第10話『叭(パ)号観測機』(その2)


 私たち一人ひとりが航海しているこの人生の広漠とした大洋の中で、

 理性は羅針盤、情熱は疾風。

                    アレキサンダー・ポープ 



 砲兵の役割は何であろうか?

「戦場の花」

 とも称される砲兵の役割は、近代になるにつれ大きな役割を果たしていた。

 砲撃を行う際に、大砲側が行うものは、直接照準であり、間接照準である。直接射撃は分かりやすい。大砲が目標を目指して砲撃するものである。小説や漫画でよく描写される相手を照準器で見て、相手の距離や速度に合わせて目盛りを修正して射撃する方法である。

 一方、間接射撃は?と言えば、簡単に言えば目に見えない相手に対して射撃を行うものである。射撃する砲側から見えない相手にどう対処するか。日本重砲砲兵の弾着観測法は、高い所に登り弾着を肉眼で、敵との距離で見て、左右遠近を修正しながら射撃する三角観測を基本としており、特に榴弾砲などの重砲ではいわゆる間接射撃を行っていた。2か所で観測できればその砲弾は敵を貫くことができる。砲兵は敵に姿を見せることなく射撃を行うため、原理的には反撃を受けることなく一方的に射撃を加えることが可能となるわけである。ここで大切なのは、観測射撃を行うためには観測兵が直接目標を確認する必要があり、当然ながら観測兵には可能な限り広い視界と大きな視程を確保することが要求された。地平線の理想的な視界は4,4㎞、しかし高低があるためにせいぜいが2キロ程度である。つまり、平地であってもより高い場所での観測地点を確保することが必要である。究極的には目標上空から観測することが理想とされた。

 弓、槍や刀・剣で戦っていた時代より、敵より高い位置に陣地を置くことの有効性は知られており、敵の戦力や陣形など、自分たちの価値に必要な情報が得られるだけでなく、攻撃のタイミングなどの主導権を握ることにつながる。戦国時代に山城が主流だったのは、攻めにくさ・守りやすさがあるが、敵軍勢への観察が可能であることは言うまでもない。日露戦争時の名もない「203高地」で肉弾戦さながらの激戦が繰り広げられたのは、旅順港への砲撃観測地点を得るためのものであった。

 近くにそのような丘陵がない場合、ライト兄弟以前の世界で使われ始めたのが水素を用いた気球である。19世紀末には水素気球が既に軍事利用されており、アメリカの南北戦争時にも気球に観測兵を乗せ空高くから敵の様子をうかがっていた。。


 陸軍気球連隊という部隊がある。

 日本陸軍の連隊の中でも、それなりに長い歴史を持つが、あまり名は知られていない。(かの「フ号」についてはここでは省く)気球班という名称で立ち上げられた隊は、明治末期に連隊と組織変更され、昭和初期に気球隊はそれまでの航空科の所属から砲兵科の管轄となっていた。

 ここでは敵地偵察や砲弾観測のために気球(飛行船ではなく、無動力のいわばアドバルーンのような存在)を利用していた。西郷どんの西南戦争には編成的に無理があり間に合わなかったが、日露戦争時から陸軍はさまざまな場所で気球部隊を使っていた。(残念ながら活躍したという話がほとんど残っていない)ただ、空中にできるだけ固定するしかなく、空中に浮かんだ的でしかなく、それなりに被害が出ていたのである。気球で観測するためにはかさばる気嚢と危険な水素ガスを取り扱わねばならず、運用性という点では多くの問題を抱えていた。第一次大戦後半での飛行機の台頭によりその雰囲気は顕著になった。ちなみにアメリカ軍のМ2重機関銃(12,7mm)の原型は本来第一次大戦頃に観測気球を打ち落とすために作られたものである。世界的にも気球は時代遅れとされつつあり、飛行機の能力の向上とともに日本でも昭和10年頃に気球の替わりとなる弾着観測の機器として固定翼の機体を考えてはじめた。

 日本陸軍砲兵は独自の航空観測隊を指揮下に収め、部隊の運用方法や新型観測機材の研究に着手した。日本陸軍の重砲隊の中でもその白眉ともいうべき第一野戦砲兵連隊は自身のつてを探って機体の確保とともに、そのころの新鋭機の一つである95式中間練習機などを使って今後どのような機体が必要かを検討した。

