花市場にて星と会うこと
白里りこ
花市場にて星と会うこと
僕は、大量のマリーゴールドの花に囲まれて、膝を抱えて座っていた。花の部分だけを摘まれたマリーゴールドたちは、この不思議な移動式人工物の中にぎっしりと詰め込まれた状態で、独特の香りを放ちながらひそひそとお喋りに興じている。
「ねえ」
僕は話しかけた。
「ここは……これは何? がたがた揺れて居心地が悪いし、畑からどんどん遠ざかっていってるよ」
すると、僕の周りのマリーゴールドたちはピタリとお喋りをやめて、我先にと教えてくれた。
「これはトラック。人間の乗り物」
「私たちは市場に売られに行くんだよ」
「パーククローンの花市場」
「人間が沢山いるところ」
どうしてそんなことを知っているのかと尋ねると、皆一様にこう言った。
「前の私がそうだったから」
マリーゴールドは、一つの苗からいくつも花を咲かせる。花が落ちたそばから新しい花を生むのだ。この物知りなマリーゴールドたちにも先輩がいて、彼らと記憶を共有しているらしい。
「そっか」
僕はごろんと仰向けになった。僕には実体が無いから、どんな格好をしていても、花たちを潰すことはない。
僕が僕としてこの世で目を覚ました時、最初に居た所は、金色と緑色が眩しく光る、マリーゴールドの花畑の真ん中だった。その時点で僕が分かっていたのは、自分を取り巻く世界についてのほんの少しの知識と、自分がこの目の前の一本のマリーゴールドに宿っているピーだってことだった。
ピーっていうのは僕が居るこのタイという場所に住む人間が、昔から信じてきた精霊みたいなものだ。人間は、水とか植物とか死んだ人とか、色んなものにピーが宿っていると思っている。だから人間たちは、たとえピーの姿を視認できなくても熱心に祈ったりするし、そういった人間たちの思いがあるからこそピーは生まれる。ピーにとっては、人間の信心こそが、存在する糧なのだ。
たまたまひょっこり生まれた僕は、どうやら人間の男の子のような見た目をしていて、白いシャツと青いズボンを身に付けている。およそピーらしからぬいでたちだけど、こういうのが今の世のピーというものなのだろうなと、僕は勝手に思っている。付近に他のピーも見当たらなくて尋ねる相手も居なかったから、無理矢理納得するしかなかった。そもそもマリーゴールドはこの辺りの原産じゃなくて、遥か遠くから輸入されてきた種が元だから、古くからの既存の概念とはどこかしら違うところがあってもおかしくない。
僕は僕のマリーゴールドの前にしばらくしゃがんでいた。すぐに夜というものが来て、真っ黒い空に星がきらきら瞬いた。これが星、と僕は思った。僕が宿るマリーゴールドは星の光の存在を知っていたけど、実際に目で見るのは初めてだったから、すっかり見惚れてしまった。僕は一晩中夜空を見上げて過ごした。
朝が来ると人間が畑の世話をしに出てきた。人間は丁寧に花の世話をするのに、咲かせた花を片っ端から摘み取ってしまう。その日の昼頃、僕のマリーゴールドの花も摘まれて、籠に放り込まれた。
「あ!」
また次が咲くと僕は知っていたけれど、何だかとっても不安になってしまったので、僕は僕の花を追いかけた。人間は、籠が一杯になるまでマリーゴールドを摘み取ると、とある人工物の上にみんな乗っけてしまった。それがトラックだったというわけだ。僕は僕の花の気配を確かめながら、するりとトラックに侵入した。花がどうなるのか見届けたかったのだ。
そうして今、運ばれている。
トラックが揺れてがたがたいう音と、マリーゴールドたちのお喋りだけが聞こえてくる。花市場とやらにはいつ頃到着するのだろうか。見当もつかない。やがて僕は退屈になって、眠ってしまった。眠るというのは生まれて初めてのことだったけれど、なかなか悪くない。快適である。
がやがやと辺りが一段と騒がしくなったので、僕は目覚めた。
「んー」
マリーゴールドの花たちが人の手によって次々と運び出されていくのが見えた。間も無く僕の花も持って行かれてしまったので、僕は慌てて飛び起きて、後を追って外に走り出た。
