第11話『叭{パ}号観測機』(その3)
平和は戦争よりもよい。というのは、
平時において息子たちは父親たちを埋葬し、
戦時において父親たちが息子たちを埋葬するからである。
フランシス・ベーコン
野沢航空研究所は、既にZ-1飛行機の経験もあり、陸軍からの改修要望を受けた『叭号』の生産が所沢工場(仮設工場から正式な工場になった))で始まった。ただ、中身は家内制手工業からやっと工場制手工業に移ったばかりというありさまで、工場制機械工業として月産20機を超すのにはしばしの時が必要だった。
初期はアメリカから輸入されたライカミング社製のエンジンを使い、
『叭号1型甲』(輸入されたパイパーカブは整備員の中では無印と言われた)
と称された。そして日立飛行機社製のエンジンを載せたものが
『叭号1型乙』
と称されることとなった。
なぜ「野沢式(野号)」ではないのかといえば予算の確保である。大蔵省はねちねちと別の型式であれば文句をたれ、書類の不備をつつくのである。特に年度をまたがった予算の変更など、陸軍の高官であっても容赦しない姿勢を見せるのが大蔵官僚である。(有名なのが八九式中戦車への仕打ちであるが…)そこで既存機であり予算がいったん付いた『叭号』の改良とすると予算はかなりすんなりと通ってしまう。そのためパイパー社のものも野沢航空研究所のものも『叭号観測機』と称されていたのである。
開戦時、12の野戦重砲連隊に観測飛行中隊が配備された。マレー半島やフィリピン上陸に際して、本来であれば重砲とともに第三陣で上陸するはずが、師団の要請を受けて第二陣として上陸し、占領された航空基地より最初に飛ぶのが『叭号』であった。中にはまだ敵の抵抗・反抗の最中であっても飛行場の片隅で組み立てられた機体を強引に飛ばして、敵陣の様子を舐めるような低空飛行で偵察してその後の師団の進行を助けた。マレー半島を守備する英軍(インド兵が主体)にとっては、叭号が飛来することが日本軍の攻撃が近いことを知らせる存在であった。
「悪魔が来た」と、叭号が通った後、前線に構築した陣地を捨て去り後方の第二陣地、第三陣地へと逃げ去ることがしばしばあったようである。
『マレー半島の攻防戦というが、その時の我が軍のありさまは防戦どころか、逃げまどうだけに過ぎなかった。せっかくの機関銃陣地も砲陣地なども例の「悪魔」が見えた途端に振り返えられることなく捨てられ、皆が自分の命を守るだけの存在となったのである』
皮肉を交えた言い回しが大好きなイギリス人としては素直に描いたマレー半島の攻防を記す文章の中で、当時大尉であったイギリス士官はこのように語る。(この文章を掲載した月刊誌はイギリス政府によって発禁寸前になる)
戦後、東アジアにその影響力を残したいイギリスにとって遅滞戦術で日本軍と勇敢に戦っていた「事実」を誇りたかったのであるが、次々に陣地を捨てていったという実際を知っているマレー人などの視線は冷たかった。
また、マレー・シンガポール攻略戦、そしてフィリピンのバターン半島・コレヒドール要塞に対する砲撃に際して、低空をゆっくりと旋回する機体は
「なくてはならない戦友」
「空のかわいいやつ」
などと砲兵たちの感謝の嵐状態であった。
観測機の存在によって、効果射撃や目標変更が早めに伝わることで、
「無駄な砲弾が60パーセント減った」
と砲兵側の報告もある。もちろん実際に調査したわけではなく感覚的な個人の感想に近いものであるが、下士官の師団・連隊を無視するかのような横のつながりを侮ってはならない。他の野戦重砲連隊や野戦砲連隊も観測機を挙って要求することにつながるのであった。
調達費・運営費が低いこともあって、訓練が終わった観測機中隊は次々と戦場へと送られた。
ちょうどその頃に、神戸製鋼社製の
『テ号観測機』
の試作機が完成した。
叭号が全長6.78 m・全幅10.73 mという小型機なのに対し、テ号は全長9.50 m・全幅16.00 mと一回り以上ずいぶん大きな機体であった。フィーゼラーFi156シュトルヒを参考(写真と簡単な図面・資料ではあるが…)に、シュトルヒと同じくアルグスエンジンを神戸製鋼で国産化したエンジン(このあたりの苦労話は必読のものがある)を搭載、低速での安定性や短距離離着陸性能を求められたためのものである。残念ながら、テスト飛行中に墜落し機体が破壊してしまった。その頃すでに同じ役割を果たすキ76も試作機が完成しており、そのまま開発中止となった。(日本陸軍のこのあっさりと興味を失ったかのように開発をあきらめて次に移る姿勢は不思議に思えてならない。技術の成熟、育てていく方向に目が向かないことがしばしばみられる。実はターボ過給機もその一つである)ただ、搭載したアルグスエンジンは筒温過昇トラブルが多発(日本の冶金能力の不足のためか?)しており、改良を重ねても正式採用はかなり遅くなったものと考えられる。