 実はこの頃、東久邇ひがしくに 盛厚もりひろは、兵学校卒業後砲兵の道を歩んでおり、第一野戦重砲連隊の一中隊長であったが、皇室の一員(明治天皇は祖父、大正天皇は伯父、昭和天皇は義父)ということもあって、本人はその気がなくても付託する存在はいくらでもあり、その影響力はかなり大きなものを持っていた。そのために陸軍技術本部は自身の影響が及ぶ範囲ではあったが、協力を惜しまなかった。それは陸軍気球連隊も同様である。


 ・気球の代わりになるものであるから、運用自体は簡易でなければならない。

 ・必要に応じて必要な場所に来ないといけない(即時性・即応力の関係)ので、航空隊ではなく気球隊もしくは砲兵隊に所属させる。

 ・低速の安定性がまずは必要であり、操縦が簡単なものが望まれる。それに伴い、機体・エンジン整備も容易なものが良い。

 ・前線近くに展開するため草原や道路などを使っても離着陸が容易なものが良い。

 ・複葉機・低翼機は下部方面の死角ができがちであり、できるだけパラソル翼機・高翼機が良い。

 ・単座では操縦と通信を同時にする必要があるため複座、もしくは三座の機体。


 そして、


 ・できるだけ安価なもの


 という要望であった。

 陸軍研究部は、それらの要望に応えるべく、2種類の機体を関係所管に発注した。


 ・カ号観測機(回転翼式観測機・オートジャイロ)

 ※萱場製作所なのでカ号という噂は無視しましょう


 ・テ号観測機(固定翼式観測機)

 ※コ号ではないか?いやいやホントの話ですので仕方ありません


 がそれである。しかし完成までには最低1年、量産し実戦配備までには2~3年かかるものと考えられた。

 そこで、とりあえずその運用を検証するために目をつけたのである。



 パイパーカブ


 に。


 野沢商会・航空研究所が納入した5機のカブは、文字通り散々に「弄られ」た。所沢飛行場を本拠地とした所沢航空隊・陸軍気球連隊はもちろん、本来の発注者である第一野戦砲兵連隊のお歴々は、航空性能や観測機としての取り扱い、整備やパイロット育成の難易度などなど士官だけではなく、それを実際に中心となって運用する兵や下士官が様々な視点で検証を重ねたのである。


「俺、軍隊辞めたらカブ買うんだ」


 所沢航空隊所属の搭乗下士官はそう言って笑っていた。北海道出身のその下士官、操縦士ではなかったが実際に戦後に払い下げされた国産カブで故郷の農場付近で農薬・肥料散布を行う仕事に就いた。

 実際、カブは民間の訓練機の側面があり、軍用機の訓練生も初歩訓練機の教習が終わって単独飛行が許された者はカブの操縦も許されていた。(その反対にカブの単独飛行が許された者は初級操縦者と認められていた)軍用機の操縦員と違い、砲兵の中で(視力が大丈夫で運動神経が良い)使えそうな兵・下士官の中から選抜されたカブの操縦員であったが、2週間程度(毎日2~3時間搭乗)の訓練で単独飛行ができるようになっていた。一番難しいとされる着陸に対しても今でいう「タッチアンドゴー」を50回は繰り返して次第になれることができた。

 発注から2か月余り、『叭号』にも慣れたころに野沢航空研究所はやっと所沢飛行場での喧騒から身を引くことができた。


「え?要望書??」

「そうそう。カブの改善点の…」

「ということは…?」

「楽しいお仕事の始まりです」


 まだ8機が組み立てを待っていたカブであるが、


「もっと欲しい」


という陸軍の要望にできる限り答える形で改良をしなければならなかった。しかもできるだけ急いで…


 野沢航空研究所はすでにカブの設計書を二通り作っていた。

 一つはアメリカ式にフィート・インチ法の設計図。これは現物を見つつ、同一のものができるようになっていたが、部品の重要部はアメリカから輸入しなければない。

 もう一つは日本式にメートル法の設計図。カブを国産するためのものである。

 野沢航空研究所としては国産を目指すことが第一であるが、そのための用意はこれまでのカブの納入やアフターサービスのために、せいぜいが部品の発注をできる分だけしているに過ぎなかった。できるものはカブの機体のコピーであり、なんといってもエンジンの用意が手つかずの状態であった。


