介錯人アンコウ お家騒動始末記

愛繕夢久

第1話 内藤家 その壱

 桜の見ごろも終わり庭の木々も新緑の青さが濃くなりつつあった。梅雨になるまで、この青空も暫く持つであろうと柴田は思った。

 今年の春は花見どころでは無かった。いや、四年前の参勤交代が終わった直後から今日まで桜など気にしている暇は無かったのである。それが今はどうだ。それより更に大変な事態だというのに何故か庭が綺麗だと眺める余裕がある。

 人は忙しすぎると、ある日突然切れてしまうという。切れて役にたたなくなるそうだ。今のわしはそうなのかと柴田は自分に問うてみた。

 青空と青かにつ葉の映える庭。風の香りも芳(かぐわ)しく木々の葉を揺らして木漏れ日の様々な表情が砂の上に溢れ出す。それだけなら、それだけならば、とても良い景観なのだが…その庭には男が一人ひれ伏している。

 決してこの男が勝手にやって来てこの庭の景観を台無しにしているのではない。この者は柴田に乞われてやって来た男なのである。


 ここはお江戸の城下町。さる大名の江戸屋敷でございます。庭で裃(かみしも)をまとってひれ伏す男はその肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)が相違していて、その上どちらも継ぎ接ぎだらけであるところを見れば、その者の身分が下級武士だと察するのは容易なことでございます。

「遠路はるばる、ようおいで下された。」柴田はその男に労いの言葉をかけた。

「お初にお目にかかります。我が主、本原浩勝の命により内藤様の御介錯(ごかいしゃく)を仰せつかりました深海安光(ふかみやすみつ)でござりまする。此度はこの様な大役を拝命されましたこと誠に恐悦至極(きょうえつしごく)に存じ上げます。我が主より事の次第は聞き及んで御座いますれば内藤様の穏やかならざる心中お察し申し上げます」と、その男は型どおりの挨拶を述べた。

 柴田はうんうんと頷きながら「拙者は当家江戸家老の柴田と申す。本原様にもご心配をおかけして申し訳なく思っております。貴殿にもご足労願いかたじけない。だが、何せ殿があの様な有り様ゆえ人を近づけさせたがらんのでな。我らも内々で済ませたかったのだが…中々にな。貴殿も、お役目を果たせる事が出来るかどうか…」頭の白いものが大半となってしまった柴田は、ふぅとため息をついた。そしてまた、庭と空を虚ろな眼で眺め呆けてしまっていたので側にいたお付きの者が咳払いをして一向に動こうとしない柴田の退室を急かしたのでございました。


 そもそも事の発端はこうでございます。

 この家の当主、内藤実篤(ないとうさねあつ)様が参勤交代で江戸城に登城したおり大渋滞のため遅れて着いてしまい廊下を急いで歩いていたところ江戸城の警護に就いていた直参旗本(じきさんはたもと)の家臣、佐々木某(なにがし)に歩くスピードが速すぎると窘(いさ)められたそうでございます。それは自分が悪いことは分かっているが何せ急いでいたのでイラッと、しましたがその時は詫びをいれてその場を凌ぎなされました。

 そして将軍様への謁見が終わり帰る時にもまた皆一斉に帰るものだから、再び大渋滞を起こして中々前へ進まないまま立ち往生しておりました。ふと、横を見ると側に門がある。この門から帰ろうと門番に開門を願ったが聞き入れてくれず押し問答になった。そこに現れたのが先程の男、佐々木某であった。またお主かと内藤様のイライラがまた沸き起こりましたが、今は早く帰りたい故、内藤様も低姿勢で重ねてお願いをしたのですが佐々木某の返答は「こちらからお出しすることは出来ません」と言うものでした。佐々木某は当たり前の事を当たり前に言ったのですが『そんなことも知らんのか、この田舎者』と言われた様な気がして内藤様のイライラは遂にブチッと切れてしまったのでした。腰に差した帯刀を柄ごと抜いて振りかざしそのまま佐々木某の頭へ振り下ろしてしまいました。刀は抜いていないがそれでも柄ごと当たればその衝撃は凄まじい。佐々木某の頭がパックリと割れて流血してしまいました。