時間はまたしても夜になっていた。それも、すっかり夜更けみたいだ。でもここは真っ暗じゃない。眩しいくらいに、人工の明かりが沢山ある。それと、ここでは星があまり見えない。僕は残念に思いながら空から目を離し、屋根のある場所まで駆け込んだ。ここは、建物には違いないんだけど、畑のそばにあった家とは違って、壁が無い。
屋根の下、木でできた台か何かの上で、人間たちが作業をしている。マリーゴールドたちがいくつかに分けられて、透明な袋の中に詰め込まれていく。中には何故か袋に入れられずに、ポイッと別の箱の中に落とされるものもあった。僕の花はというと、投げ出されることはなく、他の五つのマリーゴールドたちと一緒に袋に入れられた。そうしたらまた移動である。荷車っていうのかな、車輪のついた大きな木箱に乗せられて、花は連れて行かれる。
追いかけながら辺りの景色をそれとなく見た僕は、目をみはった。荷車が突き進む道の両脇には、数え切れないくらい沢山の、花、花、花。赤、白、紫。数多の種類の色とりどりの切り花たちが、みんなして山のように積み上げられて、こっちを見ている。それも、際限無く。
ここは広い。畑のように広い。
花の山はいくつもあって、それぞれの山の前には雑多な人間たちが列をなして集っている。
これが、パーククローンの花市場。あちら側には売り手が立ち、こちら側には買い手が並ぶ。
道中、マリーゴールドたちはこう言っていた。──花市場は眠らない。昼も夜も休むことなく開かれていると。
僕はしきりにきょろきょろしていたが、追っていた荷車が急に止まったので、驚いて我に返った。
「はいよ、マリーゴールド最後の一団のご到着だ」
荷車を引いていた人間が言う。
「ご苦労さん。今回も質は悪くないね、ありがとう。この辺りに載せてってくれ」
そう言ったのは花々の向こうに居る人間、つまり花を売る人間だ。
「へいへい」
僕の花の入った袋は、丁重に売り場に置かれた。僕は立ち上がって駆け寄って、その場に齧り付いた。
「さあて、店を開くとするかね」
そこからは、人間の洪水だった。僕は洪水を見たことがないけれど、きっとこんな感じに違いないと思う。
僕の花はどんな人間が買うのだろうか。
このお店ではマリーゴールドの他にも花を売っていて、お客たちはマリーゴールドを買ったり別の花を買ったりしながら、ひっきりなしにお喋りしている。売り子には、ぺらぺらした四角い何かが手渡されるから、あれがお金というものなのだろうと推測できる。僕の花もあのぺらぺらと引き換えに買われて行くのだ。
だが、僕の花の買い手は、なかなか訪れなかった。
僕は少し飽きてきた。でも花の元を離れる気にもならなかったから、売り場の下で膝を抱えて待つことにした。低い位置からぼんやりと、他の花屋の様子を窺う。花たちも疲れてきたのか、あまりお喋りをしていない。でもみんな色艶は良いから、多分あと数日は萎れずに生き延びるだろう。
ぼんやり考え事をしていたら、不意に僕の前に、人間の顔が現れた。
「おや?」
その人間は言った。
「小さなピーが居る。迷子かな?」
「ワッ!?」
僕はあまりにびっくりして、ひっくり返ってしまった。急いで体勢を整えてみたが、人間は依然として僕のことをまじまじと見ている。
その人間は、白髪混じりの髪の毛を全て後ろに流して、一つに結っている女性だった。顔にはいくつか皺があって、肌は僅かに浅黒い。
「お婆さん、人間なのに、僕が見えるの?」
「見えるよぉ。あたしゃ勘が良いんだ」
「へー」
お婆さんはよっこいしょと身を起こした。僕も釣られて立ち上がる。お婆さんは、僕の花の入った袋をぴたりと指差した。
「店長さんや、今日はこのマリーゴールドも頂いてくよ」
「おや? 珍しいねお客さん。うちじゃいつもはランしか買わないじゃないか」
「なあに、ちょっとここにピーを見かけたから、気が変わったのさ」
「ピー? うちの店に?」
「ああそうだよ、ここにいる」
あっはは、と店長は笑った。
「お客さんがそう言うならそうなんだろう。いやあ、縁起が良いね。今夜は繁盛するかも知れない」
