2:タモ

 こんなことを言っては恐れ多いのかも知れないが、ぼくはイヌシカ先輩が好きだった。諸事情あって転校してきたぼくを敬遠せず、ほかと等し並みに扱ってくれる先輩の、飾り気のない態度にやられてしまった。音楽に関して全くの初心者であったぼくに、嫌な顔一つせずトランペットを教えてくれる優しさにもとても助けられていた。好きになるのに時間がかかるはずもない。

 そんな先輩の新たな一面を、ぼくはこの日、垣間見ることになる。

 イヌシカ先輩がどんどんと廊下を進むから、ぼくは行く先を尋ねることもできなくて、黙って先輩を追いかけた。いつも明るくて、剽軽者の先輩が、真剣な眼差しで前を見据え、口を噤んでいる。軽薄そうな涼やかな目鼻立ちは、こういうときにはすごく怖く見えるのだなって、斜め後ろからその横顔を見ていた。

 通りすがった教室では、クラリネットを持った数人の生徒が半円形に座って、パート練習を始めようとしていた。目が合って、ぼくは苦笑いを返す。彼女たちは不思議そうに首を傾げたけれど、前を歩くイヌシカ先輩に気づいて、何かを察したみたいに小さく頷いた。先輩の突飛な行動は日常茶飯事、という扱いらしいのは、この二週間でわかったことだった。確かに、先輩はあまり他人の目を憚らないところがある。でも、それでひとに迷惑を掛けたり、いやな思いをさせたりはしない。そういう、素敵なひとなのだ。

 ぼくたちも、ほんとうなら今頃トランペットの練習を始めているはずだった。ようやくまともに音が出せるようになってきて、イヌシカ先輩との個別練習よりも、他の部員も交えたパート練習の時間が増えていた。半音階とか、ロングトーンとか、基礎練習についていくだけでも大変だったけれど、下手なりに上達している実感があった。それで、教室に集まっていざパート練習を始めようと意気込んだところで、先輩が不意に立ち上がったのだ。

 「ちょっと、行くところがある。タモくんを連れていく」

 パートのメンバーがぽかんとしているうちに、イヌシカ先輩は楽器を置いて教室を出てしまった。ぼくはわけもわからずついていくしかなかった。

 発端はなんとなく思い当たる。部活の始まりは、部員全員が音楽室に集合するのが習わしで、そこで今日の予定を簡単に確認したり、準備運動に筋トレをしたりするのだけれど、そのときにぽつりとサックスパートの先輩が言ったのだ。やっぱりタモぼくサックスこっちに入れるべきだったんじゃないか、って。初心者のぼくにはぴんと来なったけれど、編成を考えるとサックスは人数がひとり足りないらしい。コンクールに向けた練習が本格的に始まって、それが気がかりになってきた、今からでも変えられないか、という話だった。もっとも、これは冗談半分、愚痴半分みたいな口ぶりで、困っているのは事実でも、ほんとうにぼくのパートを変えようという気はなかったのだと思う。ところが、これに少し強い口調で反論が上がった。イヌシカ先輩だ。

 「サックスは、いるだろう」

 激昂するような語調ではなく、むしろ静かな物言いだったけれど、低い声には抑圧された感情がのっている。愚痴を言った先輩は、イヌシカ先輩の声に驚いて、ちょっとだけ肩を震わせた。そして、言葉もなく、気まずそうに目を伏せた。すかさず部長が練習開始の音頭をとってその場はお流れになったものの、そこには何か、ぼくのまだ知らない事情があるようだった。

 ――というのが、つい今しがたの出来事だ。これが今向かっている先とどう関係しているのか、それはイヌシカ先輩の言葉を待つしかない。

 足早に階段を下っていく、先輩の背中がぽつりと呟いた。

 「ウズメっていう、友だちがいるんだ。いいやつなんだ」

 それだけ言って、また難しい顔に戻ってしまう。ウズメ……先輩、かな。聞いたことのない名前だった。でもそれが、今はいない部員の名前であって、サックスパートが一人欠けている理由であることは察しがついた。イヌシカ先輩と仲が良かったのなら、さっきの一件、先輩の声に険が籠ったのも呑みこめる。ただ、そうすると、そのウズメ先輩とやらは退部したのではなく、なにか事情が、それもネガティブな事情があってお休みをしているということになる。

 イヌシカ先輩に従って歩いているうちに、辿り着いたのは保健室だった。扉の前に立って、養護教諭の顔が思い浮かぶ。でも、あの先生とは校長室でいつも顔を合わせているから、保健室を訪れるのは初めてだった。ちょっとだけ、気まずいような思いがする。

 先輩は簡単にノックして、返事も待たずに扉を開けた。「しつれいしまーす」と、お決まりの言葉の表面だけをなぞった物言いは、すぐさま室内からの「せめて礼儀を取り繕うくらいはしなさいよ」との声に窘められている。先生の声だ。ただその声も、普段ぼくと話すときよりいくらか砕けた感じがあった。それだけで、イヌシカ先輩が足しげくここに通っていることがわかる。もちろん、それは先のウズメ先輩とやらの存在に起因するのだろう。

