第3話 変わる日常
結局、事の成り行きをマリアとなずなに話す羽目になってしまった。昼食を取りながら。
普段は少なからずここで昼食を取る生徒の姿があるのだが、今日にいたってはなかった。屋上に蔓延る不穏な空気を第六感で感じ取り、誰も寄り付かないのかもしれない。賢明な判断だ、と志具は思った。
ちなみに志具の昼食は、菜乃がもってきてくれた。ただ、もってきた入れ物が大きい。三段ほどの重箱となっており、その一段一段に彩り豊かな料理が詰められていた。小皿が志具とななせ、それに菜乃の三人分あり、重箱の中から食べたい料理を勝手に取って食べるという方式である。ちなみに、この料理をつくったのは菜乃である。
菜乃の料理は、一言で言うとおいしい。家庭的ながら、どこかひと工夫されている味付けのおかげで、食べるのが億劫に感じない。今まで志具は、自分でつくって自分で食べていたのでなおさらだった。
ただ、この料理をもっと平穏なときに食べたかったというのも事実だ。少なくとも、今のような棘のある視線と興味津津とばかりの視線を常時向けられながら食すものではない。ちなみに棘のある視線はマリア、興味津津の視線はなずなのものだ。ちなみに二人とも、自分の弁当をちゃんと持ってきている。
一通りの志具からの話を聞いた二人は、しばらく信じられないとばかりの様子だった。無理もない。自分だって信じたくないさ、と志具自身も思っているくらいなのだから。
マリアは穴が開かんばかりの棘のある視線を志具に向けていたが、やがて瞼を閉じ、「はぁ」と息を吐くと、
「……まあ、事情はわかったよ。認めたくはないけどね」
「わかってくれたか?」
うん、とマリア。その様子に、志具はほっと胸を撫で下ろす。
「ただ、どうしてまたななせさんたちは、急に志具君のところに来たのかな?」
いまいち腑に落ちないのか、マリアはななせを問いただす。その視線にはどことなく、険がこめられているように感じられる。
しかし、そんな視線をななせはまるでそよ風に当たっているかのように気にしている様子はなかった。その証明として、平然と彼女の問いに答えてみせる。
「そりゃ決まってるじゃないか。許婚として、将来の相手と一秒でも長く同じ時間、同じ空間を共有したいからさ」
許婚、というワードを聞いて、片方の眉をピクリと動かすマリア。彼女にしてみれば、気に入らない単語なのだろう。
志具も、ごまかしを利かせるためにはそうななせが言わないといけないことはわかる。まさか魔術云々を堂々と公言するわけにはいかない。そんなことをすれば最後、頭がどうにかしたのかな? とマリアに心配されかねない。志具にしてみればマリアは、数少ない親しい友人なのだから、離れてしまわれては辛いものがあった。
「そ、そもそも、ななせさんたちの両親はどうなの? 娘がそんな行動をとって、何にも思ってないの?」
「ああ、大丈夫だ。むしろあたしの親は、『もういっそ結婚しちゃえ』って言ってるくらいだし」
「けっ、けっこっ……!」
驚きのあまり口をパクパクし、それ以上何も言えなくなるマリア。まるで何らかの衝撃を受けたかのように身体をのけぞらせていたが、マリアはそれでも果敢に立ち向かう。
「ふ、二人はまだ学生なんだよ? なのに結婚って……気が早すぎるよ!」
「なんでだ? 将来一緒になるんだから、単に時期が早いか遅いかの差だけだと思うけど。――なあ、志具」
「なんでそこで私に振る?」
ジトッとした眼をななせに向ける志具。そんな彼に、マリアが詰め寄る。
「志具君は? 志具君はそう思ってないよね? ね?」
まるで懇願するようなマリア。心なしか、
「あ、ああ……。もちろんだ」
その言葉を聞くと、マリアは瞳を輝かせ、「そうだよね! うんうん、そうだよ、うん」と嬉しそうになった。
「でも、お前の両親は違うよな」
だが、そんなマリアの気持ちを打ち砕かんとする言葉が放たれた。無論、その声の主はななせだ。
不敵な笑みを浮かべているななせ。余計なことを、と志具は心底思う。
マリアの笑顔がピシッ……と凍りつく。そんな彼女に、ななせはさらなる追い討ちをかける。
「志具ぅ、たしかお前の両親は、『許婚とキャッキャウフフな勝ち組ロードを歩んでね♪ よ・ろ・ぴ・く❤』って言ってたよなぁ」
こいつ、手紙の内容を暗記している!
