Mystification


- Mystification -


 長崎と会うのはいつも同じレストランだった。きまって彼の方から私を誘うのであるが、大ビルの上層にある展望の開けたその店の一等席は、予約が入用なのは明らかなのに、「敷島、明日の夜飯に行こう」と、私の事情など顧慮せず突然に連絡を寄越して、断るに断れなくさせるのが彼の手口なのである。


「こんなところに男二人で来るなんて、俺だって乗り気じゃないんだぜ」

 その日、長崎は私を迎えると、こう言った。

 彼は必ず私よりも早く来ていて、あの一等席に陣取っている。ドレスコードを意識するのは堅苦しいようで、ここでの彼は着慣れぬ装いに身を包んだ新入社員のような観がある。もしかすると、私も同じかもしれないが。

「なら、もっと気兼ねしない店にすればいいじゃないか。俺だってここは得意じゃないし、それに、ウエイターにもきっと噂されているよ」

 彼の肩書はこの店の格には釣り合わない。それなのに、彼は私の分まで勘定しようとする。その金はどこから来るのかと問うても、賭け事で儲けたのだというばかり、それとて私には疑わしいのは、彼が賭けで勝ったところを見たことがないからである。

「まあ、確かに、胡乱な目で見られているだろうな。でも、ここはいい場所だよ。この夜景、あの夥しい光の一点一点が、今まさに俺たちのために輝く民草の労働の灯だと思ってみれば、搾取する側に立つ人間の残酷と不可分なあの鷹揚さにも似た不敵な感じが湧いてくる。頭がカッとする。そして心はスッとする。人民からの搾取を真っ当に行うとすれば、それは独裁者の役目だろうが、俺の考えじゃ、陰湿な人間は独裁者には向かない。敵も味方も隔てなく両断する白刃の閃き、あのカラっとした太陽の血を引く閃き、この閃きの領する、熱狂と冷徹の狭間にこそ独裁者の席がある。敷島、お前にも俺の気持ちが分かるだろう?」

「相変わらず詩人だな、きみは。俺にはそんなこと思いもよらないよ」

「何を言う。おまえこそ詩人肌じゃないか。ああ、でも、詩人ってのは俺にはちょっと好かないからやめておこう……詩人肌か、ふふ、詩人の肌はきっと淫靡な液に濡れていることだろうな。奴らはまるで愛妾のように、英雄と密通している不徳な手合いだ。一方で、独裁者は詩人に詠われるには向かない。なぜなら彼に求められるのは清廉さだからだ。詩は清廉の真逆にある。詩の報いは粘液だ。そして、見ろよ、この夜景。こんな夜景だって、英雄はみんな女にくれてしまうだろう。しかし、独裁者はすべてを自分のものにする。英雄は貧しい、独裁者は豊かだ。なぜ豊かか? 彼は彼の清廉によってこそあらゆる人々の努力が自らに帰属することを知っているからだ。人民による不断の努力が、己のかいなに蓄えられた筋肉のように躍動してその力を奮うことを知っているからだ」

 言い終わると彼は憂わし気な表情で街を見下ろした。

 彼の観念的な憂いは、いつも何か彼の実際的な問題から生じていることを私は知っている。きっと今度も、何かあったのだろう、そしてまた、聞き役として私を呼びつけたのだろう。

「しかし、きみの言うような英雄や独裁者は、現代にあり得るだろうか」

「おお、敷島。俺の哀しみはまさにそこにあるんだ。今、俺は英雄というものを悪様に言ったが、それでもやはり、純粋な英雄というものが現代ではありえなくなってしまったことは哀しく思う。現代の独裁者も、みな英雄の真似事をしようとして、その出来損ないになり果てている。独裁者の失敗は、いつの時代も英雄になりたがるところに原因がある。こんな夜景は、是非とも真の独裁者の手中にこそあるべきなのだが、現代は、殊にこの国では、英雄も独裁者も受け容れない。それらは道化の語り草で、つまりは肉体としての彼らのビジョンはバーチャルリアリティ宛らに観念化してしまった。今やスマートフォンやインターネットが彼らの代替なのさ」


 私も長崎に倣って街を見下ろした。

 地上ではあんなにも汚い街が、ここから見れば光に浄化されて、ゴミや、吐瀉物や、ネズミの死骸も、何やら重要な、欠いてはならないディティールのように、私には思われてきた。微細な、極めて精密な機械の内側を覗き込んでいるような感じがした。コンピュータの基板の中を電子が泳ぎ渡るように、人々もこの街の中を遊泳し、各々の役目を果たしている。彼の思想は、私にも分からなくもないが、些か、滑稽に思えた。これは一つのシステムなのだ。闇の内側から励起するエネルギーを不断に支え続けるための、システムなのだ。時間の波に、いつかは押し崩される運命を負った、一本の大きな柱、自らを支えるために自ずから屹立した実体のない不条理な柱、そのフォログラムを投影するためのシステムが、この地上の電子基盤に宿る英雄やら独裁者やらの魂なのである。