対する『キ76』であが、試作機自体はテ号より早く出来上がったており、16年のシュトルヒとの比較審査の結果、シュトルヒの国産化をやめこの機体を採用することとなった。しかし、陸軍航空本部からのかなりの応援があったものの、このような機体に対する経験がなかったことや機体の凝りよう(フラップ操作には電動チェーンを用いた など)、開発した日本国際航空工業自身の開発能力の乏しさから正式採用は遅れ、18年となった。(このあたりのごたごたを考えると、テ号観測機も制式機として採用して観測・連絡機を一機でも増やした方が良かったかもしれない)
しかし観測機の夏は思ったより短く終わった。
野火のように占領地域を増やした日本軍ではあったが、ビルマ戦線やニューギニア戦線に投入された観測機は、敵機からの攻撃にさらされた時には防御の武装もなく、低空を這うように逃げるしか方法がなかった。敵味方の制空権が複雑に交差する中で低速度の観測機の損害に驚愕するとともに機材補充する以上のことができず、操縦員や空中観測員の補充が進まない状態が続いた。
長い冬の訪れである。
「エ?自衛用の武装?装甲版??」
「無理むり、絶対ムリ」
叭号の予備搭載量はそのエンジンの非力さに比例して小さなものであった。
「エンジンの強化?日立さん、受けてくれるかなぁ?」
受けてくれた。
すでに日立飛行機はアメリカの情報を得て、80馬力まではこのままのエンジンで回転数や圧縮比を高めることで出せることを知っていたので、すんなりと改良版を作ることができたのである。ただし、87オクタン以上のガソリンが必要であり、ややピーキーなエンジンとなったのでスロットルの操作に気を付ける必要があった
機体を全体的に強化し、後部席上方の窓を開閉式(それまでははめ殺し窓)にして射界は限定的であるものの銃座を置き、エンジンを80馬力に向上させた改良版を載せた2型が生産されたが、その数は少なかった。
制空権が完全でない中での『叭号』の損害の多さに陸軍は自衛能力もあり、前方射撃用の機関銃や爆弾搭載能力を持つや98式直接協同偵察機(98式直協)を再量産する。15年にいったん生産は終わっていたが前線からの本機を要望する声が強く、17年より再量産が始まった。(陸軍航空本部と前線部隊の評価の違いが判る機体の一つであるが、航空本部としてはより高性能な99式軍偵・襲撃機(当然素晴らしい機体)の方を主流と考えていた節があるが、このあたりの陸軍の性能中心主義による他機種の排除にはうんざりする。戦時には「質より量」であり「明日の10機ではなく今日の1機」。この量産中断がなければ98式直協は300機は増えたはず)そして航空隊だけでなく師団・連隊所属の観測航空隊に配備し始めたのである。98式直協は中級練習機を熟す能力(高等練習機として採用されていた)があればとりあえず運営ができる機体であったので、わざわざ航空兵を使うことがいらず、叭号のベテラン搭乗員によって運営が可能であり、師団などに運営を任された(なにせ師団・連隊に配備された観測航空隊への配備であるので)戦力であり、前線での砲兵への観測業務だけでなく、歩兵・工兵部隊への攻撃支援ができる万能機として以前から評価の高い機体であった。
このまま叭号は消え去る運命にあったが、砲兵連隊以外の部隊から自分の師団や連隊で使える機材(搭乗員教育が短くてすみ、調達費・運営費が低いため、98式直協に比べても全体価格の5分の1~7分の1程度)を、近距離偵察・哨戒・連絡機として使いたいという要望が出ていた。なにせトラック価格で購入することができる。結局、その要請に応じて、2型だけではなく、3型の生産が始まった。
・エンジンは80馬力の新エンジン(圧縮比・回転数の変更版)を搭載
・部分的(特に搭乗員・後部席)に外皮にジュラルミン・アルミ合金を利用
・胴体を再設計し、後部席を2座とする(3人乗り)
・主脚部を再設計し、幅を広げる
・主翼部への燃料タンクの増加
胴体や主脚部の再設計に際しては、陸軍が購入していたフェアーチャイルド社のF-24K軽輸送機(アメリカでの調達価格は6,500ドル)の機体を参考にすることができた。この機体は請われてビルマ戦線やニューギニア戦線を支える歩兵師団などに優先して配備された。しかし、制空権が失われる中では歩兵師団が考えるほどには前線では活躍できなかった。後方への連絡・軽輸送・人員輸送以外には活躍の場はほぼなくなっていた。ただ航空隊に連絡する必要もなく、
「ちょっとそこまで」
という足代わりに師団・連隊規模で自由に使える航空力ということだけでも活用・運営する価値があったようである。
ある兵の記憶によるとビルマ戦線では現地改造で翼下に爆弾架を左右に一つずつ設け、30~60㎏の爆弾を抱えたこともあったらしいが、正式な記録にはなくその詳細は不明である。