「そうさね。じゃ、これは買わせてもらうよ」
「はいよ、毎度あり」
お婆さんはマリーゴールドの袋を籠の中に入れた。籠にはもう、他の花々がどっさり入れられていて、僕の花はその上にちょこんと乗っかったという具合だ。白と紫の花々の上で、鮮やかな黄色が一際目立つ。
お婆さんはまたよっこいしょと言って、籠を持ち上げた。ひょろひょろの手足をしているのに、何とも力強いことだ。僕が遠慮がちにお婆さんについて行くと、お婆さんは振り返った。
「お前さん、このマリーゴールドがお気に入りだね? ついて来るかい?」
「うんっ、僕、ついて行く」
「それじゃ、行こう。あたしの家まで」
お婆さんはすたすたと花市場を後にした。屋根のある場所から外に出て、珍妙な形の黒い人工物の元まで行くと、その端に籠を乗せた。
「お婆さん、これは何?」
「これ? バイクかい?」
「バイク?」
「こうやって乗って移動するのさ」
お婆さんはバイクに跨って見せた。
「わあ、おかしな乗り物!」
「お前さんも適当に掴まりな。でないと置いて行かれるよ」
僕は戸惑い、迷った挙句、籠にひしっとしがみついた。
「……それで良いのかい」
「うん、お婆さん」
「あたしのことはダオと呼びな。それがあたしの渾名さね」
「ダオ(星)?」
僕は真上を、黒い空を指差した。
「そうさ」
「星は僕も好き。でも畑にいた時の方がよく見えた。この町には星が無いの?」
「そうじゃない。ただ──」
ダオはバイクで何か操作をした。ブウン、と音がしてバイクが振動を始めた。
「ここは都会で、夜でも町が明るいから、空の星々はその光に負けちまうのさ」
「ふうん……」
「さてと。バー(行くぞ)!」
ダオはそう言ったかと思うと、いきなりバイクを走らせ出した。
「わあっ」
僕はいっそう強く籠に抱きついた。実体が無いとはいえ、こういう風に掴まろうと思えば物に触れることができる。ピーの便利なところだ。
真夜中の町を、バイクが疾走する。ここら辺は市場と違って、人工の明かりが眩しいほどある訳じゃないけど、それでもやっぱり明るい。道は広く、硬そうな地面が続いている。高い建物が次々と目に入る。トラックの仲間みたいな奴らがビュンビュンと走って行く。あれらは車だと、ダオが教えてくれた。
時折、横道の脇に、ピーを祀る祠があるのが分かった。黄色と白色の、小さな家のようなもの。花や水が供えられている。
籠の中の花たちは、無言である。やっぱり疲れちゃったのかな、と僕は思った。
バイクは大通りを逸れて、細い道に入った。途端に景色はごちゃごちゃとまとまりのないものになる。家とか店とかがぎゅうぎゅうに立ち並ぶ。それらは、僕の見た農家の人間の家より、何だか古くてボロボロに見えた。ダオはそのうちの一軒の前にバイクを停めた。籠を荷台から外して、木造の建物の中に入る。僕は物珍しい気持ちで後に続く。
ダオの家の中は真っ暗で……でも、パチンと音がした途端に、何もかも明るく照らされて、見えるようになった。
「さーて、仕事仕事」
ダオは靴を脱いで家に上がると、籠を机に置いて、細っこい何かの道具を出してきた。
「仕事って、何をするの?」
「プアンマーライを作るのさ」
「プアンマーライ?」
「お前さん、ピーなのにプアンマーライも知らんのかね」
「だって僕、昨日生まれたばっかだもん」
ダオはまじまじと僕の顔を見た。
「……そうかい。プアンマーライはその名の通り、花輪のことさ。仏様や神様やピーや王様にお供えするんだ。後は、交通安全を祈念して、車に乗っけたりもするね。あたしは綺麗なプアンマーライを作って、人に売るのが仕事さね」
「ふうん」
ダオは籠の中身をひっくり返して、花々を机の上に並べた。中から白い蕾をいくつか選ぶ。
「これはジャスミンの蕾。あたしはプアンマーライの輪っかの部分はこいつで作ることにしてる。これは針、これは糸。どっちも特別に頑丈な奴だ。これを使って花同士を結んでいくのさ」
