狼と羊

みしま なつ

狼と羊【1/1】

その狼は森を駆け抜け、開けた草原へと走り出しました。

あたりは一面、緑が波打っています。

すこし駆けていくと、緑の中に、白い柵が現れます。

その覆いの中には、柵とはまた違った白の、柔らかい生き物たち。

柵の中に同じ生き物がたくさんいます。

狼は、その生き物が好きでした。

自分は薄汚れた灰色の毛色をしているし、強張っているから。

その生き物の白い毛はふわふわと風に揺れて、心地良さそうにしています。


おれも、あんな風になりたい。


狼は、生まれてからずっと、ひとりでした。

生きていく知識、必要な経験を教えてくれる親はいませんでした。

小動物を捕らえて食べ、捕まらない時は木の実を見つけて食べました。

森を駆け抜け、日々を過ごしてきました。

そしてある日、森を抜け、草原に出て、初めてその生き物を見ました。

今まで、茶色の毛をした野兎や、やっぱり茶色の羽を持つ鳥なら見てきたけれど

真っ白な生き物に出会ったのはこれが初めてのこと。

とても美しい、と思いました。


初めの日は、森の縁から見つめるだけで、近づこうとはしませんでした。

2回目は、少し近づいて、草原に身を潜めながら彼らを見つめました。

3回目は、思い切って、柵の傍へ寄ってみました。

けれど、その生き物のひとりが顔をこちらに向けたので、

飛ぶように森へ、とって引き返しました。


そして今日は、4回目。

獲物を狙うときのような緊張を携え、そっと近づくと、

その生き物のひとりが、皺がれた声で話しかけてきました。

「変な狼もいたものだね、私たちに怯えるだなんて」

「・・・おれは変か」

「自分が変かも分からないのかい?」

「おれがおかしいかどうかなんておれには分かりっこないじゃないか。

 おれはおれなんだから」

「それはそうだねぇ」

隠れていた草の間から姿を現すと、

話している1頭以外が少し鳴いて、柵から離れました。

狼の言葉に、その生き物は気持ち良さそうに笑います。

首に付けられた鈴が鳴りました。

その音も美しく、狼の耳はうっとりと、垂れ下がりました。

「それで、何も知らない狼さんが私たちに何の用だい?

 いきなり飛び掛らないということは、食べるつもりじゃないんだろう?」

「食べる?おれが、あんたたちを?」

「そうさ、狼ってのはそういう生き物だよ」

「あんたたちは、一体どんな生き物なんだ」

「私たちはただの羊さ。草を食べて、人間に毛を刈られる」

「毛を刈られるだって?」

狼は衝撃を受けました。

この、目前で風に揺れる柔らかい綿毛が刈り取られてしまう。

狼は羊を見上げました。

「どうして」

「どうして?さあね、人間が必要としているからだろうね。

 その為に私たちは囲われて、守られているのさ」

「どうして、きれいなのに」

狼がそう言うと、羊は声を上げて笑いました。

「本当に変な狼だねぇ!狼が羊を褒めるだなんて」

「そんなにおかしいことなのか」

「おかしいねぇ、私たちは狼や獣に食べられるものなんだよ」

「おれは、そんなことしない。

 ・・・おれはあんたたちがうらやましいんだ」

「羨ましいだって?」

「おれも、あんたたちみたいな姿になりたい。

 とても・・・きれいだ」

「おやおや、そんなに気に入ったのかい?

 そんなに言われると照れるじゃないか」

その羊がくすぐったそうに笑うと、

その後ろから、何かの声が聞こえてきました。

そして銃声が数発。

「どうやらご主人が来たようだね。

 さあそろそろ行きなさいな、撃たれるよ」

羊の言う通り、空に撃った銃を小脇に抱えて、

人間が低い姿勢で辺りを見渡しています。

狼の姿を見かけたのでしょう。

姿勢を低くして目を泳がせています。

「また、来てもいいか」

「変な狼だね本当に」

笑い声を背に、狼は森へと走っていきました。

ほんの少ししか駆けていないのに、いつもより鼓動が激しく、

狼は森の中をうろうろと少し歩いてから、寝床へ戻りました。

その夜は、なんとも居心地の悪いような、

けれどなんだかすこし、あたたかいような、

そんな不思議な心持ちで、長い間、月を眺めてようやく、眠りました。




それから数日経って、狼はまた草原に出ました。

けれど、そこには白い生き物はいません。

そこにいたのは、毛のない薄い肌色をした生き物でした。

「来たね」

そのうちの1頭が柵の中から、草原へ声を掛けました。

その声は皺がれています。

「あんた、あんたなのか」

「そうさ、すっかり変わっちまったけどねぇ」

「刈られたのか?」

「ああ、そうだよ」

狼は怒りと悲しみが一緒になったように感じました。

「どうして」

「私たちは人間のために生かされているのさ。

 毛をあげるかわりに、安全な場所で安全に過ごさせてもらってる」

「なんだって。おれは、そんな生活はいやだ」

狼は反射的に応えました。

「そうだろうねぇ、お前さんは狼だもの」

羊だったものは前と同じように笑います。

狼には、意味が分かりません。

「お前さんは強い生き物だから、ひとりでも生きていけるだろう?

 でもねぇ、私たち羊は外では生きていけないのさ」

羊は細い目のまま言います。

その顔はまるで、笑っているかのようでした。

「私たちは守ってもらわないと生きていけないのさ。

 そのためになら毛ぐらいいくらでもあげるよ」

「・・・・・・・おれは、いやだ」

「そうだね。そうだろうとも。

 落胆させて済まなかったねぇ、きれいだと言ってくれたのにね」

羊は、笑っています。

「さようなら、妙な狼さん」

狼はそれを聞いて、駆け出しました。

ああ、あのきれいな生き物はもういないのだ。

憧れていたあの生き物は、とてもとても弱い生き物なのだ。

おれは、あんな風になりたくない。



・・・でも。

森に入って、ふと立ち止まりました。

柵の中で群れている羊たち。

狼はひとりでも生きていける。

そう、自分の力で生きていける。

それでも、やはりひとりで生きていくのは辛いのだ。

でも、柵に囲まれて不自由に暮らしたくはない。





白く柔らかい毛を持つその生き物に憧れた、灰いろの、硬い毛を持つ狼。

本当は、たくさんの仲間と共に生きるその生き物に、ひとりの狼は憧れたのでした。


おれも、あんな風になりたかった。

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狼と羊 みしま なつ @mishima72

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