3:イヌシカ
夏休みに入り、コンクールを目前に控えた部員たちには、練習に対しさらに熱が入っていった。地区大会を越えられれば重畳、県大会で銀賞をとることすら数年来できていないような弱小校だったが、それを理由に、或いはその原因として、練習の手が抜かれるわけではない。誰かに少しでも和を乱す言動があろうものなら、八方から糾弾され、涙ながらに説得され、部員全員を巻き込んで話し合いが開かれて、仲間意識を再確認する。わたしたち、一緒に頑張れるよね、なんて感動的な和解の末に結束を強めて猛然と青春を爆走するわけである。それを嫌う者は、そこに違和感を抱く者は、そもそもこんな部活には入るまい。
そういったわけで、幾度かの「目的意識の統一」の時間を経ながらも、一丸となって曲を完成させていく中、未だウズメは部活に来ていなかった。最早部員たちは、同じパートであるサックスの子を含め諦めの姿勢で、その抜けた分の和声をどう埋めるべきかという方向で、顧問ともども調整に入っていた。幸い、クラシカルな曲調の楽曲でアルトサックスは所々に花を添えるばかり、何番パートを務めるかに一考の余地はあったものの、それさえ誤魔化してしまえば音の厚みに差し障りはなかった。ウズメなしでも、曲は成り立っていた。むしろ今戻ってきたならば、大勢の反感を買うこと必至だろう。もう、分水嶺は越えてしまっているのだ。今年のコンクールを、ウズメと出ることは、できない。
一方のタモくんはと言えば、誰もが認めるくらいの熱心な練習の甲斐あって、どんどんと上達していた。もちろん、とある先輩様の懇切丁寧な指導があったおかげでもある。そんなことを冗談交じりに言ったら、タモくんはほんとに恐縮したみたいに深々とお辞儀をしていた。「いや、そんな本気にするなよ」とこちらが慌ててしまったら、それを見てこの後輩はにやりと口の端を歪めるのである。生意気になったものだ。
ある日の部活終わり、一日の練習を終えた夕間暮れ。つかれたー、あちぃね、帰るのだるい、どっかごはん食べて帰ろ、などなど、部員がバラバラに音楽室を後にする中で、タモくんが近寄ってくる気配があった。帰り支度を終えた彼が傍らに立つ。ほんの少しだけ下にある彼の目と視線を交わし、頷きあって、リュックを背負いなおした。今日は彼に誘われて、ハンバーガーショップへ足を運ぶ予定だった。先日その連絡を受けたときには、まさかデートの誘いかと思ったものだけれど、後から直に問いかけると、彼は顔を真っ赤にしながらも首を横に振っていた。あはは、そうだよな。彼には好きな人を知られてしまっているのだから。
タモくんに、ウズメを好きなのかと聞かれたときには、正直驚いた。どういう脈絡だったか、メールでは思いの外に饒舌な彼の文面に、突然そんな文字が並んで、ぎゅっと心臓が縮んだ気がした。誤魔化す方法もあったのだろうけれど、何かしら確信のある風で、それでいて否定的な文意を感じず、彼になら打ち明けてもよいかと思えたのだ。自分の思いでありながら、疑問を持たずにはいられないこの感情に、初めて向き合うことができたのはきっとこのときだった。タモくんからは、応援しますね、と心強い返信をもらっていた。
他の部員と挨拶を交わしながら、ふたり、連れ立って音楽室を後にする。タモくんも先輩や同級生に声を掛けられて、その度に頭を下げたり、手を振ったりして返していた。転入生で、音楽の経験がなくて、他の理由もあって、入部当初ははっきり言ってお荷物の扱い、遠巻きにされていた彼だが、今ではよく馴染んでいる。
校舎を出て、正門を折れて、タモくんは迷いなく進む。学校から最寄りの店とは、向かう先が違っていた。彼が行き先を言おうとしないから、黙って付き従う。やがて辿り着いたのは、チェーン店ではあるがあまり馴染みのないハンバーガーショップだった。店のあることは知っていたけれど、一度も入ったことがない。タモくんは出入り口の前で束の間、携帯電話に目を落とし、それから自動ドアをくぐった。もしかしたらこのあたりに彼の家があって、行きつけなのか、と納得しかけたけれど、どうやらそれは違うらしい。入ってすぐに足を止めて、恐るおそると店内を窺っていた。