ダオはさっさっと針を操り、ジャスミンの蕾を繋ぎ合わせていく。一本の束になった蕾たちは、どの角度から見ても美しくなるように、繊細に角度を調整されている。僕がじっと見ている内に、ダオはどんどん蕾を縫って、最後にその束をくるりと輪っかにして結んだ。輪っかの大きさは、人間が手首に掛けてもまだまだ余裕があるくらい。
「これで輪っかは完成。後は飾りを作る」
「飾り」
「普段はドークラックとランを使うけど、今日はマリーゴールドも買ったからね、使わせてもらうよ」
ダオはまず、純白の小さな花を取り上げた。これがドークラックと呼ばれる花だと、僕は何故か知っていた。王冠という人工物にそっくりな形をしているので、人間はこの花をとてもありがたがっている。
ダオはドークラックを一列に繋いだものを、三本縫い上げた。それから、袋に入れられたマリーゴールドを三つ出してきて、それぞれのドークラックの先端に縫い付けた。中には僕のマリーゴールドも含まれていた。この三本の花々は、ジャスミンの輪っかの下の部分にくっつけられた。
「こんなもんかね。どうだい? 綺麗だろう」
僕は目を丸くして、出来上がったプアンマーライを見つめた。
花がふんだんに使われた白い色合いの花輪に、マリーゴールドの黄色が殊更に引き立つ。
「へえー!」
「それじゃ次に取り掛かるよ。時間は有限。早く作り終えなくっちゃあね」
ダオは黙々と作業に没入した。ジャスミンの蕾がまたしても器用に連ねられていく。
僕は何となく、ダオに尋ねた。
「ダオは一人で暮らしているの?」
「ん? ああ」
ダオは手を止めずに返事をした。
「子どもらは独り立ちしたし、夫も数年前に病で死んじまってね。どうにもやっていけないから、プアンマーライ売りを始めたのさ」
「へえ」
「最初の内は下手くそでね。不細工なプアンマーライばかり作って、花をいくつも駄目にしちまった。申し訳なかったよ。辛うじて形ができたものも、決して綺麗じゃなかったから売れなくてねえ。あの頃は困っていたもんさ」
「一人で寂しくなかった?」
「どうかねえ。必死に生きていたから、そんなことを思う暇は無かったねえ。それに新しい知り合いもできたから、ずっと一人って訳じゃない。花市場の店主や近所の人々に出会えた。あたしらは支え合って生きているのさ」
「そっか。僕も畑にマリーゴールドたちが沢山居るから寂しくないよ」
「畑には他にもピーが居るのかい?」
「居ないよ」
「おや。……しかし、ピーは気まぐれだからね。また次の年とかに生まれるかもしれない」
「んー」
僕は首を傾げて、畑の景色に思いを馳せた。
「そしたらやっぱり会えないや。その頃には僕は枯れちゃってるよ。マリーゴールドは一年草なんだ」
ダオは手を止めて、再びまじまじと僕を見た。
「そうなのかい。そんなピーも居るんだね」
「うん。でもマリーゴールドたちとは直接お喋りができるから良いんだ」
「そうかい」
ダオはまた手を動かして、あっという間に二つ目のプアンマーライを作り上げた。今度はマリーゴールドじゃなくて、紫色のランがついている。
「おおー」
「まだまだ。朝までにあと十八個、作らなくちゃあね」
「十八! それは大変」
「なあに、慣れてきたらどうってことはない」
その後、ダオは本当に朝までに、合計二十個のプアンマーライを作り終えてしまった。
「はーやれやれ。細かい仕事をすると、目も体もきついねえ」
「お疲れ様」
「ありがとう。さあ、朝飯朝飯。食べたら、こいつらを売りに行くよ」
ああそうか、と僕は思った。人間は動物だから、栄養分を口から摂取しないといけないんだ。
ダオは「昨日の残り」と言いながら、器に食べ物を乗せて机に戻ると、銀色の道具を使って食べ出した。お米で出来た料理である。米の他にも、僕には分からない細々した食材が混ざっている。独特な芳香もした。
僕は家の中を見て回りながらダオを待った。食べ終わって、身だしなみを整えたダオは、プアンマーライを籠に入れて家を出た。
太陽が出て、外は明るくなっている。
「あたしの縄張りはワット・プラケオの近くでね」
「ワット・プラケオ?」
「王宮にくっついてる、でっかい寺院さ。王宮には入れないけど、寺には出入りできるから、観光客はこぞってやってくる」
