4:養護教諭

 夏休み明け。ウズメは相変わらず、登校時間には保健室に顔を出した。出席を取るわけではないからと、遅刻をよしとせず、決まった時刻にはテーブルについて、始業時刻まで楽譜をめくったり、音楽を聴いたり、サックスを出してポチポチ指を動かしていたりする。音を出さないのに、練習になるのかしら、なんて思いながらわたしはそれを眺めている。

 授業の開始時刻とともに、時間割に則った教科の自習をする。各教科の担当教員から課題を出されている場合もあるらしい。そういったものたちを、ひとりで黙々とこなしている。根は真面目なのだろうと、それは一学期から思っていたことではあった。

 友人たちのいないとき、ウズメはどちらかというと物静かな生徒だった。こちらから話題を提供すればそれにのって話してはくれるものの、自分からは声を発しないし、自分の話もほとんどしない。だからといって話しかけられることをいやがるふうでもなく、むしろ会話それ自体は楽しんでいるようでさえある。他者を拒絶するでもないのに容易に踏み込ませない、独特の距離感のある子だなあ、と評価していたのだけれど。

 一週間も経つと、違和感に気づかされた。この子の楽しげな声を、夏休みが明けてからまだ一度も聞いていない。もともと声高に笑うような性格でもなかろうが、それにしたって活気に欠けてはいまいか。そう思う理由は、考えたらすぐにわかることだった。友人たちが、保健室に姿を見せないのだ。以前であれば、二日と空けず、イヌシカかタモが訪ねてきたものだったのに。

 実のところ、タモの身に何かが起きていることは把握していた。転入してきて以来続けている定期面談の、夏休み明け初回から、明らかに彼の様子はおかしかった。今のウズメよりもよほど塞いでいるうえ、何も語ろうとしないからだ。てっきり、あれだけ熱心に練習していたコンクールの結果が振るわなかったことに起因しているのかとも考えていたけれど、もしかして、違うのだろうか。

 生徒の間に起こっていることに対し、我々はどれほど口を出すべきだろう。彼らはわたしの思うほど幼くはないし、翻って、わたし自身は、自分で思うほど大人ではない。介入することで事態が好転するかも知れないなんて、思い上がりはしたくない。

 そんな葛藤がありつつも、やはり気にはなった。昼休みを黙ったまま、心ここにあらずといった面持ちで楽器を構えて過ごすウズメを見ていられず、つい口火を切った。

 「イヌシカさん、このところ見ないわね」

 様子見のつもりで、本命のタモではなく、イヌシカの名を出したのだけれど。

 言った瞬間、傍目にも明らかにウズメの身が強張った。サックスのキーが一度に塞がれ、ポン、と間抜けな音を立てる。

 半呼吸ほどの間を空けて、こちらを見た表情は、ひどくぎこちなかったが、曲りなりにも笑顔だった。

 「そういえば、そうですね」

 あからさまに動揺していて、本人も隠せていないと自覚しているだろうに、それでも浮かべる笑みに、頑なな拒絶の意志を感じた。どうやら触れられたくない事情があるらしい。

 すぐにそう思い至りはしたが、わたし自身はやはり心のどこかで「まさか拒絶されるわけはあるまい」と高をくくっていたのだろう、動揺がこちらにも伝播して、よせばいいのに、咄嗟に余計な言葉を継いでしまった。

 「あの、そう、タモさんも来ないわね」

 「……タモには、フラれました。だから来ません」

 「え、フラれ、あ、そうなの……」

 なんでもないような口ぶりで、しかしウズメは顔を背け、いそいそと楽器を片付け始めた。本体に掃除用の布(スワブと言うらしい)を通す仕草が、いつになく大袈裟だ。その意図は明白で、わたしはさらに余計な口を挟まぬよう、椅子の背に身を預けて深く息を吐いた。イヌシカのことと同じく誤魔化せばよいものを、明確に理由を口にするあたり、或いは気にかけてほしいという気持ちの表れかも知れなかったが、それが直ちに詮索してよいということにはならないから思春期の心性は難しい。こういうときは黙るに限る。

 夏休みの間にそんなことがあったとは知らなんだ。一学期の終わりには、確かに、タモがひとりでここを訪ねてくることが多かった。ウズメにしても、タモにしても、話すのが得意な性質たちではないから、外から見ていてもたいへんにぎこちない訪問だった。しかしいくらもせず彼らは打ち解けた。きっと通じ合うものがあったのだろう。ある切り口から見れば、このふたりはよく似ている。

 そしてそうなれば、ウズメが、タモの頻回の来訪の意味を取り違えてしまうのも、タモに惹かれてしまうのも、無理からぬこと、時間の問題だったと言えよう。ウズメの勘違いは、起こるべくして起こってしまった。

 たとえばタモは、二週にいっぺんの二者面談で、イヌシカのことをよく綴る。懸命に手を動かす彼の頬は仄かに上気して、美術品めいた、どこか超然とした表情が、いつになく楽しげに綻ぶ。そして、その文脈にのみ、ウズメの名前は存在していた。彼はたぶん、イヌシカの手伝いをしたかった。彼はイヌシカのために、保健室へ足繁く通っていた。

 ウズメはもう知っているのだろうか。だから、イヌシカの話題を露骨に拒んだのだろうか。そして、タモが気落ちしていたのは、ウズメの告白を断ったことが、イヌシカに知れたからか? 友人の気持ちが無碍にされたとあっては、イヌシカもきっといい顔はしなかろう。……ややこしい話だ。