たった一度読んだだけなのに憶えているとは……、末恐ろしい暗記力だ、と志具はななせの能力に恐怖を抱いた。
……いや、その恐怖を木っ端微塵に打ち砕く者がいた。打ち砕くというよりは、恐怖をさらなる上位の恐怖で踏みつぶした、というべきか。
「……それって、本当? 志具君」
まるで背骨が氷柱になったかのような悪寒。恐る恐る志具は、マリアに振り向く。
マリアは笑顔をこちらに向けていた。先ほどの声色も、まるで春に咲くたんぽぽのようなものだった。……けど、こんなに身体が底冷えするような感覚に襲われるのはどうしてだろうか。
「ち、違うぞ、マリア……。それはあくまで私の両親の意見であって、私の意見では――」
「――でも、志具君の両親は、そう言ってるんだよね?」
「…………まあ、そうだが……」
話を逸らせないと察した志具は、素直に白状する。
するとマリアは、「そっかぁ……」となにかを納得した様子。その瞳は、どこか危ういものを感じさせた。
……いかん。このままでは、マリアが駄目なほうに行ってしまう!
そう危機感を得た志具は、おもむろに彼女の両肩をつかみ、
「マリア! 私の目を見てくれ! たしかに私の両親や万条院はああ言ってるが、私は断じてそんなことはないから! 信じてくれ!」
声色に誠実さを滲ませる志具。その気迫にさすがのマリアも目を丸くさせる。そして、その勢いに押されるように、マリアは「……う、うん。わかったよ……」と首を縦に振った。
「まるで奥さんに不倫がばれた夫みたいだな」
そんな二人の様子を、そう茶化すななせ。すると案の定ななせは、
「茶化すな」
マリアから手を離した志具からそう一喝された。ななせは「おお~、怖い怖い」と大仰に言ってのけて見せ、卵焼きをパクつく。
まったく……、と志具はななせに厳しい目を向けていたが、ふと、頬に視線が突き刺さる感覚がしたので、そちらへと振り向くと、
「どうした? なずな」
なずながやや呆けた様子で、志具のことを見ていた。それはどこか、憧憬の情を抱いているようにも、見えなくはない。
だけど志具自身、なずなにそんな風に見られるようなことをやった覚えはない。不思議に思っていると、
「先輩さんって、大人なんですね」
熱に浮かされたようになずなは言う。
そんな彼女の発言に、志具は頭に「?」が浮かんだ。
「家にいきなり現れた許婚さんとお手伝いさん。許婚さんはいち早く関係を築こうと既成事実をつくろうと目論み、そのことを許さず、略奪愛に燃える幼馴染みさん。そしてそんな二人を見て、自身もその泥沼に足を踏み入れようとするお手伝いさん……。これが、大人の世界なんですね」
「いやいやいや、違う! 違うぞ、なずな! 勝手な解釈をするな!」
「そうだよ、なずなちゃん! わたしは別に略奪愛なんかじゃなくて、むしろななせさんのほうが略奪愛をしているというか……」
全力で志具とマリアが否定しに入る。そんな二人とはうらはらに、ななせはというと、「アッハハハハハハ……!」と愉快だとばかりに大笑いし、菜乃は「あらあら。わたしも参戦ですか? おもしろそうですね~」とにこやかにほほ笑んでいる。
「あれ? 違うんですか?」
志具とマリアの勢いに気押され、正気に戻った感じのなずなは、そう言い首を傾ける。そんな後輩に、志具は「当たり前だ!」と語気を強めて言った。
「いいか? 私はまだあいつのことを許婚とは認めていない」
「でも、許婚さんはそうだって……」
「勝手に言ってるだけだよ、なずなちゃん。――いい? たとえ片側がそうやって言っていても、もう片方のほうが納得してなかったら、健全な仲とは言えないの」
「じゃあ今、先輩さんは不健全な仲なんですか? なんか淫靡な感じでやらしいですねぇ」
「いんっ……! そ、そんな言葉を簡単に使っちゃいけません!」
「マリアの言うとおりだ! 絶対に、ぜええぇぇったいにそんな仲では決してないから、よく肝に銘じておけ! わかったな! なずな!」
