封じ手

栄三五

封じ手

 半井なからいは将棋盤に向かい合っていた。

 向かい合うと言っても対面には誰もいない。


 対局や研究会の時は別として、自宅で研究しているときは一人だ。

 こうやって、ずっと一人で将棋を指してきた。


 ストーブの上に置いてあるやかんからシュンシュンと湯が沸く音がする。

 やかんを取ろうと立ち上がり、ふらついた。


 半井も、もう40代になる。年々体力が落ちている自覚があった。

 将棋は座っているだけの競技だが、頭を使うせいか中々どうして体力を消耗する。

 体力の低下に比例するように集中力も落ちる。これまでなら読めた手を見落とすようになる。

 もう以前の様には指せなくなっていた。


 最近は目も疲れやすくなってきた。疲れを絞り出すように目をギュッと瞑る。

 若い頃は、永遠に将棋が指せるような気でいた。でも、そんなことはなかった。


 絞り出した疲れを振り切るように、ぶんぶんと頭を振り、やかんを手に廊下に出る。

 台所へ行き、保温状態のポットにやかんのお湯を詰める。

 空になったやかんに水を入れ、居間に戻ろうとしたときに、電話が鳴った。


 訃報だった。


 斗真匡則とうまただのり王将の急死。


 急性の心不全だったらしい。


 虹の橋を渡る、なんて表現が似つかわしくない男だった、と記憶している。

 なんというか、だった。


 表情が淡く、反応が薄く、対局中も淡々と指し進め、ロボットか人形と指しているようだと揶揄されることもあった。

 だが、そんな当人への印象とは真逆に、あの男の一手は色彩に富んでいた。

 新手を見つけるのが得意で、あの男が生み出した手から新たな指し筋や戦法が、生まれては消えて行った。


 しかし、半井の中で最も鮮烈な記憶はあの王将戦のことだった。


 それは、もう20年も前、半井が斗真とただ一度だけ王将のタイトルを賭けて対局したときのこと。

 斗真の手番で指し掛けになり封じ手を行った。


 封じ手とは、対局を中断するときに次の指し手が中断中も次手を考えられる不公平をなくすため、中断前に次手を記入しておくことだ。

 翌日、指し手は封じ手と同様の手から指し始める。


 難しい局面だった。

 斗真も、早指しを旨とする半井も長考していた。

 半井が僅かに優勢だったが封じ手の後、状況が変わった。


 その日初めて斗真が指したのは全くの新手だった。

 全く想定していなかった手にペースを掴めず、結局半井は敗北し、斗真は王将を防衛した。

 後に、研究が進むと半井の対応手次第では勝てていた内容だったことがわかった。



 確か、対局の数日後だった。

 斗真から半井宛に封書が届いた。

 封を開けてみると、あの王将戦の封じ手が入っていた。

 もちろん、本物ではない。それらしい用紙に斗真が書いたものだ。


 封書には添書もなく、封じ手の紙切れ一枚のみ。

 半井にそんなものを送り付けてくる意味が分からなかった。


 理由は色々考えたが、どれも納得のゆくものではなかった。


 今度、お前からタイトルを奪うときに聞いてやる!、そんな思いを胸に半井は手紙を机にしまっていた。


 結局、そんな時は訪れなかった。



 用があって、東京の将棋会館に行った。

 半井は関西の人間なので敷居を跨ぐことは少ない。

 会館にいるのは棋士か奨励会という棋士の養成機関に所属している人間くらいだ。

 まさか、声をかけられるとは思わなかった。


「あの、半井九段ですか?」

「そうですが…。どちら様で?」


 十代前半くらいの少女だった。

 プロではないだろう。奨励会の子だろうが、ますます覚えがない。


「斗真紗英といいます」


 そうない名字だ。娘がいたのか。


「父が、半井九段との王将戦の封じ手のことを心残りだと話していたので。いつかお話したいと思っていたんです」

「心残りっていうのは、対応手次第では勝敗が変わっていたことかい?」


 紗英が首を横にふった。


「いえ、あの封じ手よりもっといい手があった、と。今やり直せばもっと美しい流れで勝てる、と悔しがっていました。父は、半井九段と指したがっていました」


 紗英の発言に、半井はきょとんとして口を開けていたが、しばらくして大口を開けて笑い始めた。


「ハハハ、なんだそりゃあ」


 人を煽っているのかと思ったら自分のことばかりじゃないか。真面目に取り合っていたのが馬鹿みたいだ。


「あの、半井九段。私と一局指していただけませんか?」


 元々急ぎの用ではない。首肯すると別室へ通された。奨励会で使っている部屋なのだろう。


「今、いくつ?」


 年齢のことではない。級位、段位のことだ。

 段位が四段以上でプロになる。


「初段です」

「じゃあ…、はい、これあげる」


 半井が手を差し出すと、紗英の手に将棋の駒を落とした。全部で10枚。


「10枚落ちですか……」

「不服かい?」

「さすがに」


 舐め過ぎだ、と言いたいのだろう。

 だが、再戦の約束に自分の勝因になった封じ手を送る棋士もいるのだ。これくらい許してほしい。


 結果が不服なら、また指そう。


 紗英が先手を指し、半井の持ち時間を示す時計が進んでゆく。

 ゆるゆると止まるはずだった時計が、今また動き始めていた。

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封じ手 栄三五 @Satona369

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