 「イヌシカさん、と、あら、タモさん。いらっしゃい」

 先生は保健室の奥で、机についたまま、椅子ごと振り返る。

 「あれ、先生はタモを知っているのか」

 「そうね。ね、タモさん」

 笑みを浮かべた先生に、ぼくは頷いて返す。

 「そうか」

 イヌシカ先輩はさして興味を抱かなかったのか、紹介する手間が省けたくらいに思うだけだったのか、簡単に頷いて、保健室の中へどんどんと入っていった。それが日常なのだろう、先生は肩をすくめるだけで事務仕事に戻っていく。ぼくも恐縮しながら足を踏み入れた。白い部屋、薬品棚、二つあるベッドのうち片方はカーテンを引かれていて、どうやら誰か使っているらしい。中央のテーブルを挟んだソファのうち、向かって右手の一つの端に、学生鞄が置かれているのが目についた。

 ウズメ先輩。この学校に転入してきて、部活に入ってひと月になるけれど、ぼくは一度もそのひとを見たことがない。部活にいないくらいならまだしも、こうして保健室で過ごしているあたり、もしかしたら、クラスにだって顔を出していないのかも知れない。下衆の勘繰りだけど、そんなことを考えた。どんなひとなのかな、どうしてなのかな。ぼくみたいなのだって、こうして、ちゃんと通っているのに。

 「ウズメ、開けるぞー」

 カーテンの閉ざされたその前に立って、先輩は言った。そして、言うや否や返事も待たずにカーテンを翻した。

 「え、いや、ちょっと! 先生、なんで!」

 内側からは慌てた声が上がったけれど、イヌシカ先輩は躊躇う素振りもない。傍若無人が過ぎる……。ぼくは咄嗟に目を逸らした。振り返った先で、先生がにやにや笑っているのに気づく。

 「ウズメっ。サックス、やっぱりやりたくなったんだなっ」

 「ちょっと先生! 止めてくれるって約束じゃないですか!」

 「こらこら、保健室で騒がないのー」

 三者がてんで噛み合わない台詞を投げあっていた。恐るおそるぼくもベッドを見る。そこにはベッドの端に腰掛け、アルトサックスを抱えた見知らぬ生徒がいた。保健室登校をしているくらいだから、てっきりちょっと陰のあるような、言ってしまえば根暗っぽい人物像を勝手に思い描いていたのだけれど、ウズメ先輩はそういうのとは対極の雰囲気のひとだった。イヌシカ先輩みたいな、独立自尊(マイペースとも言う)の気風ともまた違う、ぱりっとした、清廉とか実直といった言葉の似合う風貌の持ち主だ。それが今は、サックスを自分の陰に隠そうとするみたいに抱いて、後ろめたそうに眼を泳がせている。

 イヌシカ先輩はウズメ先輩の傍へ寄っていって、隣へぽすっと腰掛けた。肩を寄せて間近にウズメ先輩を見る、その顔には、ちょっと意地の悪そうな笑みを浮かべている。ウズメ先輩は目を逸らし、唇を歪めていた。

 「部活、そろそろ来るのか?」

 「行かない」

 「そのサックスはなんのためにあるのさ」

 「たまには掃除をしてやろうと思っただけ」

 「わざわざ学校でえ?」

 「うるさい」

 ウズメ先輩はイヌシカ先輩の頬を片手で押しやる。ハハハ、とイヌシカ先輩は楽しそうに笑って横へずれた。そして、唐突に片手をぼくへと向ける。

 「見ろ、タモくんだ。言った通りの美少年だろう」

 急に話題がぼくへと移って、緊張して背筋が伸びる。どんな紹介のしかたですか、というか既にお二人の間でぼくの話が出ていたということですか。そんなツッコミは言葉にならなかった。

 ウズメ先輩の目がぼくへと向けられる。拗ねた子どもみたいな顔をしていたのに、ぼくを見るなり上に下にと視線を巡らせて、感心した面持ちで「たしかに」と口にする。なぜかイヌシカ先輩が、そうだろうそうだろう、と得意げに頷いていた。ぼくは苦笑いを返すことしかできない。よい評価であるはずなのに、こういった褒め言葉は肯定しても否定してもなんとなく嫌味のようになってしまうから困りものだった。

「こっちはウズメだ。とってもいい友人だ」

 ぼくに向けて、今度はウズメ先輩を紹介する。ぼくが深々とお辞儀をすると、ウズメ先輩は「こりゃご丁寧に」と頭を下げている。挨拶を交わすぼくたちを、イヌシカ先輩は腕を組んで、感慨深そうに頷きながら見届けていた。どうしてさっきからこんなに得意げなのだろう。

 それが済んでしまうと、ぼく自身には用件があるでなし、気詰まりな思いになった。俯き加減に、先輩ふたりの顔を窺う。以前からぼくの話題が出ていたようだし、今日のことについて、先輩方の間でなにか打ち合わせがあったのだろうか。