ダオはまたブウーンとバイクを走らせる。籠にしがみついた僕は、足の辺りがむずむずしてきた。何だろう、変な感覚だ。
そうして辿り着いたワット・プラケオは、明らかに周囲の建物と様子が違うから、僕にもすぐに見分けられた。真っ白い壁によって厳重に囲われたその向こうから、豪華な造りのきらきらした建物の屋根がちらりと顔を覗かせている。僕は、よく見ようと首を伸ばした。
ダオはバイクを停めると、白い壁から車道を挟んで反対側の道に渡った。そこには他のプアンマーライ売りがぽつぽつと待ち構えている。
ダオは籠からプアンマーライを出して、持ってきた板の上に丁寧に並べた。うろうろと歩きながら、観光客のことを観察し始める。
「ダオ、あっちにはあんなに人間がいるのに、売りに行かないの?」
「あれはみんな外国人さね。外国人はプアンマーライの使い方を知らないから、買ってくれないよ」
「そうなんだ。プアンマーライを使うのは、タイの人間だけなの?」
「さあて、あたしはよく知らないが。とにかく今あたしが狙うのは、バンコク市外から遊びに来たタイ人の客だよ。例えばそこの車」
ダオは指差した車に近付くと、プアンマーライを乗せた板を示した。車に乗っていた人間は、ランの飾りが付いたプアンマーライを選んだ。
「二十バーツだよ」
ダオは言った。
「どうぞ」
「ありがとうございまあす」
ダオは紙幣を大事そうに仕舞い込んだ。客は選んだプアンマーライを、車の窓の前に置いている。
「よし、売れた。幸先が良いね」
「僕の花は? マリーゴールドのプアンマーライは?」
「お客が気に入ったら買ってくれるさ。……タイ人はマリーゴールドが好きだ。黄色は縁起が良いからね。マリーゴールドだけで作ったプアンマーライもあるくらいだよ」
「へえ!」
「だから、焦ることはない。その内、買い手が現れる」
「そっかあ」
それからしばらく、僕はダオについてぺたぺたと歩き回った。ダオのプアンマーライは、買ってもらえたり、断られたりしている。そしてダオの言葉通り、じきに、僕の花のプアンマーライを買う人が現れた。若い男の人と女の人の二人組で、ぶらぶら歩いているところをダオが捕まえたのだ。
マリーゴールドのプアンマーライが、女の人の手首に掛けられる。
「追いかけなくっちゃ!」
僕は言ってから、名残惜しく思ってダオを見上げた。
「ダオ、ここでお別れ?」
ダオは、ニッと笑みを見せた。
「あたしはここで待ってるから、気にせず行っておいで」
「良いの? 商売は?」
「何、ちょっとした休憩と思えば大したことはないさ」
「そっか。ありがとう。行ってくる!」
僕は、二人組を追って走った。彼らは仲睦まじく語らいながら、白い壁に取り付けられた扉をくぐって、ワット・プラケオの中に入った。続いて入ってみた僕は、その敷地の広さと、見たことのない豪奢な建物の数々に、目を回しそうになった。
「これが、お寺!」
全てのものが豪華に輝いて見えた。遠くから見ても感嘆するほど綺麗だし、近付いて見れば一層唸らされた。建物のあらゆる部位に精緻な彫刻が施されていて、一つ一つ鮮やかに彩色されているのが分かった。こんなものを幾つも作ってしまうなんて、人間とは計り知れない生き物だ。ここまで造り上げるには物凄い手間が掛かったろうに、一つとして疎かにされていないとは。
中でも僕がびっくりしたのが、その美しい建物の中に、ぴかぴかに輝く大きな仏様の像が置かれていたことだ。本当に、全身が、金色一色である。もちろん造形も細やかだ。人間たちが仏様を如何に敬っているのか、とてもよく分かる。
参拝客たちは床に正座して、拝礼を行なっていた。僕には覚えきれなかったけれど、手を合わせたり、ひれ伏したり、ちゃんとした手順と作法があるようだ。
僕の追っていた二人組も、きちんと仏様に挨拶をした後、仏像の前に置かれた献花台に、プアンマーライをお供えした。
「あっ」
僕は献花台の前に飛びついた。そこには様々な種類のプアンマーライが丁寧に積み重ねられていた。他の参拝客が持ってきたのだろう。そして僕の花もその一部となった。仏様に捧げるために。
