箱庭に雨

伊瀬谷照

箱庭に雨



俺が生まれた町は、一面山と畑に囲まれた殺風景な田舎だ。雨が降っても、辺りは田んぼばかりで雨宿りできるような店は殆ど見当たらない。

俺は電話ボックスの中から、降り止まない雨を見つめていた。激しくアスファルトを打つそれは、行き場を失い地面に溜まった水に跳ね返る。


「最悪だ……」


中学校からの帰り道を歩いてると、突然バケツをひっくり返したような豪雨が降った。とどめとばかりにあられまで一緒に降ってきて、俺はこの電話ボックスに逃げ込んだ。

ガキの頃から、傘が役に立たない滝のような雨に降られると電話ボックスで雨宿りをする。四方を硝子に囲まれた空間は雨宿りにうってつけなのだ。

目に痛いほどの閃光を放ち始めた空と、ガラスに叩きつける雨と雹を見ながら、俺はため息をつく。


ざあざあ

ばらばら


雨と雹は勢い良く地面を打つ。巨大な蜘蛛が、根城に入ってきた俺を怪しんでいるかのように巣の上を忙しなく這い回っていた。


「明日、家庭科か」


明日は班ごとに別れて調理実習をする。俺は卵を持ってくる係に任命されていた。買ってある卵を忘れずに持っていかなくてはいけない。普段は面倒なだけ家庭科の授業だが、明日は真面目に料理をするつもりだ。


何故なら、“彼女”と一緒の班だから。


中学1年生のときにやって来た転校生は、腰まで届く黒髪が印象的な女子生徒だ。絹のように滑らかで艶がある髪の隙間から見える、中学生らしからぬ大人びた雰囲気は、誰もが無意識に目で追ってしまう魅力があった。

クラスの中心にいる陽気な連中とは違い、俺は彼女とあまり話したことがない。そのくせ、彼女と話したり、遊びにいったり、プレゼントを送ったりするような妄想を繰り返している。我ながら気持ち悪いものだと思う。


「はー、キモいな俺……」


俺は気持ちを沈めるために、壁に頭をぶつけた。

雨が降り始めて1週間ほど立つが、今日は一際雨足が強い。あられは収まってきたが、道の先すらまともに見えないほどの雨は勢いが衰えていない。煙る世界、その奥で何かがちらついた。


「ん?」


それは、針金が折れたらしい傘を片手に持ちながら走ってくるひとりの少女だった。長身に張り付く黒髪に覚えがあった。彼女は躊躇いなくドアを開け放つと、箱の中に飛び込んでくる。


「……」

「え、っと大丈夫か?」


ぽたぽたと髪から滴る水が俺の靴の上に落ちる。それほど近い距離に、彼女がいた。切れ長のその目は真ん丸に見開かれている。見たことのない表情に、俺は思わず後ずさった。


「な、どうした?」

「……何でもない。ありがとう」


彼女はドアに寄りかかり、鞄から柔らかそうなタオルを引っ張り出して髪を拭き始めた。


「やあね、急に。風も吹いてきたし」

「……あ、傘壊れたんだ」


彼女のビニール傘はすっかり壊れていて、その機能を失っていた。


「先週壊れたばっかなのに、災難だな」

「……そうね」


彼女が以前使っていた傘が、校門の前で突風に吹かれて壊れたのは先週のことだ。

彼女はしばらくの沈黙のあとに頷いた。その胸元は濡れたセーラー服が張り付いて、身体のラインを際立たせている。

これ以上彼女の前で平静を装える自信が無くて、俺は目をそらした。


「気になるなら、触ってみる?」

「へっ!?」


突然の提案に、俺は思わず飛び上がって壁に背中をぶつける。雨で冷えたはずの身体から汗がにじんだ。


「みんな触りたがるのよ」


白い指先が髪を鋤いて、俺はようやく言葉の意図に気が付いた。いかがわしいことを考えた己を殴りたい。

促されるままに伸ばした指に触れるそれは、見た目通り絹糸に似た柔らかさを持っている。髪は女の命だなんて今時流行らない話だとは思うが、丹念に手をかけたものはある種の芸術品にさえ思えた。俺が休日を徹してゲームに没頭しているように、彼女は毎日熱心に髪を手入れしているのだろう。


「きれいだ」


それは髪に対してだけ言ったのではない。足の爪先が触れあうほどの距離で見つめても、彼女は美しかった。

濡れたセーラー服を仰いで乾かそうとする彼女を視界の端で見ていると、電話の台に立て掛けていた傘がバランスを崩す。床にぶつかる寸前でそれを受け止めたのは彼女だった。


「あ、ありがと」

「かわいいシールね」

「妹が勝手につけるんだよ」


俺の傘の取っ手には花を模したシールがつけられている。盗難防止も兼ねてそのままにしているが、指摘されると少し気恥ずかしかった。

雨がガラスを叩く。視界は先程よりも悪くなって、電話ボックスの外は殆ど何も見えなくなっていた。


「何も見えないな」

「こんなに視界が悪かったら、車が突っ込んできても、分からないね」


彼女の口調は何故か断定形だ。たしかにこの辺りはスピードを出す車が多い。雨で悪くなった視界が災いして事故が起きるというのは、ありえない話ではなかった。

ポタリと髪の先から水が落ちる。雨に濡れたせいか、彼女の肌は生気を感じないほど色を失っていた。


「寒い?俺、ジャージならあるけど」

「平気よ」


空が光り、雷鳴が走る。しかし分厚いガラス越しに伝わる音は鈍く、俺はふたりきりでこの狭い箱の中に閉じ込められているような気分になった。そのとき、雷とは違う目映い光が近付き、あっという間に通りすぎていった。車が走り抜けたのだ。