またその頃、3式指揮連絡機(キ76)も生産が始まったが、高性能であるだけに生産には難しさもあり、調達費や運営費の増大もあって生産数はなかなか増えず、制空権が確保されていない現状では活躍することが少なかった。叭号が後方への連絡・輸送に特化したものとして利用されたのに比べ、高性能な機体は期待値が高く、最前線に使う前提で少数が前線に送られた以外は本土で本来の連絡機として、あるいは対潜作戦に従事した。(陸軍の空母「あきつ丸」搭載機という世界的に見て珍しい側面もある)
戦争後半、米軍が上陸したルソン島にはパイパーL-4/O-59グラスホッパー やスチンソンL-5/O-62センチネル 等の様々な観測機も分解することなく上陸用舟艇を使って上陸し、上陸間もない中、海岸の平坦部を利用し早速観測機を飛ばす部隊もあった。航空基地・空港を確保する以前において空母からの戦闘機のエアカバーは時によっては途切れることがあるが、観測機によって哨戒活動をするだけでも、日本軍の動きを早期に発見し、反撃の機会を与えなくできたからである。橋頭堡きょうとうほを確保して以来、その勢力を広げる中でその動きは露骨なものとなる。米軍は日本軍が戦前に設定していたのと同様、味方制空権の下、低空で敵を探し回り無線で連絡し砲撃・航空攻撃を加えるというある種の残敵へのルーチン業務の一端を担うこととなるのである。ジャングル・森林に逃げ込んでもその働きはなくならず、しかも低空をゆっくりと旋回しつつ日本軍の残存勢力を探す姿は下手をすれば上空高く飛ぶ新鋭機より恐れられた存在であった。その姿はルソン島以外のフィリピンの島々や沖縄などの上陸戦でしばしば見られた光景である。
対して大陸方面では制空権が日本側にあった地域も多く、叭号は陸軍の思う通りの活躍ができた。中隊当たり12機前後に増強された前線では天候次第ではあったものの、叭号が常時周回し敵勢ににらみを効かせ、進軍速度が速い余りに孤立しつつある部隊へ連絡、少量ではあるが補給物資を渡し続けた。また戦傷者を乗せて後方の野戦病院に迅速に運ぶ姿は、日本兵の意気を上げることに役立ったのである。(担架をそのまま載せられるように改造した機体が存在する)その華奢な姿から「糸トンボ」というあだ名をもらっていた。
いわゆる「大陸打通作戦」とそれの前哨戦において、アメリカやイギリスから供給された武器や物資があるにもかかわらず、国民党軍が戦線を縮小し後退ばかりしたのは、日本軍との戦いで戦力を失いたくない蒋介石の思惑もあるが、75万人と言われる戦死・負傷者、そして5万人を超える捕虜(高級士官を含む)を出した中国軍は、中国共産軍(赤軍)との今後戦いのために日本との単独講和をさえ検討することとなった。(ルーズベルトの熱心な優遇があり、蒋介石は検討をやめたが、アメリカ側はかなり不信感を持った。そのことが二次大戦後に限定的な援助にとどまり国民党が下野することにつながる)それら作戦の遂行・成功の陰の立役者が叭号であるのは言うまでもない。
中でも2度にわたって完全占領できずに中国軍が日本軍を破ったとされる長沙会戦において、第四次長沙会戦では哨戒偵察をしていた叭号が、運び込んだ15cm榴弾砲の砲撃を観測しつつ、その中で中国軍の怪しい動きを不審に思い、夜間ではあったが交替しつつ哨戒・偵察する中で、夜陰に紛れて長沙を撤退しようとした中国軍の動きを察知し3個師団を包囲殲滅する作戦を立てる。準備時間が十分でなく包囲が完全にはできなかったが、半壊状態とするという戦果を挙げた。(その直後、長沙はアメリカ側の大規模な空襲を受け民間に大被害を与える。ただ日本軍は様子見で長沙に入城していなく被害はほとんどない)
ただ19年からの中国方面の連合軍航空機の増大に伴い、叭号の前線の活躍も下火になっていった。
終戦時に残っていた『叭号観測機』は、日本本土や外地で50機を超えていた。大半はマレー・ビルマ・ニューギニア・フィリピン・中国の戦場で、所属する連隊の壊滅の前に戦場のかなたへと消えていったのである。(地上要員は数少ない自衛用の武器を手に歩兵部隊に編入された)
「ジャッパー」
「Jホッパー」
と米兵たちは少数残った『叭号』をおもちゃ感覚で飛ばしていた。
「こりゃ負けて当然だ」
と、そのあたりの米軍兵卒が数名集まったかと思うと放置状態であった『叭号』をいじくり回し飛ばすところを見て、捕虜になった日本兵はつぶやいた。この米兵は戦前、親の農場でパイパーを飛ばしていたのである。
敗戦後、野沢航空研究所はその作業をすべて止められ、所沢に置かれていた工場は閉鎖、解散のため(正確には野沢商会の機械部として再編成)の細々とした整理をしていた。
「もう、飛行機は作れないか…」
ぽつんと誰かがつぶやくと、
「軍用機はな。でも、民間機は分からんぞ?」
と、雲の隙間から垂れ下がる細い糸のような希望にすがっていた。
しかし、敗戦後の日本のだれが必要?どこで使う?