「機体はどうにかなりますが、エンジンがままなりません」

「まかせとけ」


 と、陸軍技術本部は安請け合いをしつつ、陸軍航空研究所に航空機エンジンを供給する会社はないかと丸投げする。航空研究所としてはちょうど東京への移転のごたごたもありかなり忙しい状態であった。


「自分の頭越しに軍用機用意しやがって」


 と断ることもできたが、大人の対応をする必要もあり、東久邇ひがしくに 盛厚もりひろという切り札を出されると引き受けざるを得ない。また航空研究所としてもフィゼラFi 156 シュトルヒの国産化や後に三式指揮連絡機となるキ76の検討が始まっており、先行研究機として『叭号』の存在は渡りに船の状態であった。


「で、月に20台くらいできればいいのですね」

「とりあえずそのくらいあれば」

「ん~~。今はどこも余った工場はありませんけれど…」

「そこをなんとか」


 陸軍技術本部に『貸し一つ』状態で、表面上は嫌々ながら陸軍航空研究所は一つの会社を指名した。


「確かにエンジンは作れますけれど…」

「実物はある。図面は早急にこちらで用意する」

「できるだけやってみますが、部品発注に型枠・治具等の手配、試作だけでも3か月は欲しいですね」

「そこをなんとか」


 なんとかしてしまった会社は東京瓦斯電気工業(後に航空部のみ日立飛行機となる)。

 神風エンジンや天風エンジンなどの小馬力(100~350馬力)のものを設計・生産しており、現在海軍の要請でドイツ小型エンジン「ヒルト HM 504A」エンジンを国産するために四苦八苦していた。(このエンジンはドイツの高度な工作技術を前提とした複雑な設計が用いられていたため、結局、ライセンス生産をあきらめそのレイアウトだけを利用して国産できるように新たに設計され「初風」として生産された)


 この時、輸入したカブに搭載されたエンジンは2種類。

 初期の二機は、コンチネンタル製A40シリーズ水平4気筒エンジン40馬力、

 急ぎに急いだ10機は、同じコンチネンタル製A65シリーズ水平4気筒エンジン65馬力。


「アメリカのエンジンは素直に作ってあるなぁ」


とはヒルト HM 504Aエンジンで苦労を重ねる東京瓦斯電工の技術者。コンチネンタルA65は民間利用での利便性・整備性に重きを置いて設計されており、アメリカらしい確実な出来のものであった。


「これならば、あまりいじらないでできるのでは?」

「あんまりいじりたくないなぁ。出来の良いエンジンだよ」


 それでも、これも日本人らしく日本での現実的な生産性・整備性に重点を置き、吸排気・燃焼効率を向上、なおかつ練習機で使われているような低オクタンガソリンでも問題なく運用できるよう設計変更した。(この頃の実戦機は陸軍87オクタンのものを使っており(戦時は92オクタン)、練習機などは82~80オクタンだったらしい。ちなみにコンチネンタルA65は87/80と資料にある)

 それでも65馬力をたたき出したエンジンは、馬力の低下を我慢すれば、その頃車両用に使われた75オクタンのガソリンでもとりあえず活動できるようにできていた。(緊急時のものであり、常用不可ではあるが…)


 残りの8機の納入を終わった野沢航空研究所であるが、月産20機の国産化に向けて次のような要請を受けた。


 ・エンジン部(首部)のカバー

 ・主輪の強度向上、荒地への着陸のために大型化・低圧タイヤの利用

 ・機体後部、特に尾部車輪あたりの強度向上

 ・側面の特に下方・後方面の視野の拡大

 ・上方への窓の追加

 ・前席だけでの操縦(カブは練習機が基本であるので前後席に操縦装置があった)

