第18話 僕と一緒に、走ろう?
くそババアめ、邪魔しやがって。
怒りが身体を駆け巡る。だがそれでも変わらぬ歩幅で、スピードで、走っている。感情の波は引き潮のように去り、記憶は沼に沈むように、やがて消えて無くなるだろう。
月が浮び、草原の中に一本だけ伸びる道を、僕は走っている。また、一人になった。繋がるものを失った右手が、寂しい。
『あなたは誰? 何故走っているの? それを思い出せたら、行くべき場所に辿り着けるよ。そこには、あなたを大切に思っていた人たちが、待っているよ』
その言葉を残して、ババアと友達は消えてしまった。
自分は誰?どうして走っている?
その言葉が、微かに記憶の残像をかき混ぜた。
頬に風を感じた。
風。
両手を広げ、手の平に当たる感覚を確かめる。空気が動き、身体を一瞬包んで去って行く。断続的に肌の表面を、髪を、撫でていくこの感覚。懐かしくて、胸が熱くなる。
ああ、これは確かに風だ。風だ。風を感じたのは、何時以来だろう?
アスファルトのザラザラした感触を、足の裏が捉える。ゼッケンを付けたランナー達が一群となり、お互いの気配を探りながら仕掛けるタイミングを計る。息が上がり、汗が風に乗って後ろへ流れていく。辛さは、沿道から沸き起こる歓声に鋭気を得て、無に還る。
満員の陸上競技場に入る。煉瓦色のタータントラックを踏みしめる。ずっと先にある、白いテープを、ただひたすらに目指す。
観衆の声援が叫ぶ。何度も何度も、繰り返し、僕の名前を。
僕の名前は……。
観衆の中に、その
僕の、名前は……。
大きな歓声が鼓膜を揺する。女の人が両手を挙げて僕の名前を叫んでいる。
次の瞬間、歓声は消え、何もかもが霧散していった。
赤い月が、進む先を照らしている。
僕は走る。走り続ける。草原の中にある一本の道を。真っ直ぐな姿勢で、規則正しいストロークで。
また、一人になってしまった。
けれど、新しい友達はすぐに見つかりそうだ。僕を見つめる視線に、ずっと前から気付いていた。その眼差しはまだ遠いところにある。
きっとその人物からは、緋色の世界にある影のように見えるだろう。走っているのは、分かるだろうか?僕の走る姿は、どんなふうに映っているだろう?正しいフォームに見えるだろうか?
草原に引かれた一本の道を、右から左に向かって走っていく。その瞳は僕を捉え続けているはずだ。
道は、眼差しに向かって軌道を変える。
左側に、九十度。
急カーブにぶれた姿勢を立て直すと、正面にいる人物と目が合った。
ずっと僕を見つめていた瞳だ。不安と恐怖と緊張と、哀れみ。色んな感情を抱いて、ずっと僕を見つめていた、二つの瞳。
驚いて、瞬きをした?そう、君の瞳だよ。君の事だよ。僕の、新しい友達。
出会えて、嬉しいよ。
君の真上には、赤い月が昇っている。その光に照らされた君は、とても綺麗だ。
そのまま、待っていて。急いで君の元へ辿り着くから。
ほら、もう、こんなに近くにいる。
さあ、この手を握って。
僕と一緒に、走ろう?
〈了〉
月の下で待っていて 堀井菖蒲 @holyayame
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