烏揚翅
一枚目
夜の世界が、昼の世界を追い続けながら、常に侵していくように、私には自分の目に映る景色の全てが、その背面に潜む暗闇からの脅嚇に曝されているように思えるのです。
両親は、私が他の子どもらと同じように、虫や魚を追いかけるのが好きな男の子だと思っていたようです。しかし、違うのです。私はただ恐れていた……いや、恐れというのもまた些か違うやもしれん。もっと恐ろしいもの、と言うと、ちょっとおかしな言葉遣いになりますね。
理解は求めません。生来、私は理解などされたことがないのですから。これはまた私の矜持でもありました。気味が悪いと跳ね除けてもらっても構いません。私にとっては大したことではございませんから。
カラスアゲハという蝶があります。
黒い大きな翅を持っていて、その翅の縁へとかけて愈々青みのさしていく模様が、宛ら暗藍が闇へと成就する中途の夕空を彷彿とさせる、まことにあどやかな蝶でございます。
まことに、高貴な蝶でございます。
他の蝶の近縁が、花々から剽窃した彩りを誇らしげにひらめかせるのをよそ目に、かの黒い翅は、陽の光にも、その下に照らし出される鮮彩な物物の一切にも、媚びることなく、悠々と羽ばたくのでございます。
私はこの虫を昼間に見つけると、おや、夜が抜け出してきたぞ、と、こんなことを空想するのです。ひとひらの夜とでも呼べるかもしれません。
子供の時分には、その翅が宵闇の中に溶けて消えてしまうまで、時間も忘れて追いかけ続けることがよくありました。私はついに、それを捕らえることはありませんでした。もし捕らえることができたなら、私はそれを殺してしまうつもりでした。
黒い蝶の幻影は、私の生活のいろいろなところに、何か不幸の前触れのように、顔を覗かせていました。わたしの言いぶりから、私があの虫に、好ましい印象を抱いていると感じられたかもしれません。確かにそれは、一方では事実なのですが……なんといおうか、私には我慢がならないのです。怖ろしいというのでもない、なにか、訳もなく神経をぞっとさせるような、不条理な感銘がそこにはあるのです。
世界に穿たれた虚ろな眼孔。この世界を裏側から凝視して、表側をもその暗闇に沈めてしまうような、深淵の底のような傲岸な眼差し……カラスアゲハは、そのような世界の裏の暗闇の、全き象徴でした。
私の実家の近所には清い湧泉があり、それを中心にして、小さな池と、寂れた釣り堀がありました。山際の木々に囲われた池の中には、その水の清いことの証しに、ハスやスイレンが咲いて、またそれらの草花を取り巻いて、みぎわにはカキツバタが縁をなし、印象絵画の構図を自然に表しておりました。水に浮く葉の間には錦の模様がちらちらと掠めて、水底の藻類はひとたび光に晒されるや己が身を隠す術を知らず、揺曳する水面に揺蕩う木漏れ日はこれら景色と絶えず優しい愛撫を繰り返している。ああ、思い出しただけでも嘆息してしまうような景色……
そして、これら全ての物物の周りを、あの黒い虚ろな眼孔が、蝶の羽ばたくようによろぼうているのでございます。
烏揚翅 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto
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