 ところが、実際の話はもっとややこしいようだった。いつの間に手を止めていたウズメが、俯いたまま、震えた声で言う。

 「タモと付き合わないでくれって、イヌシカに言われました」

 「えーっと、それはつまり、フラれる前に?」

 「そうです。イヌシカは、なんでも持っているのに、なんでもできるのに、タモまで……。ずるいですよ」

 言いながら、とうとう嗚咽まで漏らし始めてしまう。わたしは慌てて駆け寄って、隣に座った。頭を抱き寄せ、そっと撫でてやる。しかしそうしながらも、内心は疑問でいっぱいだった。

 タモとウズメが恋仲になることを、イヌシカまで望んでいなかったとはどういうことだ。イヌシカがタモを好いていたと仮定すると、タモとは言わば両想いなわけで、タモが気落ちする理由がなくなってしまう。

 ……そうか、だから仮定が間違っているのだ。イヌシカが好いていたのは。

 ははあ、なんとまあ。図にしてしまうとややこしいどころかいっそ綺麗なまでの三角形だ。みんな一方通行で、みんなが不幸になってしまう、ひどい三角形なのだ。

 ウズメは泣きながら続ける。

 「ずっと、ずーっと、誰かと比べられている気がして怖かった。誰かよりもデキの悪い自分がきらいだった。だけど、イヌシカといると、自分もなにかできるかもって思えたのに。それって、全部、イヌシカがすごいだけ。わたしにはやっぱりなんにもなくて。イヌシカが全部持って行っちゃう。きらいだ、イヌシカなんか……」

 ウズメの背中を軽く叩きながら、ただ頷いて応えていた。きっと誰にでも身に覚えのある不安を、この子は人一倍に抱え込んでいて、そのうえ、信頼していた友人にトドメを刺されたように思ってしまったのだろう。この場で、「違う」と話してやることはできる。イヌシカはあなたから何も奪っていない。イヌシカも、タモも、むしろ与えようと必死だっただけだ。その向かう先は、入れ違ってしまっていたけれど、あなたに悪意を持って接してはいない。ウズメにそう言って、一つびとつの齟齬を解きほぐして正してやることはできるだろう。

 しかしそれらは、本人たちの間で解決すべきことだ。まだどうしようもなく間違えたわけじゃない。戻ることも、やり直すことも、いくらでもできよう。だから、わたしはここにいて、傷ついたときには休めるよう、受け止めてやれるよう、腰を落ち着けて待っていなければならない。そうして傷の癒えたころ、また、ここから送り出してやるのだ。

 ひとしきり泣いたウズメは、腫れた目を伏せながら身を離した。親でもない大人に縋り付いていることが、今更恥ずかしくなったのだろうか。上擦り嗄れた声を精々低く落として、いじけたみたいに小声で言った。

 「教室、行きます。でも、音楽はやめます。やっぱり、苦しいから」

 「……そう。うん、わかったわ」

 それはきっと最善の解ではないのだろうけれど、本人が決めたなら、それを後押ししてこそ、大人ってものだろう。頷くと、ウズメはようやく、小さく笑んだのだった。

 それからウズメは、すっと立ち上がった。掌で目元を拭い、荷物を背負う。最後にサックスのケースを携えると、それをじっと見つめ、唐突にわたしへ突き出した。

 「あげる」

 「いや、もらえないわよ。音楽できないし。それ、高いでしょう?」

 「安物だよ。バイトで買ったやつだし」

 「尚のこともらえないわ。いつか使うかも知れないでしょう」

 「……。これは、もう使わないと思うけど。どうしようかなあ」

 もごもごと呟きながらも、ウズメは踵を返す。保健室から出る間際、振り返って、苦笑いを浮かべた。

 「ありがとう、先生」

 「いいえ」

 そして、かわいい生徒がまたひとり、現実へと戻っていく。

 静かになった保健室に、窓の外から、歯切れのよいトランペットの音が響いてきた。それに寄り添うように、比べてしまうとまだ僅かにぎこちない、それでも十分にきれいな音色が重なっている。珈琲を片手にデスクへついて、目を瞑る。暖かな日差しに溶けあう音楽へ、わからないなりに耳を傾ける。

 そのときだ。

 「ばかやろーっ!」

 トランペットの音に負けぬほどの大音声が中庭に木霊した。それがウズメの声だと気づくと同時、ガシャンッ、と不穏な鈍い音、さらに複数の生徒の悲鳴が続く。最悪の想像が脳をかすめてマグカップを取り落とした。指先を焼く珈琲の熱など気にならなかった。ただ、最前に見たウズメの背中がフラッシュバックのように思い出され、眼前に明滅する。

 窓の外を、数人の生徒が大慌てで行き来していた。彼らの声が耳に飛び込んでくる。意味のある言葉だけを、わたしの頭は勝手に拾い上げてはつなげていく。

 「なんであんなもん落ちてくんだよ!」

 「なにあれ、楽器か? サックスじゃん?」

 「うへえ、バラバラだよ……」

 は、ははは。なんだ、そういうことか。

 ひどい、ひどい音だ。早鐘を打つ心音が、耳を聾している。血流さえ聞こえてきそうなその奥に、先のトランペットと、ウズメの泣く声と、今しがたの衝突音がごちゃ混ぜになって、繰り返しくりかえし再生された。まったく、ひどい音だ。わたしにもわかる、こんなのはハーモニーと呼べはしない。

 頭を振って立ち上がった。白衣の袖が珈琲に染まっていたが後回しだ。楽器が落ちただけどはいえ、怪我人の有無くらいは確認しなければ。そうして保健室を出ながら、落ち着きを取り戻さんと、知らずくだらない言葉が思い浮かぶ。

 これが、青春の音色ってやつなのかしらねえ……

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不整和声 茶々瀬 橙 @Toh_Sasase

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