野沢商会は終戦早々にアメリカとの輸出入を再開していた。
「ワンダラー」
社長は伏し目がちにしていた顔を上げた。
「エ?」
日常会話程度は英語ができる社長もその言葉には日本語で応じてしまっていた。
「ということは、500ドルくらいで?」
信じられない思いで汗の噴き出た社長に対し、相手は首をゆっくりと大きく横に振ると、ニヤリとしながら
「ワ・ン・ダ・ラー」
1音1音、抑揚をつけ歌うように言った。
相手は日本に視察に来ていたパイパー社の重役である。
野沢商店としては、ハイパー社に戦時中に生産した500機余りの『叭号』のパテント料を支払うつもりであった。それが敗戦という枷から発生したものであることは言うまでもない。(戦前・戦中ならば踏み倒すことに躊躇しなかったろう)野沢商会は一機500ドル、都合250,000ドルを支払うことに決めていた。(払えるとは言ってない)
「日本はドルを持っていない。そしてドルはあなたの会社の貿易に必要不可欠なものである。私としてはあなたの会社を潰すつもりはない。できれば…」
野沢社長はごくりと乾いたのどを鳴らした。
「これからも良い商売をしあう相手であってほしい」
野沢航空研究所の叭号2型・3型の設計図・資料とかき集めた部品で作り上げた3型の実機一機、プラス1ドルでパイパー社との交渉は終わった。野沢商会はしばしボー然としていたが、戦前にためていたドルを大盤振る舞いの状態でアメリカとの輸出入に精を出すことになったのである。
その後、GHQの航空機開発禁止の解除に伴い、パイパー社は野沢商会に
「うちとまた取引しないか?」
と誘い、野沢航空研究所は2回目の産声を上げた。
野沢商会はパイパー社の日本総代理店の指名を受け、野沢航空研究所は日本に輸入されたパイパー社の飛行機の組み立て、試運転、部品の取引、オーバーホールなどを請け負うこととなったのである。以来、セスナ社と日本のシェアーを半分することとなる。
このパイパー社との付き合いは、取引しようとする相手に初めて接する際に絶大な影響を与える。
「パイパー社の総代理店を務めるくらいならば…」
信用ができるはず、という無形の影響である。そのこともあって野沢商店は手堅く商品の種類と商圏を広げ、日本でも中堅の商社としての地位を築くこととなった。
『その頃の我が社は濁流にのみこまれる1枚の木の葉のようでしたね。』
とある雑誌取材にパイパー社のことを聞かれ野沢会長(当時の社長)はそう語る。
『陸軍からの矢のような催促、我が社の技術陣の矜持。会社経営者としてあってはならないのですが、右へ左へ上へ下へと揺り動かされる中で、なかなか先を見た指針が決められなかったのも事実です。いやいや、冗談でなくダメダメ社長でしたよ』
と当時を思い出しながら苦笑いをした。
『戦後、パイパー社とのパテント交渉が終わった時、やっと木の葉は海へと流れ込んだ、そんな思いがしました』
うんうんと小さく頷きながらしみじみとした口調でそう語った。
2011年12月7日ギネス最高齢パイロットの高橋淳様がお亡くなりになりました。日本海軍で一式陸攻を操縦して激戦を生き残り、戦後は49歳からフリーのパイロットとして、小型飛行機を中心に50種類以上の飛行機(試作機を含む)を乗りこなす現役パイロット。享年95歳。生前のインタビューにこう答えられてます。
「カブって飛行機が一番良かった」
~ 終 わ り ~
あったかもしれない?日本陸海軍の兵器・装備のあり方 @pochi7777
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