ビンボー神のぼう

津川肇

ビンボー神のぼう

 ママは、すごくケチだ。ママの親子丼には卵が一つしか入っていないから、黄色というよりも茶色いし、タオルは何日も洗わないから、体を拭くと少し変な臭いがする。何年も前に買ったパチモンの鞄で参観日に来たときには、クラスですごくバカにされた。それまで僕は、短くなって持ちづらくなった鉛筆や、何日もくり返し使った水筒代わりのペットボトルを必死に隠してきたってのに。あの参観日をきっかけに、まるでママの鞄からピンクの合皮のかけらが剥がれてくみたいに、僕の取り繕ってきたものは崩れ落ちてったんだ。それで僕についたあだ名が「ビンボー神のぼう」ってわけ。坊野という名字と貧乏神の「ぼう」をかけたらしい、最高にセンスの悪いあだ名だ。

 

 だから、「お誕生日にイタリアンに連れて行ってあげる」とママに言われたときは、何かのドッキリかと思った。ビンボー神の男の子が突然イタリアンに連れていかれたら、どんな反応をするのか、そんな番組が世界中に放送されてしまったらどうしよう! そんな僕の悩みなど無視して、誕生日はあっけなくやって来た。


「予約していた坊野です」

 ママは、いつもより少し上ずった声で男に伝えた。男は無駄のない動きで毛玉のついたコートを預かると、僕らを窓際の席へ案内した。席に向かう途中、ピンクの鞄が店の照明を反射して、下品に光ってた。ママは席に着くと、「スパークリングをグラスで」と男に注文し、僕にもメニューを見せてくれた。今日は飲み物を頼んでもいいらしい。いつもはドリンクバーすら許されないのに! 僕は嬉しさを噛み締めながらコーラを頼んだ。


「昔、あの人とデートでよく来てた店なの」

 変な形のパスタと格闘していた僕に、ママがやっと話しかけた。ママはすごく短気だから、僕からは話しかけないのが暗黙のルールだ。

「思い出の店なんだね」

 あの人とは、僕のパパのことだ。まあ、パパとママが離婚したのは僕が赤ちゃんの頃だから、実はいまいちピンとこないんだけど。そうなんだね、と返すとテキトーに返事しないでとママが拗ねるかもしれないから、僕は頭を捻ってそう答えた。

「毎週土曜には外食するって決めてたの。このお店はあたしもお気に入りだったから毎月来てた」

 ママはパパとの思い出を長々と語った。その間に僕のパスタは無くなって、ママのパスタは冷えてしまったけど、ママが楽しそうな顔をしていたから僕は止めなかった。


「あんたがいなきゃ、今日そこにいたのはあの人だったかもね」

 ひとしきりパパの話をし終えると、ママはミニトマトにフォークを突き刺して言った。ママの顔はもう楽しそうじゃなくなっていた。

「ごめんなさい」

 僕は謝るしかなかった。ママがパパとの楽しい暮らしを手放したのも、ママがケチになってしまったのも僕のせいだというのは、最近嫌というほど聞かされてたからだ。


 あだ名の通り、僕が本当にビンボー神なのだと知ったのは、ある僕の告白がきっかけだった。


 あの最悪な参観日のあとから、僕はずっといじめられていた。元々ぼろぼろだった僕の持ち物たちは、クラスのやつらの手でもっとみすぼらしくなった。みんなが「ビンボー神!」と罵る声が頭にこびりついて、僕は眠れない日が続いた。いじめっ子のリーダーのあいつが「ぼうのランドセルピンクにしてやるよ! 傷もいっぱいつけてやる。これで大好きなママとお揃いだな」と言って僕のランドセルをピンクに塗りたくった日、とうとう心が限界を迎えた。ランドセルがピンクになってしまったことより、ママが、そして僕とママのこれまでの生活の全てが笑いものにされたのが、すごく悲しくて悔しかった。

