マジュヌーン

武内ゆり

マジュヌーン

フィルダウスの楽園を求めて、青年は旅に出た。

「どうして旅なんかするのと、君は言ったね」

美しく、地球の神秘が込められた砂漠を、ラバの背に揺られながら渡る。

 青年は一人で渡っていたため、人間の話し相手はいなかった。しかし、沈黙と静かな心で持って注意深く意識を研ぎ澄ませると、大地や風、太陽が語りかけてくるのがわかる。

「それは旅をするのに、遅いも早いもないからさ」

——フィルダウスの楽園は本当にあるのか?

 風が耳元で囁き、麻布のひだをはためかせた。ムーファは頭に巻いた布帽子を押さえながら、極めて小声で答えた。どんなに小さな声でも、自然は聞き漏らすことはない。

「ある。私はそう信じている」

青年が求めているのは、ナツメヤシがたくさん生え、水が潤沢にあり、黄金と美女のある宮殿——そんなものではない。

 フィルダウスの楽園は悦楽と安住の地。彼にとっての悦楽は、静けさの中で得られる幸福であり、安住とは争いや不調和のなき世界で、慎ましやかに生きることだった。常人の描く楽園は、彼の心を掴むことはなかった。本物の楽園はどこかにあるはずだ。

 ムーファはその思いを知り合いにぶつけると、知り合いは、彼のことを

「マジュヌーン(気狂い者)」

と評した。それ以来、ムーファは硬く口を閉ざした。

 ファティールという、この世界を作られた創始者がいる。ファティールの作った世界を見ることが、彼の夢だった。

 だから旅をしている。街から離れ、一人旅をしていると、彼は精神が解放されていくのを感じた。彼は生まれながらに、街の人ではなく、砂漠の人であったことを、心身ともに深く感じ取った。

 ……東だ。

 赤い朝日は重々しく告げる。足跡をつけていく間にも、砂丘は形を変えていく。革袋から水をひとすくい飲むと、体の血液が生き生きと流動し出すのを感じる。

 砂漠を越えると、段々に緑が濃くなっていった。雄大なる山脈と、ぼってりとした白雲のコントラストが、印象的だった。

 麓には、木造の家があった。

 家にはおじさんが住んでいた。言葉が通じたことに安堵しながら、一泊させてもらった。

 おじさんは彼に、どこへ向かっているのか尋ねた。

「フィルダウスの楽園に」

彼は短く答えた。しばらく黙っていたが、このおじさんがムーファと話をしたがっていることを知って、愛想を崩し、いろいろな話をした。

 おじさんはバター茶を作って、歓迎してくれた。ムーファの話をよく聞いた後、

「あなた様の求めるフィルダウスの楽園かは分かりませんが、ここは秘境の入り口だと言われております。もし興味があるなら、グルに紹介いたしましょう」

と言ってくれた。秘境とは何か、グルが何かはわからなかったが、ムーファはお願いすることにした。

 次の日、登山が始まった。母なる峰にやってきた。峰の間を縫うように歩いていくと、さまざまな生き物が暮らしているのが見えた。

 グルは山で修行をしている仙人だった。グルと出会った時、ムーファは雷に打たれたような衝撃が走った。ムーファは直感のままに、

「フィルダウスの楽園を知っていますか」

と尋ねた。グルは答えた。

「よく知っている」

ムーファは秘められていた興奮が表に噴き出してくるのを感じた。

「だが、そこに辿り着くには、道がいる」

「道……」

「それが修行だ。だがお前はここにくるまでの間に、進めておったらしい。声なき声を聞き、言葉なき言葉を感じ取ることだ」

ムーファはグルの下で、しばらく暮らすことにした。

 ある新月の晩だった。星々が輝いていた。その光は美しく、手を伸ばせば届きそうに思えた。

 そうだ。宇宙を作られた創造主と、自分を造られた創造主は一緒なのだ。星も私も、このファティールの心のままに進行している。ファティールの意思を実行するために、全てのものが存在している。

 フィルダウスの楽園は悦楽と安住の地。

 永住を得られる、ファティールの創られた地。

 光の白と、闇の黒が混ざり始めた頃、ムーファはまどろみから目を覚ました。

 朝日は全てのものを、優しく包み込んでいた。森も、川も、家も、動物も、生きとし生けるもの全てに、光を投げかけている。

「これだ」

ムーファは叫んだ。朝日の姿に、ファティールの意志を見た気がした。そこには安らぎと、静かなる幸福が満ちあふれていた。

 彼の見つけたフィルダウスの楽園は、目ではなく、心で見つけたものだった。

 楽園があっても、それを感じ取る心がなければ、楽園の存在を知ることはできない。肉体は滅びても、心は不滅だ。心に平安と調和を作ることができれば、楽園もそこに現れる。

 フィルダウスの楽園は、ここにあったのだ。

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マジュヌーン 武内ゆり @yuritakeuchi

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