二人の有無を言わせぬ気迫に押され、なずなはたじろぎながらも、「う、うん。わかりました……」と首を縦に振った。
わかってくれたか、と志具はホッと一息つく。マリアも同じだ。どうして彼女がそこまで必死になるのか、志具にはわからなかったが、少なくとも自分の味方をしてくれているということもあり、頼もしい限りだった。
胸を撫で下ろした二人に、なずなは言う。
「あくまで表向きにはそう言わないと、体裁がよくないですからね……。わかりました。ボクはこのことを決して他言無用にしますから、先輩さん方は安心して普通の学園生活を満喫してください」
ひとりで勝手に解釈し、勝手に納得し、勝手にそんなことをのたまうなずな。
「「だからそうじゃないってええええぇぇぇぇ――――――!!」」
後に響くは、志具とマリアの心からの叫びと、心底おかしいとばかりの、ななせの笑い声だった。
――◆――◆――
放課後。生徒たちが学園から解き放たれ、自由になる時間。
志具は昼休みのときのように、放課後のホームルームを終えるや否やダッシュで帰宅しようとしたのだが、運の悪いことにななせに取り押さえられてしまった。彼女も、昼休みのときに学習していたのだろう。同じ轍は二度は踏まない、ということか。
観念した志具に、クラスメイト――特に男子――たちからの視線が突き刺さる。このまま蜂の巣になってしまうそうだった。
「さて、そんじゃ行こうか。志具」
菜乃の帰宅の準備が整ったのを確認すると、ななせは志具の制服の襟首をひっつかんで、そのまま教室を出ようとする。――そのときだった。
「志具君! わたしと一緒に帰ろう!」
跳ね起きるようにマリアが椅子から立ち上がり、カバンを手に持つと、そう勢いよく言った。その目は何かしらの闘志に燃えており、その視線の先にはななせがいた。
教室に残っていたクラスメイト達がざわつく。そのざわつきは、「これから面白いことが起きそう」という期待の現れであった。
ななせは、そんなマリアの視線を真っ向から受け止め、不敵な笑みを口元につくる。菜乃は、あらあらとばかりに現れた笑みを、片手で隠した。
「なんだ、マリア。夫婦のプライベートな時間に踏み込もうと言うのか?」
挑発的に言うななせ。
そんなななせの態度に、マリアの闘志の炎が一層燃え上がった。
「わたしは認めていませんからね。あ……貴方と志具君がその……夫婦な仲だなんて、認めてないからね! それに、貴方が来る前までは、わたしが志具君と一緒に帰ってたんだから、ななせさんこそ、わたしと志具君の仲に土足で踏み入らないでくれないかな?」
語気を強め、マリアはななせと対峙する。普段温厚な彼女が、ここまで相手に喰ってかかるのは珍しいことだ。幼馴染みの別な一面に、志具はわずかながら驚きを感じた。
一方のななせはというと、マリアの発言に「ふ~ん」と、彼女を吟味するように視線を上下に動かし、マリアのことを見る。そして、
「――いいぞ、別に。一緒に帰ろうじゃないか」
「え?」
間抜けな声を出すマリア。てっきりもっとてこずるのかと思っていたのだろう。
呆けた調子のマリアに、ななせはさらに言う。
「志具と一緒に帰りたいんだろ? だったら一緒に帰ろうじゃないかって言ったんだよ。――まあ、あたしらも当然ながらいるけどな」
ななせの申し出に、マリアはしばらくボケ~と突っ立っていたが、それも数秒の話。すぐさま正気に返り、こほんと咳払いをすると、
「わかったよ。少々不本意ではあるけど、これも志具君のためだからね、一緒に帰らせてもらうよ」
そう言うとマリアは、志具の左側にまわると、彼の手を握る。
「――さ、それじゃ行こうか。志具君」
志具の手を引っ張り、教室から出ていく。
四人が出て行った後の教室は静寂に包まれたが、ハッと我に返ると「うおおおおぉぉぉぉ――――!!」と教室が揺らぐほどの叫びが響き渡るのだった。
――◆――◆――
家路は、なんともピリついた空気に満ちていた。あと、周囲の人の視線が辛かった。
左にはマリアが、右にはななせが、志具の手を掴んでいるのだ。世間的に見ればこれは「両手に花」状態であり、そんな状況を興味本位の視線が突き刺さる。ちなみに菜乃はというと、三人の後ろについてまわり、三人の様子を微笑ましそうに眺めていた。
「…………あの、二人とも」
「なんだ?」
「なにかな?」
志具が発言すると、両側の美少女が間髪いれずに訊き返してくる。
「その……なんだ、二人とも、手を放してくれないか?」
「なんでだ?」
「どうしてかな?」
志具の提案に、二人は難色を示してくる。志具を握っている手の力が強くなった。
「いやその……。往来が盛んな場所で、人が横に三列に並ぶというのは、通行人の迷惑になるとは思わないか?」
そんな言葉に二人は、それもそうだ、と納得した様子。良識はしっかりとあるようで安心する志具だったが、
「じゃあ、縦に三列になれば大丈夫だな」
「そうだね。縦に三列になればいいんだよ」
「いいわけないだろ!」
二人が出した提案に、志具は思わずツッコミを入れた。
まったく……、この二人を同時に相手にすると、ここまで疲れるものなのか……。
志具はそのことを認識し、げんなりとした。
結局、志具の機嫌が損なう、という理由で、ななせとマリアは手を繋いで歩くのをやめた。
やがて四人は、交差点に差し掛かったとき、信号が赤になったので、歩みをとめた。陽は春になったということもあり、冬に比べて長くなっていた。……が、まだ始まったばかりということもあり、空はうっすらと暗い紫色になっており、いくつかの星の光も見えていた。
ここ
「……そういえば、最近物騒だよね」
流れているニュースを見て、何気なくマリアが呟く。マリアの言う「物騒」とは、他ならぬ辻斬り事件のことを指している。
その呟きに志具は、「そうだな」と返事をした。その事件に、まさか自分が絡んでいる可能性が大いにあることは、とてもではないが言えなかった。
「早く解決してほしいよね」
呟くマリアに、志具は「そうだな」と再度頷く。そして次に志具は、ななせに振り向いた。志具の視線に気づいたななせは、勇ましい表情になると、こくりと無言で頷いた。
心配するな、あたしが護ってやる。――そう、ななせの表情は語っていた。
その彼女の気持ちが嬉しい反面、志具は負い目を感じた。
自分に何もできないのはわかっている。……にしても、歯痒い。もどかしい。なにもできないことが、これほど胸を締めつけるとは……。
自分にできることはないのか、と志具は自問する。
どんなことでもいい。彼女の負担を、少しでも軽減させることができることがないものか……。
それは別に、ななせが自称許嫁だからというわけではない。そもそも志具は、そのことを完全には受け入れていない。どちらかといえば、はねっ返してやりたい気持ちすらあった。
それでも彼女のために動こうとするのは、単純に善意からだ。人を助けたいという想いからだった。
志具は冷静で人とあまり触れ合わない性格だが、決して冷酷というわけではない。救いを求めて伸ばしている手を掴もうとする、そんな心優しさを持った少年だった。
志具はひとり、思案に暮れる。そんな彼の横顔を、ななせたちが見ていたのだが、彼は気づかない。
やがて、そんなことをしているうちに、信号は青に変わった。
――◆――◆――
帰宅する頃には、空はだいぶ暗闇に染まっていた。太陽が沈む西の空だけが、わずかに茜色になっており、綺麗なグラデーションを築き上げていた。
家に帰った志具は自室に入り、制服から私服へと着替える。ななせや菜乃が住むようになった以上、ここだけが志具のプライベート空間だった。
私服に着替えると、志具はベッドに倒れ込み、大きく息を吐いた。今日一日で凝り固まった身体中の筋肉がほぐれる感じがする。目を閉じて、そのまま眠りたい気分だった。
そんなとき、コンコンと慎ましいノックがされた。
「志具様、扉を開けてよろしいですか?」
どうやら菜乃のようだ。志具は、「ああ、入ってもいいぞ」と承諾すると、失礼しますの言葉と一緒に、菜乃が部屋に入ってきた。服装はメイド服に着替えていた。軽く部屋に入る際に会釈をしたり、その佇まいといい、ちゃんとした侍女なんだな、と志具は思う。これで後、ななせと一緒に人をからかうことをやめてくれればいいのだが……。
ちなみに、自分のことを「ご主人様」と呼ぶのを、志具は菜乃にやめさせた。そんなことを言われると、どうにも身体がむず痒くなる感じがして嫌だったからだ。その結果、呼び名が「志具様」に変わった。
……まあ、ご主人様よりは幾分ましか……、と志具はそれ以上変更するように強要はしなかった。
「何の用だ?」
「はい。夕食は何にしてほしいか、志具様に意見を聞きたくてやってきたのですが……なにかリクエストはありますか?」
リクエスト、と聞いて志具はやや考える素振りを見せる。……が、特になにも思い浮かばなかったので、
「任せるよ。花月の料理はおいしいからな」
弁当の料理の味を思い出し、志具はそう答えた。
「まあ、おいしいだなんて……。気にいってもらえたようでなによりです」
少し照れるように、菜乃は頬に手をあてる。……と、そのとき、
「本当は女体盛りがいいんじゃねーのか?」
制服から着替えたななせが、開いていた扉にもたれかかって、からかうような口調で言った。すると菜乃が、あらあらと言った面持ちで、
「まあ志具様。いくらお盛んな時期だからって、さすがにそれは困りますよ」
困った様子を見せつけない微笑を浮かべて言った。
「んなわけあるか!」
志具の心からの叫びに、ななせは「アッハハハハハハ。冗談だよ、冗談」と悪びれた様子もなく、言ってのける。
いかん。このままでは私の家の中でのヒエラルキーが最下層になってしまう。
そんな危機感を覚える志具。今後はもう少し厳しめにしたほうがいいな、と決意する。
「では、冷蔵庫の中をチェックして、勝手に作ってしまいますね」
「ああ、頼む」
はい、と菜乃は軽く会釈して、志具の部屋から出て行く。その際、扉を閉めて行くのも忘れなかった。
それはいい。それはいいのだが……、
「……なんで君は出て行かないんだ?」
ジトッとした目を向ける先には、壁にもたれかかっているななせの姿があった。
「許婚だからだ」
「いや、答えになっていないだろ」
胸をえっへんと張るななせに、志具はツッコむ。
するとななせは壁にもたれかかるのをやめ、志具の隣に座る。二人の距離は拳ひとつ分しかないという密着っぷりに、志具は多少たじろぐ。
「……なんだ?」
「いや、別に。やっと二人っきりになれたなって思ってな」
そう言っているななせの表情は、笑顔だった。それも、腹に何か黒いものを抱えているような、底意地の悪い笑顔ではない。それは本当に、恋人と一緒の空間を共有できてうれしい、というようなものだった。
……いかんな。
不覚にも魅力的に見えてしまった。部屋に二人っきりというシチュエーションが、そんな気持ちに拍車をかけていた。
志具はそんな心境を悟られないように、彼女から視線を逸らし、
「私はひとりになりたいな。色々と疲れたからな、今日は」
ななせをはねのけるようにそう言った。
「お前ってデリカシーがないなぁ。可愛い彼女と自分の部屋で二人っきりなんだぞ。もっとこう……押し倒すとか、キスをするとか、色々あるだろ」
むっとした様子のななせ。どうやら心底そう思っているらしい。からかいとか、そういうのではなく……。
「生憎と私は、君のことを許婚とも恋人とも認めていないからな。そんなイベントになることはない」
「強情だなぁ」
つまらない、とばかりのななせ。
そうだ。それでいい。そうやって失望してくれればいいんだ。