余談だけれど、タモの足を踏み入れた途端、周囲の視線が控えめながらも彼に吸い寄せられて、女性客はもとより男性客の一部も釘付けにされていた。そこここで、「やば」「すげえ美少年」「え、男の子? 女の子?」なんて声が小さく聞こえてくる。筋違いのいやらしい話だが、その隣に立っている自分がちょっとだけ誇らしいような思いになってしまった。まったく、男女を問わず美人はお得だね。
それはさておき、ぎこちなく注文を済ませて、客席につこうという段になったとき、タモくんが知らない店にわざわざ足を運んだ理由がようやくわかった。人の目を――学校の生徒の目を避けたのだ。彼の迷いなく座ったボックス席には既に先客があり、その先客というのが、ウズメだった。
驚いた。ウズメとは夏休みに入って以来、顔を合わせてもなければ、連絡さえとっていなかった。部員を一人欠いたまま、それを前提に動き出してしまった我らが部活という手漕ぎ船の、漕手のひとりを務めていながら、どうして桟橋の上に立ち止まっていられよう。後ろめたかった。ウズメの帰ってくることを願っておいて、結局は流されるまま、進み始めてしまった自分がとても薄情な人間に感ぜられた。だから、顔を合わせることを、意識的に、或いは無意識的に、避けてきたのだ。
久しぶりに見たウズメの顔には、幾分の緊張が見て取れた。それはこちらにしても同じことだったろう。ぎこちなく挨拶を交わして、タモくんの隣の席に着いた。
「どうしてたんだ、夏休みの間、一回もまだ部活に来てないじゃん」
ほんとうは他に訊きたいことがあったのに、口を突いたのはそんな軽口だった。声はいつもと変わらぬ調子で発せられ、まるで自分の声ではないように遠くで響いた。目に映る世界が急に遠退いて、心は我が身を離れ、眼下でイヌシカという何かが自立人形の如く不気味に口を蠢かせている。そんなふうに思った。
ウズメは夏休み前と変わらぬ苦笑いを浮かべて応える。
「イヌシカこそ、部活がんばっているんだってね」
「ん? ああ、まあな。なんだ、タモくんに聞いたのか?」
「そうそう。この子、イヌシカの話ばっかりするよ」
「ええ、愚痴か?」
隣を睨みつけると、とうのタモくんは慌てて両手も首も振っている。顔を赤くして、咄嗟に一言の言い訳だって出てこないらしい。かわいい後輩だ。
代わりにウズメが弁護する。
「ううん、そういうのじゃないよ。イヌシカのトランペットが上手って話。すごいよねえ。来年の部長候補なんでしょ?」
「それは、ほかの連中が勝手に言っているだけだろう」
むっとして言うと、ウズメは首を竦めて小さく笑った。
その笑みは以前と変わりなく見える。音楽室でサックスを吹いていたあの頃と。しかしその口ぶりは、まるでもう、自分が部活に所属していないかのようだ。テレビドラマの感想を述べているみたいに、他人事の気味があった。
「部長なんてさ、荷が勝ちすぎているよ」
手を振って冗談めかしていいながら、心では勝手に別のことを考えている。つまり、ウズメはもう戻るつもりはないと決意しているのか、まだ未練があるのか、必死に見極めようとしていた。部活に戻りたくて、だからこうして会おうとしてくれたわけではないのか。しかしそうだとしたら、わざわざタモくんを仲立ちにおいた理由がわからない。
タモくんへちらりと目配せする。彼もまたこちらを見ていて、視線に気づくとコトリと首を傾げた。男女の区別に迷うほど綺麗な顔立ちに、その仕草はこの上なく似合っていたが、今ほしいのはそんなあざとい応答ではない。仕方なしに、ウズメへ向き直った。
「いつの間に仲良くなったんだ。やっぱり美少年の魅力に負けたのか」
イヤミっぽくならぬよう、慎重に声音を整えながら口にする。心の底に粘性を伴って、少しずつ湧き出しているこの濁った感情が、嫉妬であることはわかっていた。しかし、タモくんとウズメと、どちらに対して向けられた思いなのか自分でも判断に迷っていた。
タモくんについては今更語るべくもないが、ウズメも、器量が良ければ気立ても良い性質(たち)だから。でも、タモくんは、応援すると言っていた。そうだよね?