「それで、今度は何があったんだい?」

「心外だな、おまえは俺が、いちいち己のメランコリーを開陳するためだけに人を呼び出すような露出狂だとでも思っているのかい?」

「違ったかな? これは失敬」

 言いながら私は無意識に懐を探ったが、すぐにここが禁煙であることを思い出して手を止めた。不意に長崎と目が合ったが、彼は何故だか嬉しそうに目を細めた。

「やっぱり、俺たち向きじゃないな」

「いつもそう言っているだろう。それとも独裁者は煙草を吸わないのかな?」

「もちろん、そうとも。煙は英雄向きだ。それに、料理だってまだ来ていないぜ?」

 私は懐から出した手を所在なげにテーブルに置くと、なんだかどっと疲れが押し寄せてくるのを感じて、脱力した。

「最近吸う量が増えたんだ」

 ため息ともつかないような低声で私は呟くと、彼はそれを気に留めたのか、「おまえの話も聞かせてくれよ」と、言った。

「つまらない話ばかりだよ。するとしても仕事の話ばかりだ。男のする仕事の話がこの世で一等つまらない話題だということは、既に俺の親父が証明してくれたことさ。寡黙は男の美徳だが、これは虚栄の防衛本能でもあるのだよ」

 そう私はおどけてみせた。

「そうか、まあ、俺も、大した話の準備はないんだが……」

 すると、丁度オードブルが運ばれてきた。

「ようやく酒の肴になりそうなのが来たな」

 私が言うと、彼はいじけた顔を作ってみせた。

「俺じゃ力不足ってわけか?」

「そいつは味見してからでないと分からないな」

「まあ、なんだ、本当につまらん話だぞ?」

「くどいな、言えよ」


 長崎は少しためらった後、渋々で、というポーズを取りながら、言った。

「俺が、手紙が苦手なのはしっているな?」

「そうだったか?」

「そうだ。手紙の文章というものの書き方が、俺にはいまいち分からないんだ。何と言おうか、言葉というものは、好き勝手に放ってしまって、後はおさらば、どこか遠いところで木霊し続けているのかもしれないが、そんなことは知らない、そんなものであって欲しいのさ。でも、手紙の言葉は一対一だし、しかもずっと残り続ける」

「そんなことを言うとは、詩人らしくないじゃないか」

 私たちは料理に手を付けずに話をつづけた。

「詩というものは本来歌だろう。歌は山野を木霊して彼方に消えていくものだよ。歌われるために書かれた言葉というのはどこか不純ではないか? 歌われた後に、書かれた言葉だけがそこに残っていたら、俺は興覚めだと思う。歌の響きの余韻は、もっと不確かな、時間に置き去りにされていく帰れない故郷のような懐かしさを持っているべきなんだ。それに比べて、書かれた言葉のなんて現在的だろうと俺は思う。歌は、当然、歌われることにこそ意味がある。書かれるということは歌の性質ではない。余剰な意味の付加で歌本来の意味を毀損することはあってはならないんだ」

「つまり、なんだ、おまえは手紙について何か困っているということか?」

「もっと正確に言えば、文字でのやり取りだな。最近ネットで、ある人と知り合ったんだ」

「ある人?」

「ある人、としか言えない。実際、俺もよく知らない人だ。ネットでたまたま知り合って、それからよくやり取りをするようになった。でも、顔はもちろん、本名も知らないし、声だって聞いたことがない」

「現代じゃよくある人の繋がり方じゃないか」

「よくあることでも、俺にとっては初めてだ。とるに足らないものだと思っていたが、これが存外……」

 私は、何故だろう、ちょっとの不安感を覚えた。

「相手は……女なのか?」

 彼はあの憂いをまた街の上に垂れた。

「男だと言っていたが、それもどうだか……」

「そうか、そうか、まぁ、少なくとも、そういった関係の話ではないわけだな? となると、いよいよ分からないぞ、お前のような男が、たかがネットでの交友なんぞに気を揉むだなんて」

「ふふふ、そう買い被ってくれるなよ、俺だってそんなに図太くできちゃいないさ。それに、もちろん特別な事情はある」

「特別?」

「その人は天才なんだ」


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 天才は全てに許されている。なぜなら、彼は全てを裁くからだ。

 天才は恐ろしい。


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