱり男が嫌になったりしないのかなとか。あんなの見せて、俺のことも怖かったりしないかなとか考えちゃって」


 俺がそれに、頭をかきながらそう答えたとたんに、奏の目がどこか据わったような色合いを見せて。


「…………っ」


 両手で顔を引き寄せられて、奏の驚くほど可愛い顔がアップになって唇に柔らかさを感じたと思ったら、甘い香りが広がった。


「……ねぇ、これで少しは伝わった? というか、結構ずっと態度でも伝えてたと思ってたんだけど…………まさかこれっぽっちも伝わってないとは」


「………………」


「ちょっと? ねぇ、聞いてる?」


「……じゃない……よな」


「雄二くん?」


「あぁ、ごめん。これって夢じゃないよなって思ってた」


 突然の出来事に、頭がぼーっとしてそんな事を呟いている俺に、奏は呆れたようにして、そして少し恥ずかしそうにして、言った。


「……じゃあもう一回、する?」


 俺は夢オチをもう一度疑った。

 ――――幸せな事に夢ではなかった。


 こうして、俺たちは恋人と呼ばれる関係になった。




 ◇ 現在 ◆




「…………ふぅ」


 息を吐く音と共に、煙が夜の空に溶けていく。

 二本目をそっと灰皿に押し潰し、そう言えばこれとも二年の付き合いになるのか、そう思う。


 ペットボトルのお茶を飲んで、少しダラダラとスマホを見て時間を潰した後でもう一本、火を灯した。




 ◇ 三本目 ~日常~ ◆




「ここ良くない? 家賃も優しいし、学校からも店からも程よいし、何よりお風呂が広い!」


「だな、俺も気に入った」


 三回生になる前の大学の長い春休みに、俺と奏は不動産屋さんと一緒に部屋を見に来ていた。


 付き合い始めて半年。奏が俺の住んでいるマンションにほぼ居るようになってからは三ヶ月。

 奏の家が女性専用のアパートであることもあり、俺の家でよく居ることになったのだが、いかんせんうちは狭かった。


 六畳一間に、コンロは一口が備え付け、流し台もすぐに一杯になる小ささだ。

 トイレと風呂は別ではあるものの、流石に二人でいるには手狭過ぎた。

 そして、奏は仕送りとバイトから、俺は奨学金とバイトからで家賃や光熱費を払っていることもあって、どう考えてもその結論に至ることになった。


 同居。恋人同士の場合は同棲か。


 同じ学科の友人達も、結構な割合で一緒に住んでいる事もあり、俺と奏も二年に一度の契約更新のタイミングで今の家を引き払って二人で住むための家を探しに来たのだった。

 そして今、こうして良い物件を見つけられてはしゃぐ奏を見て、俺は何とも言えない幸福感を感じている。


「すみません、じゃあここに決めさせてもらっていいですか?」


 そう不動産会社の担当者さんに言って、再び車に載せてもらって戻った先で、俺は手続きの書類を書いた。


(何だか、とりあえず俺名義とは言っても、こうして代表で書くとまるで……)


 そんな事を考えていたのは内緒だ。


 そうしてトントン拍子に引っ越しが決まり、俺たちは自分だけの家を失って、二人の少し広い部屋を手に入れた。

 家電はそれぞれの持っているもののうち使い勝手の良い方を持っていって、残りは廃棄。

 家具屋を回って、二人分の食器類や小物は新しく買った。


「はい、これ引っ越し祝いのプレゼント」


 そして一通り生活するためのあれこれを整えた後、俺は近くの小物屋で見かけて買ったペアのマグカップを渡す。まぁ実はちょっとしたサプライズくらいはあった方が良いかなと用意していたものだ。


 それに奏は驚いたように目を丸くして、そして続いて破顔して言った。


「あはは、うちら、似たものカップルかな」


 そう言って奏が背後に回した手に持った袋を取り出して、俺に渡してくれる。


「本当は健康のためにもやめてほしいと思うんだけどね。良いデザインのがあったから……それにさ、何だか雄二から漂うその煙草の甘い香りみたいなのは、ちょっと落ち着くんだよね」