僕の花は、仏様のものになったのだ。
二人組がいなくなっても、僕はプアンマーライを見つめていたが、ダオを待たせていることを思い出し、駆け足でその場を離れた。やたらと心が躍り、興奮していた。
ピーは、人の祈りや信心を好む。そしてタイにおけるピー信仰は、仏教やヒンドゥー教と渾然一体となって形成されてきたものだから、僕にとっても仏様は大切な存在だ。だからこんなに嬉しいのだ。むくむくと力が湧いてくるのだ。
「ダオ!」
僕は白い壁を飛び出して、ダオの元に舞い戻った。
「僕の花は、綺麗な建物の中におわす、金色の仏様にお供えされたよ!」
「そうかい」
「僕もう嬉しくなっちゃった! ダオ、僕の花を綺麗なプアンマーライにしてくれて、ありがとう!」
「そうかい」
ダオは今度は、優しげな微笑みを浮かべていた。
「それじゃあたしは、残りのプアンマーライを売りに行くけど……お前さんはどうするんだい?」
「あ。うーん」
僕は束の間、考え込んだ。花の行く末を見届けるという、旅の目的は達成されていた。
「……そろそろ畑に戻った方が良いかも。僕のマリーゴールドが寂しがっているかもしれないから」
「畑は遠いだろう。どうやって帰る?」
僕は、先程感じた足のむずむずを思い出した。
「帰れる……気がする。僕はピーだから」
「そうかい」
ダオは板を持ち上げ直した。
「それなら、気を付けてお帰り」
「……ダオ、お別れ?」
「そうさねえ」
ダオは目を瞑った。
「……気が向いたら、うちに来てくれて構わないよ。あたしの家の場所は覚えたかい?」
僕はふるふると首を振った。
「分かんない。忘れちゃった。人間の町、複雑だから……」
「ふーむ。それなら、またパーククローンの花市場においで。花と一緒に運ばれて来りゃあ、迷わず辿り着けるだろう」
「え? でも……あそこは広いよ。ダオのこと、見つけられるかな」
僕は不安そうにダオを見上げたが、ダオはまた微笑んでいた。
「大丈夫、大丈夫。また会えるって、あたしの勘が告げてるからね」
「本当?」
「本当だとも。ただし、必ず夜においで。あたしはいつも、夜中に花を買いに行くからね」
「夜」
僕は少し悩んだ。畑から市場までは距離があるし、確実に夜に到着するとは限らない。
「夜。僕、夜になるまで待つよ。それなら、いつ来ても平気だよね」
ダオの微笑みに、僅かに哀しそうな色が混じった。
「お前さんの一生は短い。時間を無駄にしてまで、あたしに会わなくてもいいんだよ」
僕は首を傾げた。
「うーん、畑でずっと過ごすのも悪くはないけど……ダオと話すのも楽しかったから、気が向いたら行くと思う!」
「……そうかい」
ダオはしみじみとした声音だった。それからおもむろに、こんなことを言った。
「さっき、あたしは一つ嘘をついた。一人暮らしの生活は、寂しい時もあるよ。だがお前さんが来てくれるなら、まるで孫ができたみたいで、愉快だろうねえ」
「うんっ、僕も、次に会うのを楽しみにしてる!」
「……あたしもだよ」
僕たちはお別れの挨拶をして、その場を離れた。早く畑に帰らないといけない。畑の場所だけなら本能で感じ取れるから、道に迷うことはないだろう。問題は、どうやって長距離を移動するかだが、これも何とかなりそうだ。
「ふんぬぬぬ!」
僕は足を踏ん張った。気合いを入れて思いっきり空中に跳ぶ。すると僕は、ふわふわと宙に浮くことに成功していた。
「やっぱり! 僕は空を飛べるんだ」
これなら、道順を知らなくても、一直線に故郷に戻れる。
空高く飛翔すると、眼下にワット・プラケオも見えたし、花市場の屋根も見えたし、滔々と流れる広い河も見えた。遥か上には、雲一つない晴天と、熱いくらいに全てを照らす眩い太陽。
僕は景色を楽しみながら、マリーゴールドの畑に戻って行った。
おわり
花市場にて星と会うこと 白里りこ @Tomaten
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