「イヌシカが連れてきてから、時々、ひとりでも顔を出してくれるんだよ。保健室の先生とも、もともと知り合いだったみたいだし」
ね? とウズメが問いかけて、タモくんが頷く。顔を見合わせるふたりの間に、知らぬ間に繋がれた関係性が確かに見て取れて、息が詰まった。ふたりはどんな話をしたのだろう。どうして、そこに自分はいなかったのだろう。そうだ。どうして、ふたりとも黙っていた? ふたりを引き合わせてからも、夏休みに入るまで、何度も保健室へは足を運んでいた。それなのに、彼らが会っているところへ遭遇したことがない。ウズメも、タモくんも、まるで示し合わせたみたいに隠れて会っていたわけじゃないか。どうしてそんな……。
ウズメの部活に対する思いも、ふたりの間に築かれた絆のことも、なにもわからない。まったく気持ちが追いついていかない。それなのに、相変わらずイヌシカの顔は平静を保ったままで。いつも通りの、飄々とした半笑いを浮かべていて。
ふと、ウズメがじっとこちらを見つめていることに気づいた。目が合うと、すぐに逸らされてしまって、その真意までは読み取れなかった。しかしその一瞬で、ぎゅっと心臓が縮むような思いがした。なぜだろうか、それほどまでに、冷たい目をしているように感じたのだ。互いに一番の友人だと自負していて、自分よりも互いのことを知っているとまで思っていたのに、今では見知らぬ他人のようにさえ感じられる。
次の瞬間、再びウズメの目がこちらを見た。表情は能面のようにのっぺりとしていながら、まっすぐに、射竦めるみたいに厳しい眼差しだった。
「わたし、部活辞めるよ」
「……いきなりどうした」
「もういいの。いやになっちゃった」
「だから、なにがあったんだ」
「イヌシカにはわからないよ」
「……っ」
咄嗟に言葉が出なかった。喉の奥を堰き止めるのが、怒りなのか、悲しみなのか、どちらでもないのか、定かでない。しかし首元から目の奥、頭へとかあっと血が上っていく、その感覚だけが妙に明瞭に意識された。ああ、これは泣くな、と思うと同時、自分の右目から涙がこぼれていく。視界の隅で、わたわたと慌てているタモくんが見えた。
そのとき。それまで無表情でいたウズメが、口の端だけで、薄く笑った。ふ、っと軽やかに息を吐いて、表情を和らげたのだ。それから、徐に頬杖をつくと、その優しげな瞳はすいと横に逸れていき……、タモくんを捉えた。
「タモ、ねえ、わたし、あなたが好き。あなたは、わたしにとても優しくしてくれたから」
ウズメが、これまでに見たことの無い表情で、タモくんに微笑みかける。無意識のうちにそれを追いかけて、タモくんを振り返った。そのとき、自分はいったいどんな顔をしていたのだろう。こちらを見つめ返すタモくんの表情は、強張り、青ざめて、小さく首を振っていた。見開いた目は強く否定を訴えかけていた。
しかし、そこに込められた思い全部が、嘘だと思った。
信じられるわけがない。タモくんは、隠れてウズメに会っていた。ふたりともそれを意図して黙っていた。なにより、ウズメは、ウズメが……、タモくんを好きになってしまった。
応援するって、言ったのに。
ウズメはひとり、軽やかに言葉を続ける。
「夏休みが始まってからも、連絡くれて嬉しかったよ。一緒にでかけたりもしたかったけど、タモは部活で忙しいもんね。わたしの言えたことじゃないかも知れないけれど、コンクール、応援しているから。終わったら、おでかけしよう?」
タモくんがウズメを見る。彼は今にも泣きそうな顔をしていた。何かを言おうとしたのかも知れない、ふるふると唇が震え、しかしそれが音になるより先に、ウズメが立ち上がった。トレイを持ち、テーブルの横に立つ。
振り返ったとき、その顔は不気味なほど晴れやかだった。
「それじゃあね」
そう言葉を掛けるのも、柔らかく微笑むのも、手を振るのも、みんなタモくんに向けられている気がした。ウズメの目には彼のことしか映っていなかった。言い終わると、返事も待たず、ウズメはふわりと踵を返す。足取り軽やかに歩み去る。離れ行く背中に、どんな言葉を掛けることができただろう。
涙を拭うこともできず、店外へ消えていくその姿を見送った。見えなくなって、やっと息をすることができた。その隙をついて、肩に何かの触れる感じがあって、意識するより先に思い切り振り払う。
しまった、と思って怖ずおずと振り返った。当然そこにはタモくんがいて。彼は宙に浮いた手を彷徨わせていた。目を伏し、束の間上げたと思ったらはっとまた伏して、小さく震えている。長い睫毛は微かに濡れ、一言の弁解もない。まるで小動物のようなタモくんの仕草は、いつもだったらかわいらしく見えたに違いない。今までだったら、考える前に頭を撫でていたに違いない。
しかし今は、ただただ憎かった。今すぐにでも彼に消えてほしかった。そうでなければ、手を上げてしまいそうだ。拳を一度、自分の膝に打ち付ける。まるで自分が殴られたみたいにタモくんがびくりと首を竦める。そんな様でさえ見ていられず、大きく吐いた息で熱を逃がしてから、席を立った。タモくんが顔を上げたのはわかったが、視線を合わせることはできなかった。
「……タモくんなんか、嫌いだ」
ようやくそれだけを吐き捨てて、一瞥でさえ向けてやるものかと勢いをつけその場を立ち去る。
店を出る直前で、出入口の手前のごみ箱に、包みを開けてもいないハンバーガーを思い切り投げ込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます