リープ・インビトイーン

田辺すみ

リープ・インビトイーン

「さっちゃん、カエルがいる!」

 妹のマユが突然袖を引っ張ったので、渡し板から落っこちそうになる。

「危ない。何? カエル?」

 マユは止めるのも聞かず屋根の端へ駆けていく。雨樋の辺りに、何かきらきらと朝日を弾いて輝いているものがあった。屈んで、両手でそっと掬い上げると、こちらに掲げて見せた。

「カエル? と蓮の葉っぱ?」

 雨蛙よりも少し大きく、もっと柔らかそうで、ただ色合いは透明なような虹色のような不思議な光で瞬いている。つぶらな銀色の目が、マユの濡れた掌の中から、くるりとこちらを見上げた。

「……マユ、この子カエルじゃないよ、笑ってる」

〔コンニチワ〕

「「しゃべった!?」」

 私とマユは顔を見合わせ、そのカエルもどきを落とさないように気をつけながら、慌てて学校に向かって走り出した。


 隕石KEAL(キール)が地球に衝突したのは3年前のことである。各国の天文観測機構は既に軌道を予測していたが、地球に何か深刻な影響を及ぼすようには考えなかった。ありふれた小さな隕石に見えたのである。

 しかしキールの実態は、小さな金属の核を持つ巨大な膨大な莫大な氷の塊だった。氷、と呼んで正しいのか議論が分かれるところだが、それは大気圏に突入して溶け出し、速度を落とし、ぼちゃんと太平洋のど真ん中に沈んだ。ふわふわとその水のようなものが溶け出しているのだが、それは地球の水より軽く地球の大気より重かったので、海水には混じらず海面にバウンドして津波を起こすこともなく広がっていった。とろとろぽたぽたと七日と六夜で地球の表面全てを覆い、それまでの海抜を3メートル押し上げた。低い土地の国は“水没“を免れなかったが、その液体は水ではなくて、従来の水とは混じらないし、海水のような塩分も無く、酸素を大量に含んでいるらしく、陸上の植物もその中で育つことができた。とりあえず人類は、高台か屋根の上で暮らすようになった。


 そんなわけで、私とマユは屋根の間の渡し板をつたって坂の上の小学校へ通っているのである。一部の交通機関は使えなくなってしまったが、私は真っ平らに輝く水面の上に頭を出している屋根を行き来するのが楽しかった。この辺りの深度は1メートルくらいなので、落っこちても私なら頭が出る。水のような大気のようなものの下には、3年前までの生活がそのまま沈んでいるのだが、おかしなことに最近そこに見慣れない生物たちが住み着き始めていることが報告された。キールと一緒にやってきた地球外生物らしい、とみんな大興奮だ。このカエルもどきもそうなのかもしれなかった。

「かやば先生、カエル、カエルがしゃべりました!」

 かやば先生は私のクラスの担任で、理科の先生である。ナントカっていう研究機関で働いていたこともあって、とても頭が良いはずだけれど、実験や観察に夢中になりすぎるところがある。二人ともおはよう〜と校庭の水を掃きながら挨拶をしてくれた先生に、マユが突進する。先生はマユの掌を覗き込んだ。

〔コンニチワ、地球ノ皆さん〕

 大きな口がうふふと楽しそうにたゆむ。マシュマロみたいでとてもかわいい。先生は急いで私たちを理科準備室に招き入れた。


〔私たちハ、遠い遠い星カラきました……〕

 機材がごちゃごちゃと積み上げられてる準備室の机の上に落ち着くと、カエルもどきは話し出した。ずっと大事そうに抱えていた蓮の葉のようなものは、どうやらメッセージボードであるらしい。それを確認しいしい、ゆっくりと続ける。

〔小さな星だったんデスガ、私たちは発達した技術を使って、資源を集め尽くして、自然を破壊してしまったんデス。遂にハ生き物が住めないくらい荒れ果テテしまいマシタ。私たちは星を離れマシタ。無責任デスガ、星ノ自己治癒力ニ任せるシカなかったンデス〕

 ビー玉みたいな目から涙が溢れてくる。“人らしさ”って見た目のつくりではなくて、表情とかその裏にある感情なのかなあ、と思った。先生が実験用のガーゼを差し出すと、〔有り難うゴザイマス〕と受け取って、虹色の体表がきらきらと光を揺らす。

〔私たちハどうしてこうなってシマッタノカ考えました。ソレデ、やり直すことニ決めたノデス〕

「何をやり直すの?」

 先生はペットボトルのお茶をビーカーに入れて私たちにも出してくれるが、ビーカーから飲むのもちょっと考えものである。

〔“進化”ヲ〕

 進化! 先生はぽかんと口を開け、私はカエルもどきを熱心に見つめている妹の寝ぐせを撫ぜた。

〔モット、もっと“善い”生命に進化して、やり直しタイんデス……〕

 進化をやり直せば、戦争や環境破壊をする人類ではなく、もっと“善い”―争うことをせず、思いやりがあって公平な、新しい何ものかになれるのだろうか。そうは思わない。結果は一緒だと思う。『だけどこれも人類の思考だから』、カエルもどきには彼らなりの考え方があって、彼らなりの価値観があってそう決めたのだから。満月のような瞳が、信念の闇夜にぽっかりくっきりと浮いている。


〔ソレデ、進化をやり直すためノ場所ヲ、地球ニお借りシマシタ。スミマセン、急いだのデスガ、このめっせーじヲ運べるマデ進化するノニ、時間ガかかってシマッテ……〕

 照れ笑いのようにガーゼで頬を拭くカエルもどき。あの水のような大気のようなものは、彼らの生命を育む揺籃の海であったのだ。しかしどこまで進化するつもりなのだろうか。カエルもどきのままで充分かわいいのに。

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