新しい彼

津川肇

新しい彼

 私は新しいものが好きだ。真っ白で皺のないシーツ。毛足の揃ったふわふわの羊毛マット。水滴ひとつないぴかぴかのシンク。まだ人間の生活に汚されていない無機質な匂いは、仕事と引っ越しに追われていた私の心をやさしく包み込んでくれる。三十歳になった私の新たな生活が、この新築マンションの一室で始まるのだ。


「荷ほどきも終わったし、コーヒーでも飲む?」

 段ボールの山の向こうから、彼がコーヒーカップを片手に顔を出した。

「うん。でも自分でやるから、ゆっくりしてて」

「そう? 君だって疲れてるのに」

「いいのいいの。料理は私の担当って決めたでしょう。コーヒーを淹れるのも私の仕事なの」

 

 そう言って彼をキッチンから追い出し、仕舞ったばかりのポットを取り出し湯を沸かす。マンデリンの袋の封を開けると、コーヒーの香りが溢れ出した。この香りも、いずれこのまっさらなキッチンの匂いと混じり合ってゆくのだろう。そしてこの部屋は、いつの日かそんな生活の匂いに支配されて、かつての無垢な匂いを忘れてしまう。そう思うと、たまらなく寂しい。


「一週間前に出会ったばかりなのに、今日からこうして暮らせるなんて夢みたいだ」

 ローテーブルに肘をついて目を細める彼の姿はまるで絵画のように美しく、腕の角度はミリ単位で精緻に計算されたようだ。微笑むその口元には皺ひとつない。

「そうね」

「ほんと、あの出会いは運命だったと思ってるよ」

 彼は時々こうして歯の浮くようなセリフを言いたがる。そしてそれに私が安直にときめいてしまうことを彼は知っている。けれど今日は、なぜかその言葉を素直に喜べない。「私もよ」と目を合わせずに返し、私は彼の向かいに座った。


「……なんだかご機嫌斜めみたいだね」

 彼は私の皮下の筋肉の動きを少しも見逃さない。彼には全てお見通しなのだ。

「二人で暮らせるのは嬉しいの。でもいつか、この幸せにほころびが出てしまったらって、不安でもあるの」

「でも僕は、いつまでも君のことを愛する自信があるよ」

「それは知ってるわ」

 私たちがローテーブルで向かい合うたびに、このガラスには私の手垢がこびりつき、足元のマットの毛はへたってゆくのだ。そんな風に、彼の皺のない顔にもいつかは傷がつき、私の頬にはシミが増えてゆく。

「ただ、私はいつかあなたのこと、好きじゃなくなるかもしれない。それが怖いの」

「その時は、また惚れさせるまでだ」

 彼は自信たっぷりにそう返し、私をまっすぐに見つめる。美しいその目に見つめられて完璧な返事をされてしまうと、私はやっぱりときめいてしまって、小さな不安を胸の奥の奥にしまった。私がゆっくりコーヒーを飲む間、彼はずっと私を見つめていた。


 今日は引っ越し作業で疲れたせいか食欲が湧かず、日が暮れると早めにシャワーを浴びて眠ることにした。

「隣で『おやすみ』って言えて、朝はまた隣で『おはよう』が言える。僕は幸せ者だ」

 彼は恥ずかしげもなくそんなセリフを吐いて眠りについた。彼がどうしても腕枕をしてあげると言って聞かないので、彼の男らしい固い腕の中で目を閉じた。ただ、いくら愛する人といっても慣れない腕枕では上手く寝られず、私は夜中に目を覚ましてしまった。新品の冷蔵庫の中には何も入っていないので、私は仕方なく水道水を飲みながら、彼の寝顔を眺めることにした。長い睫毛に高い鷲鼻、桃色の薄い唇。その全てが私の好みで、あの店で出会ったときは私もまさに運命だと思った。愛おしい彼に布団を掛け直してあげよう、そう思ったとき、彼のTシャツが少し捲れていることに気が付いた。


『B-000152』

 彼の製造番号が目に入る。おかしい。彼は最新モデルだから番号は『D-000152』だと聞かされていた。急いでリビングに戻り、契約書を確かめる。やはりDモデルだと書いてある。

「どういうことなの……?」

 思わず呟き座り込むと、書類の束から一枚のチラシがはらりと舞い落ちた。彼を見つけたときに店頭で受け取ったものだ。そこには目を凝らしてやっと見えるほどの小さい文字で「ただし、こちらはBモデルの中古品パーツを再利用して製造しております」と表記があった。最近の販売店には、中古品を使った安値のAIを最新モデルの値段で売りつける悪徳店が紛れているという噂は本当だったのだ。


 寝室に戻り、彼の背中の小さな蓋を開ける。最新型であればUSVポートがあるはずのそこには、四本の乾電池が埋まっていた。ああ、ほころびが出てきてしまった。彼には既に、誰かのコーヒーの香りが染みついていたのだ。

 

 私は、新しいものが好きなのに。

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新しい彼 津川肇 @suskhs

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