「やっぱり、ぶつかりそう」

「平気だって、道の端なんだから」

「平気じゃないわ。だってここ、前にも事故があったのよ」


それは、俺の知らない話だった。生まれてこのかたこの町にいるけれど、電話ボックスの辺りで事故が起きたなんて聞いたことはない。

光の宿らない目が俺を見つめる。その瞳に己の姿が映っているかどうかは、あまり視力が良くない俺には分からなかった。なんだか視線を合わせているのが怖くて、俺は目をそらす。


「雨、止まないな」

「そうね」


するりと、細い指が髪を撫でる。腰までの長さだと思っていたそれは尻を隠すほどに伸びていた。


「髪、そんな長かったっけ」

「ずっと切ってないから」


花束が飛び出す鞄は、いつも持っているグレーではなく、黒のスクールバッグだった。


「やっぱ寒そうだ」

「平気」


俺と同じくらいだった背丈は、少しだけ伸びていた。


「ねえ」


彼女は鞄の口を大きく開けると、青い筒状のもの─折り畳み傘を取り出した。俺たちくらいの年の女子が持つには少し地味なそれを大事そうにさすって、彼女は俺の目を見る。


「私、今日これを返しにいこうと思ってたの」


それは俺の傘だった。


「傘が壊れたとき貸してくれたの、覚えてる?あなたの家に行こうとしたけど……行きにくくて、ずっと返せなかったの」


先週、俺は壊れた傘を苛立たしげに見下ろす彼女に近付いて、いつもリュックの中に入れておいた折り畳み傘を手渡したのだ。


ざあ、ざあ、ざあ


雨が降り続いている。ずっと、ずっと、止むことなく。


「今日は、あの日みたいな雨が降ってる」

「あの日……」


俺の記憶よりも、少しだけ彼女は大人になっていた。

彼女に傘を貸して一週間経ち、家庭科の授業を楽しみにして、ここで雨宿りをした俺の記憶よりも。


「……俺、あんたが好きだ」


今言わなければ、もう二度と伝えられないような気がした。

何回も脳内で繰り返したものとは違う、つい口をついた不格好な告白に、彼女は無表情のまま淡々と答えた。


「知ってる」

「……知ってるんだ」

「わたし、そういうの慣れてるの。もちろん返事はバツね」

「……そっかあ」


あっさり振られたというのに、不思議と胸は痛まなかった。ただ静かな満足感だけが、ゆっくりと胸を満たしていく。


ざあ、ざあ、ざあ、ざあ、ざあ、ざあ


雨も、雹も、雷鳴も、終わらない。降り止まないで、この時が終わらなければいいと思ってしまった。目の前の彼女と雨宿りをしながら他愛ない話に興じていたい。ずっと、ずっと。


「はあ、早く髪洗いたい」


彼女の指が湿気た髪を撫でる。不機嫌そうな横顔に、心臓が締め付けられた。


「……傘、返さなくていいよ」


俺が降り止まないでくれと望むほど、雨は勢いを増していく。この思いを止められるほど、俺は良い人間じゃない。だけど俺が好きなのは、晴れの日の乾いた風に髪をなびかせる横顔だ。クモの巣だらけの狭い箱は、彼女には似合わない。


「雨は止まないから、その傘さして帰ってくれ」


彼女は折り畳み傘を袋から抜くと、ドアに手をかけた。


「うん、そうするつもり」


次の瞬間、彼女の手が俺の腕をつかむ。予想外に強い力に、俺はたたらを踏んだ。


「あなたも、ここから出なきゃ」

「でも……」

「傘はふたりだって使えるのよ」


ドアがゆっくりと開け放たれると、雨と氷が服を濡らす。痛いほどに冷たいそれに身を強ばらせるが、彼女はかまわずに傘を広げ、俺を引き寄せた。


「ほら、出られるでしょ」

「……うん」


触れる手は、青白い肌色からは考えられないほど、柔らかく、暖かかった。





雨はいつの間にか止みかけていた。振り返った先に電話ボックスはない。1年も前に撤去されたのだから当然だ。


学校では集会が行われている。1年前の今日、交通事故で亡くなった男子生徒の追悼式だ。彼はここにあった電話ボックスで雨宿りをしていたところを、前方不注意の車に追突されてしまった。

体調不良だと嘘をついて一足先に帰路についた彼女は、亡くなった少年の自宅に向かっていた。彼が亡くなる1週間前に借りた傘を返すために。 線香を手向けに来た他の生徒と鉢合わせる前に、まだ彼らが学校にいるうちにそれを済ませてしまいたかった。

しかし突然雨足が強まって傘が壊れ、雨宿りができる場所を求めていたとき、あの電話ボックスと彼が見えたのだ。

腕時計を見ると、電話ボックスに入ってから5分も経っていない。まるで夢を見ていたようだが、掌には微かに、掴んだ腕の温度が残っている。


彼女は雨避けになる木の下に花束を置いた。

肩には先程よりも随分と弱まってきた冷たい雨が当たる。


「傘、ありがとね」


彼女は青い折り畳み傘を差すと、小雨が降る道を家に向かって歩きだした。

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箱庭に雨 伊瀬谷照 @yume_whale

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