 そして僕はついに、暗黙のルールを破ってしまった。ベランダで玉ねぎの根を植えていたママに、僕から話しかけたんだ。「ママのせいだ」って。毎日続く嫌がらせに、僕はもう、辛い気持ちを一人で留めておくことができなかった。心のどこかで、僕はママに抱き締められることを期待してたんだと思う。いつもは短気なママだけど、僕がいじめられていると知れば、「ママのせいでごめんね。辛かったね」とあたたかい腕の中で慰めてくれるんじゃないかって。だけど、ママはやっぱりそんな人じゃなかった。僕がいじめを告白すると、ママは見たこともないほど顔をぐしゃぐしゃにして、土のついた右手で僕をぶって言った。「あたしもあんたのせいで貧乏な生活させられてんのよ。ビンボー神!」と。それは、クラスのやつらに「ビンボー神!」と罵られるよりも、ずっとずっと辛かった。


 俯いて空になった皿を見つめる僕の頭を、ママが不意にやさしく撫でた。二杯目のお酒をぐいと飲み干すとママは微笑んだ。

「ごめんごめん、謝ることないよ。今日ここに来て贅沢できたのは、少なくともあんたのおかげなんだから」

 お酒のせいでほっぺがピンクに染まってきたからか、ママはさっきより上機嫌に見える。

「僕のおかげ?」

「そうよ、久しぶりにこんなに美味しい料理食べられたのは、あんたのおかげ」

 ママの言葉を、僕は噛み締めた。ちゃんと焼けているのか分からない分厚いステーキと一緒に、味が無くなるまで噛み続けた。今日までずっとママのビンボー神だった僕が、どうしてなのかは分からないけれど、ママに贅沢をさせてあげられたんだ! 僕は初めて、ママの役に立ったんだ!


 コースの最後は、小さな焼き菓子やチョコレートの盛り合わせだった。いい香りの紅茶は味がしなくて、僕はこれでもかと砂糖を入れた。だって今日は砂糖も入れ放題だ。ケーキが出てこなくても、「おめでとう」の言葉がなくても、僕の人生でいちばんの誕生日はきっと今日だ。


「いじめのこと、素直に教えてくれてありがとうね」

 不意にママが言った。

「……でも、最近はいじめ減ってきたんだ」

 僕はすぐに言葉が出なかった。ビンボー神の話に繋がるから、いじめの話題はタブーだと思っていた。だから、ママにはいじめがなくなってきたことすら伝えていなかった。だけどママはまるでそれを知っていたみたいに「そう」と言った。それから、紅茶を一口飲んで「示談のおかげね」と小さく呟いた。示談という言葉は知っているけど、意味まではよく分からなかった。ちょうどその時店員の男が会計にやってきて、僕はその意味を聞くタイミングを逃した。


 帰り道、行きつけの質屋の前でママが言った。

「この鞄、もう質に入れようと思うの」

「僕がからかわれたって言ったから?」

 思わず聞いた。僕はただでさえビンボー神なのに、ママが僕のせいでお気に入りの鞄を手放すなんて、嫌だ。みんながバカにしたって、それはきっとママにとっては宝物だから。

「違うわよ、参観日に今日のディナーに、たくさん役目を果たしたからもう要らないの」

 ママは笑って僕の頭を撫でた。でも、その言葉に僕は少し不安になった。今日のディナーでママを贅沢させて役に立ったらしい僕は、もう役目を終えてしまったのかもしれない。質屋に体育座りで並ぶ僕に、「ビンボー神のぼう 百円」という値札が付くのを想像してしまった。きっと、お金を出して貧乏になりたい人なんていないけど。


「早く帰んないと、雪降ってきそうよ」

 ママは僕が変な想像をしている間に、数メートル先を歩いていた。僕はママに置いてかれないように、質屋を睨んで駆け出した。

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ビンボー神のぼう 津川肇 @suskhs

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