エピローグ Omnia vinciy Amor.
怠い感覚が体を覆い、うだつの上がらない男は目を覚ました。
宿泊していたホテルの天井が視界に入り、窓から陽の光が射し込んでいた。
体を起こし、手探りで眼鏡を探す。すぐ近く、ベッドの脇に置かれた眼鏡を手に取り、つけて周囲を見回す。キャリーケースにバッグ。自分の荷物。
「…………あれ」
中華料理屋で気を失った筈だった。床で寝ていた筈なのに、いつの間にか柔らかいベッドの上に寝ていた。
記憶がぼんやりする。夢を見ていたような気分だった。とても酷い夢だった気がする。
血塗れで。
死骸が転がり溢れ。
その中心に立つ少女の夢を。
ぼんやりする頭を無理矢理働かせていると、客室内の電話が鳴り出した。甲高い電子音が思考の邪魔をして、仕方なく受話器を取った。
『フロントです。チェックアウトのお時間が過ぎておりまして、延長致しますか?』
時間を見ると、確かにチェックアウトの時間を三〇分近く過ぎてしまっていた。
「あ、すいません。今すぐ出ます」
電話を切り、慌てて身支度を始める。荷物はすぐ纏めることができ、すぐ部屋を出ることが出来た。
チェックアウトを済ませ、ホテルを出た。コンビニで缶コーヒーを買い、飲んでから電車に乗って東京駅へ向かう。
雑多なビルと人の群れを電車の中から眺める。何か抜けている。忘れているのではない。小さな空虚感がぽっかりと出来ているような感覚。
東京駅に降りる。帰りの新幹線にはまだ余裕がある。昼前に一杯引っ掛けるのもいい。
だが、男はそうしなかった。
キャリーケースをコインロッカーに預け、電車に乗った。空虚を埋めるものを探しに。
頭が冴えてきて、昨日の出来事は確かに夢ではないのだとわかる。だが、一連の事件がなにもない。新聞やニュースはおろか、話題としても出てこない。SNSで探しても同じだ。それらしい呟きがあっても、真実と嘘が入り交じっているように思えた。
東京中を歩き回る。自分の体験が現実であると証明させる為に。自分自身に言い聞かせる為に探し続ける。
──結果として言うならば、そんな真実は探し出せなかった。
歩き回って、いつの間にか陽が暮れていた。街灯が照らされ、東京の夜を彩っていた。
ここまでなにもないことに、男は大きな溜め息を漏らすしか出来なかった。本当に昨日の出来事は全部夢なのか? 銃撃戦やカーチェイス。死屍累々の彼方に立つあの少女も、全ては妄想の産物だったのではないのか? 自分はまたハッピーになれる薬を酒で流し込んでいたのだろうか──
気が付けば、出会った場所にいた。
見渡せば、人が流れる中で携帯電話を持っている女性が何人も立っていた。彼女らは、今夜どこに流れるのだろうか。
あの少女も、どこかに流れてしまったのだろうか。
「────あ」
物思いに耽っていると、男の目が止まって見開いた。視線の先に、あの、少女がいた。
黒のハーフツインテールに青のインナーカラー。クリスチャン・ディオールのバッグに厚底のパンプス。コートは白ではなく黒だった。黒いマスクで顔を隠しているが、目元の赤いアイシャドウと泣きぼくろが印象的な少女は、アイフォンを操作しながら立っていた。
恐ろしくて、酷くて。
妖艶で、可憐で。
あの時、眼前に立っていた少女が確かにそこにいた。
体が震える。恐怖ではない。嬉しさだった。思わず泣きそうになったが我慢した。夢ではなかった。
近付いて声をかけようとした。が、声をかけれなかった。自分の勇気が出なかった。声をかけて、もし違ったら、それこそ立ち直れないかもしれない。自分は妄想に生きる道化なのだと言われているようで、到底耐えられなかった。
立ち止まった本当の理由は、少女に別の少女が声をかけたからだった。暗い金髪のショートヘア少女は、対照的な感じにラフで身軽な格好だった。
「遅いんだけど」
「時間通りなんだけど」
仲悪そうにしながら、二人は並んで歩き出した。だが、少女の声を聞いて男は安心した。
確かにそこにいた。それだけわかれば充分だった。
男は向きを直し、来た道を戻る。帰りの新幹線はぎりぎり間に合う。乗ったら酒でも飲んで、ゆっくり休んで帰ろう。心の空虚感が埋まったように満足して、男はその場を後にした。振り返ることはしなかった。自分だけの思い出として、満たした胸の奥にしまっておこう、と。
少女──ノアは、少し振り返る。うだつの上がらない男のくたびれた背中姿を見て、マスクの中でにかっと笑い、小さくピースを作って手を振った。
了
だから少女は、撃鉄を落とす。 雪將タスク @tasuku_yukihata
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