「……よし、決めた」
「なにを決めたんだ?」
できるだけドライに相手に聞こえるように、志具は訊いた――その直後、
「うりゃぁ!」
身体になにか突進してきたかと思った直後、突然景色が反転する。視界に映るは白い天井。それとななせの顔。彼女は、ニヤリという表現がふさわしい表情をしていた。
何が起きた? 唐突のハプニングに、志具は動揺する。
思考すること十秒。事態を把握する。――どうやら自分は、彼女に押し倒されたみたいだ、と。
「な……なな、なにをするつもりだ?」
内心の動揺が、言葉となって出てくる。
勝ち誇ったような笑みのななせは、ふふ~ん、と鼻を鳴らす。
「だって、お前からこういうシチュエーションにもっていこうという気概が感じられなかったからさ、あたしのほうから仕掛けてみた」
「仕掛けてみたって……。じ、女性のほうからこういうことをするのは……その……」
「ふふ……。お前ってけっこう純情なのな。こちらとしては、ますますやりがいがあるってものさ」
そう言いななせは、おもむろに志具の唇に、自分のを重ね合わせた。
ビクッと驚きに身体を微動させる志具。なにかしゃべろうとするが、唇を重ね合わせている以上、それも叶わない。文句のひとつも言えなかった。
ななせの唇は……柔らかかった。女性は全員こんな感じなのだろうか。今まで接吻をしたことがなかった志具には、比べようもない。
まるで甘い果実。熟れに熟れた、少しでも強い力を加えればとろけてしまいそうな……そんな唇。
……って、なにを考えているんだ、私は!
正気に返る志具。すぐにななせをのかそうとするが、巧みにも彼女は、志具の両手を抑えつけていたので叶わない。見た目は華奢なのに、相当の力を持っている。
時間にして三十秒ほどだろうか。それくらいの時間をもって、ななせはゆっくりと志具から顔を放した。
「志具ってば、顔が真っ赤だな」
そう言うななせも、若干の恥じらいがあるのか、頬がややピンク色に染まっていた。……が、志具のそれと比べると気にならないくらいだ。志具も、自分の顔が紅潮しているのが、顔の熱でわかる。
志具は口をパクパクと、酸欠の金魚のように動かす。何か言ってやりたいが、言葉が出てこない。そんな志具を、面白そうに見つめるななせ。
「――それで、どうする?」
「な……なにがだ?」
かろうじて出てきた志具の言葉は、羞恥に満ちていた。
するとななせは、頬を一層朱に染めて、
「続き。――やるか?」
艶めかしい色を漂わせ、ななせは言う。
「ば、……ばば馬鹿っ。そんなことは……もっとその……大人になってからだっ」
「固いなぁ、志具は。もしかして――」
「勝手なことを言うな! わ、私は別に固くなってなんかいないからな!」
「おっ。全部言う前に制止させたな、志具」
感心感心、とななせ。
「と……とりあえずどいてくれ、万条院。頼むから……」
「ふっふふ~ん。ど~しようかなぁ~」
意地悪な顔をして、ななせは考える素振りを見せる。……が、志具にはわかっていた。――こいつ、愉しんでいるな、と。
「だ、だいたい……君は私の許嫁になるのは、私に近づくための口実なだけだったのではないのか?」
「あれぇ? そんなこと言ったっけなぁ?」
しらばっくれるななせ。どこかそれは、別の感情が滲んでいるような気もしたが、志具にはその具体的なものまでは判別できなかった。
顔を見合わせること十秒。ななせはようやく志具を解放した。
「ま、今はこれくらいにしておくか。あんまり一方的過ぎると、志具が怒りそうだし」
「……わかっているなら、もっと早く解放してくれ……」
身体を起こし、志具はげんなりと言葉を返す。さっきのでだいぶ心労が溜まった。
アハハハハ……、とななせは明るい調子で笑うと、
「そんじゃまあ、夕食時になったら呼びに来るから、それまでせいぜい身体休めてろよ」
そう言って、部屋を出て行った。