 それは灰皿だった。

 嫌煙家というほどでもないが、時々チクリと煙草はやめたら?という奏。

 そんな奏が、仕方ないなぁとでも言うようにして、デザインが良いからと新しいこの家で灰皿をくれるなんて、意外で、そしてとてもむず痒い嬉しさが上がってくる。

 喜びはどうやら僕の場合、足先から頭の天辺てっぺんへと伝わって来るもののようだった。


「めっちゃ嬉しい…………そして俺のやつペアなんだけど、奏のは俺のためのものだけだから、今度別でプレゼント買う!」


「ふふ、何その変な対抗心…………いいじゃん、また一緒に買物行こ、それで十分だよ」


 親の助けで大学に通いながらの学生の身で、バイトしながら日々暮らしている身で、何をと思われるかもしれないが、何だか、とても――――。


 これが幸福ってやつなのかな、ってそう思ったのだ。




 ◇ 四本目 別離 ◆




 一年が経ち、二年が経ち、俺たちは卒業の時期を迎えようとしていた。

 そして俺よりも一足早く、奏は家から去っていくことになる。


 色んな事があった。

 くだらないことでも、そうではないことでも喧嘩をして、その度に仲直りをした。

 バイトをかなり頑張って中古で買った車で、色んな場所に行って、色んな物を食べて、色んな景色を見た。


 それでもいつかは、二人で居られなくなる事もあるのだろうとは思っていた。


「じゃあ、後の事、よろしくね」


「あぁ、業者にも連絡するし、後は任せて…………身体に気をつけてな」


「そっちこそ、ちゃんと卒業式出て、あいさつ回りもするんだよ」


 そう言って、少し抱き合って、奏が玄関から出ていく。

 外にはもう迎えの車が来ているはずで、奏がこの部屋の扉をくぐることはもう無いはずだった。


(随分と広く感じちまうなぁ)


 奏だけの小物や、化粧品類、本などは無くなったものの、家具自体は残っているので、間取りに変化は無いはずだ。

 なのに、広く感じてしまう。それは、二人いたのが一人だけになったからか。


 やること自体はたくさんある。

 就職が決まっても、きっちり卒業しなければどうにもならない。


 卒業論文は大体完成しているが、卒業の前に一度発表もあるし、何だかんだでギリギリまでバイトも入れている。

 友人たちとだって遊びに行くことだろう。


 煙草を手にとって、自然とベランダに出ようとしてふと思った。

 一人ということはもう、外で吸う必要も無いはず。


 でも俺は少し迷って、ふっと笑って外に出た。

 いつも通りの場所で、いつものように煙草に火をつけながら考える。


 この部屋を出る時で、煙草は終わりにしようか。そう思った。




 ◇ ~現在~ ◆




 最後の煙草、惜しむような気持ちで、短くなったそれを吸って、吐いて、潰すようにして灰皿に押し付ける。

 

 こよみ上は春になっているけれど、まだ夜の風は肌寒い。

 

 最後に、灰皿に少し飲んでいたお茶を入れて完全に火が消えたのを確認したら、中身をコンビニの袋に入れた。


 過去を振り返る感傷は終わり。

 俺は部屋に入って、スマホを少し操作して、寝袋に収まった。

 身体についた、この煙草の少し甘い香りも、今後消えていくのだろう。





 ◇ ~未来~ ◆




 新しい家の中で、俺は口寂しくなってガムを手に取る。

 それを見て、彼女はくすりと笑って、そして呟くように言った。


「……本当に煙草、完全にやめられたのねぇ。ちょっとだけ嫉妬しちゃう」


「嫉妬?」


 俺はガムを噛みながら怪訝な顔で、奏の方を見る。


「だってさぁ、あれだけ健康に悪いからって私が言ってもやめなかったのに、この子の為ならスパッと終わりにできたから、嬉しくて、でも複雑なのよ」


 そう言って笑う彼女のお腹は膨らんでいた。

 つまり、そういう事だった。


 勿論色々考えた。卒業して働くとは言ってもやっていけるのかとか、奏も後少しで卒業なのにとか。

 でも、俺なんかよりよほど、奏は強かった。

 少し悩んで、産むと決めて、決めたら全てをお腹の子供を優先にして俺に問うた。


『ねぇ、私は産むけど、結婚する?』


 物凄く真っ直ぐな瞳だった。

 その瞳のおかげで、俺の肚は据わった。なんて格好悪いんだろう、そう思いながら、出てきた言葉を紡ぐ。


『…………正直まだどうなるかなんてわからないけど。頑張って働くし、どうか、俺と結婚して一緒に幸せになって下さい』


『合格……じゃあひとまずお互いの親にご挨拶ということで』


 そうして合格を貰った俺は、殴られる覚悟を決めて訪れた奏の両親には歓迎されながら、油断していた自分の両親にぶん殴られるというイベントをこなしつつ、就職活動をなんとか成功させた。


 奏の実家に近い地域に家を借りて、電車で通える範囲。

 面接してくれた人事の担当が熱い人で、妻と子供ができるのでめいいっぱい働きます、と言ったらそのまま社長面談までいって採用してくれた。二回分くらいの移動費が浮いて、とても助かったものだ。


 そして今、俺は妻となった最愛の彼女と、同じくらいの最愛となるであろうお腹の中の娘と過ごしている。


 完全に煙草は辞めた。

 その結果甘いものが増えて体重が増えてきつつあるのが目下の悩みだ。


 男女平等が叫ばれても、お腹の子供によって負担やしわ寄せが行くのは女性の方が多い。それは差別でも何でも無く、差だ。

 どうしようもなく違うものは違う。違うからこそ、俺は身体に変調をきたさないからこそ、支えられる。

 しんどさを分かるなんて口が裂けても言えない。だけど、出来ることなら俺は奏と、そして子供と一緒に幸せになるような未来に生きたい。


 出会って、育んで、日常になって、家族になった。日々はずっと続いていくし、きっとこれからの方が長い。


 それでもきっと、時折思い出すだろう。どうしようもなく不自由で自由だったあの二年間を。

 最後の何もない部屋を、静かさを。


 今はもう漂わなくなった、煙草の甘い香りと共に。

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