見てた?

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見てた?

 深夜、駐輪場のトタンを雨が叩く音と、どこかの家の換気扇らしい低い音だけが聞こえてくる。持ち帰りの作業を終えた相澤あいざわは一つ大きく背筋を伸ばしタバコの箱を開いた。ため息がでた。空だった。自然と、相澤の視線はノートパソコンの時計に向かう。二時十二分。

 相澤はテーブルに片肘を立て、目元を揉んだ。


「……寝よう。寝るべきだ」

 

 自分に言い聞かせるべく声にもするが、裏腹に、頭の片隅では最寄りの自販機までの経路を思い浮かべていた。自宅で作業をした後は、どうでもいい動画を眺めたりしたくなる。脳のクールダウンだ。強度の高い思考をしたら頭を空っぽにする時間を作り、コーヒーなりビールの一杯なりを入れて、高ぶった神経を落ち着けながら寝床に行きたくなる。そのためには、


「タバコ……」


 相澤は未練がましく薄ぺらい箱を開けて、閉じて、ゴミ箱に放った。縁に当たって床に溢れた。寝るべきなのは重々承知している。寝る一時間前に吸えば眠りが浅くなるのも知っていた。外は雨だ。服は部屋着だ。朝までの半日くらい我慢だ。いや、新鮮な匂いをつけて電車に乗るのも迷惑だし、丸一日くらいか。

 ため息とともに腰を上げ、相澤は服を着替え始めた。

 タバコ吸いが自身のニコチン依存に気づき、恐怖し、また呆れるのは、こういう深夜が多い。普段からバカバカしく無駄で意味がないどころか迷惑まであると自覚しているのなら、なおさらである。

 たったの一本。

 特に気持ちよくなるわけでもない一本のために、深夜、服を着替え、傘を手に、相澤は部屋を出た。同じマンションの住民に少しでも騒音を届けぬようにと、できるだけ丁寧に扉を閉めて、ゆっくりと鍵を回す。これも無駄な努力だ。朝なら微塵も気にならない錠前の音が騒々しい打音となる。

 午前二時――この時間エレベータは消灯している。動かせば、鍵より大きな音がする。相澤は裏手の階段に回る。雨粒が駐輪場のトタン屋根を叩きホワイトノイズに似た音を立てていた。雨雲が月を覆っているのもあるのだろう、廊下から見る街は夜闇に沈んでいる。周辺はマンションを中心とした住宅地となっており、道は細く街灯も少ない。消火設備を示す赤い照明。非常口へ誘う足元を淡く照らす白い光。作りが古いのもあり、階段はポタポタと絶え間なく水の粒が落ちていた。

 相澤はいっそ傘を差して降りようかと思ったが、監視カメラは年中無休だ。不審者の一人に計上されかねない。仕方なく、首筋に落ちてくれるなと願いつつ、相澤は靴音を殺して降りていく。濡れた床に靴底が滑る。深夜にタバコを買いに出て階段を落ちたりしたら洒落にもならない。手すりに手をかけ、踊り場を回る、そのとき。

 ふと、何かを見たような気がした。

 何か変なものがあったような。

 深夜の、雨の降る住宅街ににあってはならないような、何かが。

 相澤は降ろしかけた足を止め、踊り場で駐車場に振り向いた。駐車場を挟んだ向こうにマンション。どの部屋にも電気はついていない。駐車場に人影はない。気のせいだろうかと首をめぐらし、相澤は眉を寄せた。

 マンションに面した一方通行の細道に、自転車にまたがる男がいた。上下ともに白あるいはクリーム色の服。年齢はわからない。遠く、暗く、顔も判然としない。

 男は自転車にまたがったまま、傘もささずに、じっとマンションの駐車場のほうを見ていた。口を動かしているようには見えないが、誰かと話しているのだろうか。

 相澤は男の視線の先を追おうとしたが、ちょうど階段の正面にマンションの集会場があり、影に隠れて見えなかった。


「気味悪いな」

 

 ぼそりと呟き、相澤は階段を降り始めた。一階降り、ぐるりと回って踊り場から駐車場のほうに顔を向けるが、やはり建物の影になり何も見えない。もう一つ、降りぎわに、ふと道の方に振り向くと、自転車の男は消えていた。帰ったのか。また一つ降り、踊り場の側に回るとき、駐車場の奥に小さな公園があるのを思い出した。


 ああ、解散したのか。


 納得したとき、ちょうど、集会場の二階の外廊下の先に、公園に置かれたブランコの天辺が見えた。ブランコは道の側を向いていて、こちらからは二本の赤い支柱とそれをつなぐ黄色のジョイント、それに、揺れる鎖しか見えない。

 相澤は踊り場を回り込み、降りようとして、待て、と思った。

 自転車の男と話していたとして、分かれて帰ったのなら、ブランコの鎖は止まっていなくてはならないのでは。

 ポツン、と水滴がうなじを叩き、相澤は思わず悲鳴をあげそうになった。考えすぎだ。相澤は内心に呟く。タバコの煙に含まれるニコチンの作用には興奮と鎮静の両方が含まれる。脳がニコチンに依存していた場合、薬理効果が切れると脳内のホルモンバランスが乱れ、人は神経質で不安定になるのだ。軽い禁断症状に伴う動悸と浅い呼吸は脳に恐怖と誤認され、体は防衛反応として筋肉を硬直させる。感覚器は鋭敏になり、それらがまた恐怖へと変じる。いわば、これは――


「幻覚みたいなもの……ッ!?」


 踊り場に降りるとき、相澤はそれを見て、咄嗟に顔を伏せていた。ちょうど視線の先に、揺れるブランコがあった。黒い髪の少女がブランコを漕いでいたのだ。街灯の光を写し取ったような白い服に白いスカート、白い、裸足。

 少女の顔は、こちらを見ていた。

 顔は見えなかった。暗くてわからなかった。胴体のすぐ上の、鎖を握る手の向こうの、黒髪が周囲を覆っている、顔があるべき場所だけが真っ暗で見えなかった。


 ――むこうを向いていたのかもしれない。


 そうに違いない。相澤は思った。あれは後ろ頭だったんだ。令和の時代に幽霊だなんて。フィクションとしては嫌いじゃないが、現実と混同するのは馬鹿げてる。あれは人だ。人に違いない。相澤は顔を伏せたまま階段を降りきった。外階段の扉に手をかけて押し開く。

 

 ――人だったとして、なんで公園に残っていた? 