嵐が過ぎ去り、志具はどっと身体に疲れが溜まったのを確認する。こんな調子がこれから続くんだということを考えると、疲れも三割増しした。
――◆――◆――
夕食……というには時刻はすでに七時を過ぎていたが、なにはともあれその時刻になったとき、ななせが呼びに来たので、志具はベッドで倒れ込んでいた身体を起こし、一階へと降りる。
居間にはソファーで囲まれたガラスのテーブルのほかに、一同が食事を取るためのテーブルと椅子が一式ある。ちょうど台所と居間の真ん中あたりが、そのポジションだ。そこには夕食のおかずが並べられており、ひとつの席に一枚、皿が置かれているのを見ると、オードブル形式なんだということがわかる。
並べられているおかずは様々だ。レタスやトマト、それにエビといった魚介類をドレッシングであえたサラダに魚の開きを焼いたもの、他にはかまぼこや焼いたソーセージ、それに新鮮な野菜といったもので綺麗に大皿を飾っているものもあり、彩りも豊かだった。これをすべて菜乃ひとりがこなしたのだから、全く見事なものである。
「どうぞ、志具様」
椅子に座ろうとすると、わざわざ菜乃が椅子を引いてくれた。正直、ここまでされるとむずがゆいものを感じる志具だが、厚意を無駄にするのは失礼だと思い、そのまま席に座った。続いてななせが席につこうとした時も、菜乃はすぐさまそばに駆け寄り、椅子を引き、主が座れるようにする。……と、ここで志具は、あることに気づく。
「……? 花月の分の皿がないようだが」
テーブルには、志具とななせの二人分のものしか用意されていなかった。そのことを奇妙に感じる志具に、ななせは言う。
「ああ。メイドは主と一緒の席で食事を取らないからな」
「どうしてだ?」
「さあ。しきたりっていうか……マナーなんだろうさ。あたしは別に、一緒に食べてもかまわないんだけどな」
そんなななせの言葉に、菜乃は頷く。
「はい。ですから志具様、わたしのことは気になさらずに、どうぞ召し上がってください」
微笑みとともに口にする言葉。それに志具は、どうにも納得のいかなさを感じていた。
志具が沈黙し、菜乃に眼差しを向ける。すると菜乃は、首を傾げ、疑問を投げかけた。
「どうしましたか?」
いや……、と口にしかけたが、ここは言っておかないと思い、その言葉を飲み込むと、
「花月。万条院のところではどうだったか私の知る由もないわけだが……ここでは一緒に食べないか?」
「一緒にって……志具様たちと同じ席で、ですか?」
ああ、と肯定する志具。
菜乃は、とんでもない、とばかりに両手を振って、遠慮を示す。
「とんでもない。わたしのような使用人が、ご主人様と一緒の席で食事をするなど……恐れ多いというものです」
「その主が一緒に席でいいと言っているんだ。気にする必要なんてないぞ」
こういうときだけ「主」っぷりを振るう志具。卑怯とは思いながらも、こうでもしないと菜乃は従わないだろう。
志具の提案に、口ごもる菜乃。そこにさらなる追撃が入る。
「だいたい菜乃。お前、学園ではあたしたちと一緒に食べてたじゃないか」
その発言はななせのものだった。思わぬ援護に、志具は驚く。……が、ななせも自分と同じ考えをしていた、ということを思うと、その援護も納得のいくものだった。現にななせは、志具に笑みを向けている。
ななせの言葉に菜乃は、「そ、それは……その……」と口ごもる。あれこれ言い訳を考えているのだろうが、手詰まりだろうと志具は察する。後ひと押しすれば折れる。
「いいか、花月。万条院の家にそういったマナーがあるように、私の家にも掟というものがある。私の家で暮らす以上は、その掟をしっかり守ってもらうぞ」
志具の言葉に、菜乃は困った顔になる。なんとか言葉を紡ぎたいが叶わず、と言ったところか。
閉口してしばらく、ようやく菜乃はふぅ、と小さく息を吐くと、口元に微笑みを湛え、