 刃は出していないが刃傷沙汰(にんじょうざた)、傷害事件でございます。


 さあ、江戸城は上を下への大騒ぎとなりました。天下太平の世で久々に起こった刃傷沙汰であります。

 以前に起こったのは吉良上野介(きらこうずけのすけ)に浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が切りつけた松の廊下の事件でありました。当時は五代将軍綱吉様の時代で将軍自ら生類憐みの令を出していた時であります。犬猫でも傷つけたら罪人になる時代に人を、それも神聖なる江戸城内において傷つけるなどという行為に及んだ浅野内匠頭は切腹を命ぜられてしまいました。


 それから時は過ぎ百年余りたった今の世で此度の内藤様の所業は如何なる処罰になるのかと江戸はおろか日本中の注目を集めましたのでございます。内藤様は老中の屋敷にお預りとなりました。罪人と言えども、さすがに一国の大名を牢屋に入れるわけにはいきませんので老中程度の役職者の屋敷に幽閉されるのであります。

 さて、頭を抱えたのは時の幕閣(ばっかく)でありました。罪を犯したのは外様とはいえ大名であります。傷を付けられたのは直参旗本の家臣であります。この詮議をめぐって幕閣達は論議を交わしましたが中々折り合いがつかず霜降(そうこう)している内に一年が経とうとしていました。幕閣の大勢が内藤様に非はあるものの刀も抜いておらぬし相手も頭に傷をおっただけであるから隠居させて領地の一部も没収すれば良かろうという事で落ち着こうとしていた。旗本の家臣には将軍への忠義、見事であると主と共に誉め称えれば納得してくれようと。

 だが、大老永野忠国はその処遇に不満であった。皆、平和ボケしてこの詮議の重大さを分かっておらぬ。この詮議の行方次第で将軍家の威光が地に落ちるやも知れん。ここは厳しい処罰にして将軍家に刃向かえば徒では済まぬというところを見せておかねばならぬと。

 そして、年が明けた一月に内藤様の処分が下された。切腹である。ただし、家督は子に譲らせ領地の没収も家へのお咎めも無しという寛大なものであった。旗本の家臣には忠義を誉め称え主と共に褒美を遣わして納得させた。

 

 さあ、切腹と決まれば介錯が要る。介錯をするには生半可な腕などでは到底お役目を果たせない。それほど介錯とは重大な責務なのである。幕閣は直参の家臣に打診するも、ことごとく断られてしまい仕方なく内藤家の家臣から出して良いと言ってきました。

 それではと家臣の内から選りすぐりを募り殿様に報告に行くと、なんと殿様は死ぬ覚悟が出来ていなかったのでございました。死ぬのは嫌じゃと泣き叫ぶ有り様。しかし殿様に切腹して貰わないとお家が潰されてしまいます。そこで騙し討ちの様になるやもしれぬが無理矢理にでも介錯してしまおうと家臣達が企てたのですが何処から漏れたのか殿様の知れる事となってしまい「わしの首を斬りに来た奴は謀反の罪で一家全員打首じゃ」などとお布令を出す始末。しかし、いまだ殿様に違いなくその言葉を聞いて家臣達は困ってしまいました。そこで江戸家老の柴田が殿様の正室お華の方の実家、本原家に救いを求めたのでございます。

 そこで選ばれたのがこの深見安光でした。剣術は藩で一番の腕利きであります。皆からは安光と呼ばれずアンコウと言われております。さあ、このアンコウさんは見事に介錯が出来るのでございましょうか。

 

 なお、浅野内匠頭の家臣達が起こした敵討ち「 忠臣蔵」は、歌舞伎や義太夫のために作られた作り話だと云うことは言わなくても皆さんご存じでございましょう。


                  続く

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