 なんでこちらを見ていた?

 いま、どこにいる?


 相澤は深く呼吸をし、外に出た。傘を広げ、集会場の脇を擦り抜けて、駐車場の――公園の側に出た。相変わらず暗いが、街灯が近づいた分だけマシになったような気がした。ずらずら並ぶ車の向こうに一メートルくらいのフェンスがあり、その向こうでブランコが揺れていた。誰も乗っていないブランコが、人が漕いでいるかのように、大きく、大きく、揺れていた。


「大丈夫。大丈夫……」


 激しさを増す鼓動をニコチン切れのせいだと自身に思い込ませ、相澤は家の鍵を固く握り込んだ。先端が小指の下に突き出るようにして、もし女が現れたらいつでも振り下ろせるように。幽霊じゃないなら腕力でどうにかなる。大丈夫。怯えることはない。相澤は周囲を警戒しながら横の道に出た。人の影はない。雨粒がバラバラとビニール傘を打っている。靴音が二重にも三重に聞こえる。きっと背の高い建物ばかりだからだ。反響しているに違いない。

 相澤は振り向きたくなるのをこらえ、鍵を固く握りしめた。

 タバコの自動販売機は線路をくぐる地下道を抜けてすぐのところだ。地下道は犯罪抑止に明々と蛍光灯がついている。何の不安もない。不安はない。ない。が。

 角が。

 すぐそこに、何かがいるのでは、と相澤の足を止めた。階段を降りきったところだった。正面にはバリアフリー対策のエレベータがあり、自転車も通れるようになっているため、カーブミラーがあった。相澤は意を決して鏡を見た。無限に続くようにすら見える通路があった。

 相澤は思わず安堵の息をつき、鍵を握る手を緩めた。手のひらに鍵の後が色濃くついていた。自身の臆病さに自嘲の笑みを浮かべ、鍵をポケットに入れ、顔をあげ、エレベータの覗き窓に気づいた。消灯され、真っ黒い板のようになった硝子に、傘を差す相澤が薄ぼんやりと反射していた。地下道なのに。

 とうとうこらえきれなくなり、相澤は噴き出すように笑った。傘を閉じながら角を曲がる間際。相澤は視界の端に何かが映った気がし、何の気なし振り向く。

 エレベータのガラスに相澤の強張った顔が映っていた。その背後で、白い服の少女が、さっと顔を背けた。あの、階段の踊り場で見た、ブランコにいた――。

 相澤は息を呑みながら振り向いた。


 そこには、誰もいなかった。


 頬を冷たい汗が伝う。見た。たしかに見た。ガラスに、少女が映ったのを。

 顔を見られまいと、瞬間的に顔を背けるのを見た。

 相澤は背後にずっしりと重い気配がつきまとっているような気がし、顔を伏した。濡れた床に相澤の顔が幽かに反射していた。その背後に――何かを見取るより早く顔を上げた。何もいない。何もいない。何もいない。内心で叫びながら相澤は足を早めた。カーブミラーがあった。覗かないよう鏡側の壁に寄り、すぐ階段を見上げた。透明な屋根に何かが映り込むような気がして足元を見つめながら登りきった。何度も通って道順は覚えている。雨粒が体を濡らすのにも構わず歩いた。照明が水たまりに反射していた。見ないように顔を上げた。営業を終えた美容室のガラス扉に気づき相澤は正面を向いた。角を曲がり煌々と照る自販機を見つけた。

 相澤は、震える手で尻のポケットから財布を取り出し、自販機の透明なプラスチック板を見ないよう、五百円玉を投入した。

 ゴトリ、とやけに大きな音を立てて硬貨が落ちた。


『商品を選んでください』


 続く音声に悲鳴がでそうになった。こればかりはしょうがない、と相澤はちらと顔をあげた。煌々と照っているおかげで、プラスチック板に顔は映っていなかった。ほっと息をつき、相澤は目線を切りながら手を伸ばした。


『タスポをタッチしてください』


 そうだった。財布からカードを抜き、押しつけて、とにかく落ち着こうと買ったばかりのタバコの封を切った。照らされたビニール包装に薄ぼんやりと映る顔。咄嗟に目を閉じ、手探りで一本取り、唇に挟んだ。行儀が悪い。分かっている。灰皿も持ってきていない。最低だ。しかし、もう耐えられそうになかった。

 相澤は深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐いた。

 ――プラセボ効果もあるのだろう。急に頭脳が明晰になり、心が落ち着いてきた気がした。


 幽霊? 何かついてきてる? ありえない。


 薄く笑い、ゆっくりと、細く、煙を吐き出した。いつもと味が違う。顔をあげ、自分が押したボタンを見ると、焦っていたのか、いつもと同じ銘柄の、違うフレーバーを買ってしまったようだ。


「……まったく、何やってんだ」


 タバコを指に挟み、相澤は強く吸った。瞬間、タバコの先が赤く光り、自販機のプラスチック板に顔を映した。


 タバコ吸いは深夜に気づき、恐怖する。

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