「――わかりました。ほかならぬご主人様である志具様の言葉ですからね。従わないほうが無礼に当たるというものです」
そうそう、とななせは頷きながら、志具にウインクを一発しでかす。「やったぜ」といったところか。
かくしてテーブルは、三人の席で埋まった。
テーブルで交わされる話は、どれも他愛ない雑談だった。ななせや菜乃は、向こう――ななせたちが住んでいた場所――のことをしゃべり、志具は志具で、ひとりで生活していたときの苦労話や両親のしっちゃかめっちゃかっぷりを話題とした。
こうして家で、こうやって雑談に花を咲かせるのは本当に何年振りだろう。
両親は海外を転々とし、家に戻るのは年に一度あるかないかといった感じだ。そして、戻ってきたら戻ってきたときで、父親と母親のラブラブ話を延々と聞かされる。二人ともいい年なんだからもう少し自重してほしい、と言っても、家で自重したらどこでもこんな話できないじゃないか、と反論される。まったく、子供な親たちである。
でも、不思議と会話するということは悪くなかった。志具は昔から人と話すのが苦手であったが、それでも誰かと話をするというのは、それなりに楽しんでいたのだ。
だから、こういう会話も悪くない。たとえ実りのない四方山話だろうと、固まった心がほぐれるような気がして……。
話をしていると、気づけば並べられていたおかずが全部片付いていた。すると菜乃が動き、空となった食器類をシンクに入れ、洗い始める。
ななせと志具はというと、ソファに移動し、垂れ流しにしていたテレビを視聴する。流れているのはお笑い芸人が司会をするバラエティ番組だった。それを見てななせは、芸能人たちがぼけると時折笑ったりして、視聴を楽しんでいた。
こういう日常に浸かるのは、いつぶりだろうか……、と志具。
今までずっとひとりで家の中では生活していたので、こういう家庭の温かみというものをほとんど感じたことがなかった気がする。
「ん? どうした? 志具」
志具の調子に気づき、ななせが振り向く。
「いや。なんでもない」
ポーカーフェイスで志具は答えた。こんなことを口に出した日には、ネタにされかねない。とても言えることではなかった。
ななせは特に問題ないと感じたのか、「そうか……」と追及することなく、テレビに視線を戻した。
――◆――◆――
夕食を取り、風呂に入ると、志具はいち早く寝床についた。普段は風呂から上がった後、しばらくの自由時間を楽しむのだが、とてもそんな気分ではなかったのだ。自由時間を謳歌するよりも、少しでも今日一日の内に急速に溜まった疲労を取り除きたかったのだ。
それにしても……、と志具はベッドに寝転がって思う。今日一日だけでこれだけ疲れるとは……。自分が予想していた想定がだいぶ甘かったことを、一日で思い知らされた。
自分が通っている学園に編入してきた上に同じクラス、さらには自己紹介の際に許婚だと宣告する上にキスまでされ、幼馴染みや後輩、それにクラスメイトたちにあらぬ誤解を受ける羽目となってしまった。興味本位で向けられる視線が、実に辛かった。元来、目立つことが嫌いだった志具には、なおさら堪えるものがあった。
これからの生活に、はたして自分は持つのだろうか……。せめて外にいる間は、行動を自重してほしいと思う。
そんな心配事や不満がタラタラと頭の中で、まるで壊れた蛇口から出てくる水のようにこぼれ出てくる。
とにかく、今日はもう寝よう。
時刻を見れば、勉強机に置かれているデジタルの時計は九時半を指していた。高校生にしてはずいぶんと早い就寝時だったが、かまわない。これからの生活に支障をきたすわけにもいかないというものだ。
そう思い志具は、部屋の電気を消し、深い眠りの中に落ちることにしたのだった。
神奇世界のシグムンド 青山モカ @coffeemocha8
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