 ところが、ウズメ先輩もまた気まずそうにイヌシカ先輩を横目で窺っているではないか。とうのイヌシカ先輩は、ぼくたちの視線になどまるで気づかず、やりたいことは終わったとばかりに欠伸までこぼしている。自由だなあ。それを確認したウズメ先輩は、ちらりとぼくへ目配せして、肩を竦める。いつものこと。そう言いたげだ。イヌシカ先輩のこの気質に慣れていて、呆れながらも軽く許して流せるあたり、ふたりが長い付き合いであることを思わせた。ぼくは先輩のこういうところも好きだけれど、まだ、ちょっと戸惑ってしまう。立ち尽くしたまま、ウズメ先輩が、サックスの本体からネックを引っこ抜いて片付けを始めたのを、他にできることもなく眺めていた。

 本体にスワブを通して、タンポにクリぺを当てて、ポリシングクロスをかけて、マウスピースからリードを抜いて……。淀みない手つきでこなしているものだから気にもならなかったけれど、楽器をケースに仕舞って、最後にストラップを首から外したところでようやく思い至る。掃除をしてやろう、と言っていたけれど、ウズメ先輩は楽器を吹ける状態に組み立てていたらしい。まさか保健室で音出しはすまいが、息を入れるくらいはしていたに違いない。そういう掃除の仕方だった。

 ぼくが入部してからこっち、ウズメ先輩は部活へ顔を出したことがない。でも、楽器は嫌いじゃないらしい。保健室登校にどんなわけがあるかは知らないけれど、ちょっともったいないと思った。せっかく好きなら、鳴らしたほうが絶対に気持ちいい。初心者のぼくでもそう思う。

 ウズメ先輩が足元に置いたケースの蓋を閉める。それを横目に見ていたイヌシカ先輩は、ほう、と息を吐いた。そのとき浮かべていたのは、穏やかな笑みで、同時に少しだけ、悲しそうでもあって。普段の先輩とはかけ離れた、陰影の濃い面差しに、ぼくの心臓はドキリと跳ねた。しかしすぐに、深い情緒の気配は霧と消える。

 「部活に行くぞ!」

 ベッドの軋むほどの勢いで立ち上がったイヌシカ先輩は、高らかに言う。

 「行ってらっしゃい」

 「ウズメも……」

 「行かないってば」

 「こんな美少年がいるのに?」

 「どうしてそれで行く気になると思ったの……?」

 「そうか。残念だ」

 イヌシカ先輩は大袈裟に肩を落とすと、一転、くるりと身を翻して、大股に保健室出口を差した。

 「練習を抜け出してきちゃったからな。戻ろう、タモくん」

 失礼しましたー、と言い残して先輩がさっさか出ていってしまうものだから、ぼくは慌ててその背中を追う。ウズメ先輩を振り返ると、困ったような、苦しげな顔をしていて、ぼくの視線に気づくと苦笑に変えて手を振った。ぼくは改めて頭を下げる。先生はというと、机に頬杖ついて、なにやら優しい笑顔でぼくたちとウズメ先輩を見比べていた。先生にも一礼して、既に廊下へと消えたイヌシカ先輩に続く。

 追いついた先輩の背中は、いつも通りにしゃきっと伸びていたけれど、足取りに幾らか勢いを欠いていた。保健室を離れてからしばらくして、ウズメのやつな、と先輩は口火を切る。口調は明るかったけれど、空元気なのは隠せていなかった。

 「理由を話してくれないんだ。急に部活に来なくなって、教室にも行かなくなって。でもあんまり変わった感じもしないし。なんでなんだろうな」

 答えを欲しているような口ぶりではなかったし、ウズメ先輩と初対面だったぼくに言えることなんてなかったから、黙って先輩の言葉の続きを待った。

 「力になってやりたい。頼ってほしい。でも、どうしたらいいのかわからないんだ」

 だからタモくんをダシにしてしまった、ごめんね。力なくそう言って肩越しにぼくを振り返った先輩の顔は、さっき保健室で見た悲しげな笑みと同じだった。ぼくはぎゅっと胸を締め付けられる思いになる。先輩を見ていられず、頷くふりで目を逸らす。

 なんとなく、気づいてしまった。イヌシカ先輩は、ウズメ先輩が好きなんだ。好きにも色々あるけれど、きっとぼくがイヌシカ先輩に抱くのとおんなじ好きを、イヌシカ先輩はウズメ先輩に抱いているんだ。

 そのあと、ぼくたちは練習を再開した。トランペットの他の部員に呆れられ、それを笑って跳ね返すイヌシカ先輩はいつもと変わりなく見えた。さっき廊下で見た声も表情も、全部ぼくの見間違いなのではないかと思うほどだ。もしそうだったなら、どれほどよかっただろう。

 一方のぼくはと言えば、お腹に力を入れると音ではなく涙が出てしまいそうで、いつも以上にへなちょこの演奏しかできなかった。先輩は笑ってくれたけれど、ちっともぼくの気持ちは晴れなかった。

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