 ・後席に無線電話・電信装置の設置


 などである。その他にも横風への対策や重心位置の変更などが上げられたが、機体の大幅な改装が必要なこととして、今回は見送られた。


「なんとかなりそう」


 と、設計図への変更をしながら、とある野沢航空研究所の職員はつぶやいた。

 そしてこうもつぶやいた。


「これ以上の変更は嫌だ…」



 陸軍はこれまで納入された12機をもとに、4機編成の2個中隊を編成した。一つは気球連隊、もう一つは第一野戦重砲連隊にである。

 1個中隊の編成は、観測機4機・九五式小型乗用車(くろがね4駆)2台・整備、補給輸送用の94式6輪トラック6台・通信用の94式6輪トラック1台・中隊指揮用の94式6輪トラック1台、搭乗員10名(観測員を含む)など人員74名を定数としていた。

 この中隊編成の直後、その効果を問うことが起こる。


 ノモンハン事件


 である。


 現地遊牧民の水争いに端を発すると言われるノモンハン事件であるが、そのような単純な話ではなく、それまでも日・ソの満州国境線(未だ確定していない)を巡って「張鼓峰事件ちょうこほうじけん」などを代表とした大小の小競り合いが続いていた。一ヶ月に1〜2ペースである。その緊張感が続く中でのハルハ河(日本・満州側が主張する国境線)を巡る戦いがノモンハン事件である。(独ソ戦の緊張が続く中であり、日本への大規模な威力偵察の側面も否めない)

 4月から始まったノモンハン事件であるが、日・満側の強硬な反撃を受け、一進一退を繰り返し、スターリンは慌てた。そしてソ連としての切り札を出したのである。

 後の「ソ連邦英雄」ゲオルギー・ジューコフである。

 ジューコフの立てた作戦は明快である。

 事前の入念な作戦準備、大量の戦争資材、そして贅沢と言えるほどの野戦重砲・自動車・装甲車・戦車部隊集結などの戦力の集中。単なる国境紛争ではなく、戦争をするかのような計画である。


 第一野戦重砲連隊は、その頃最新鋭重榴弾砲である九六式十五糎榴弾砲に装備変更を続けており、ノモンハン事件に2個大隊の応急編成で動員されることになった。その中には特設飛行観測中隊も含まれていた。




 その日7月23日、ハルハ川右岸より砲撃が開始された。2発試射を行うと、丘の上の観測所よりいつものように連絡がなされ、砲のハンドルを回し射撃修正が行われた。ソ連軍の砲陣地は対岸にあるが、此方より高くなっている。そのため観測所でも十分には把握されていない箇所もあった。特に後方陣地は観測所でも見ることができずにいた。

「砲、故障。射撃できず」

 声の主を探すと、自分の右側の分隊で砲に兵たちが群がっている。発射の反動で右脚が曲がっているのが分かった。

「観測機より連絡あり」

 2回目の修正砲撃が行われたかと思うと、

「有効弾の報有り」

 という連絡があった。効力射である。これより全力で敵に弾を注がなければならない。この頃になるとソ連側もこちらに砲弾を叩き込んでいた。

「ひゅーって音だと遠弾になる。ごぉーって音だと気をつけろ。砲弾がこっちを狙っている音だ」

 古参の下士官から聞いた話であったが、私は思わず目をつぶり手で耳をふさぎ口を開けたが、陣地は無事なようである。いや砲弾は陣地近くに降り注ぎ次々と弾痕が増えていっていた。しかし、事前の陣地構築の際に東久邇ひがしくに 盛厚もりひろ中隊長とその側近の貫名少佐の指示で、従来の2倍の厚さの土が盛られていたのである。

「観測機より連絡。目標沈黙。次の目標を指示しています」

 どよめきが一瞬起こったかと思うと、またたくまに次の射撃のために砲の準備を行う兵たち。この日1日、3門の砲(1門故障中)は350発の15センチ榴弾をハルハ川左岸に送り込んだ。無力化した敵陣地から次々とその隣の陣地を狙う。左から右へ。その間、地上の観測所からの連絡も自身が目標となり次第に激しくなる敵砲撃によって途切れることもあり、上空の観測機はその隙間を埋めるために十分に役立ってくれた。

「撃ち方止め」

 中隊長の言葉に、腰を抜かすくらいへとへととなって座り込んで見上げた夕暮れの空に、2機の小さな観測機が頼もしく思えた。





「納得できません」


 入江元連隊長の転勤命令に東久邇 盛厚中尉はいつもの冷静さが失われ思わずかみつく。定期転勤ならば確かに受け取っていたが、もうしばらくあったはずだ。苦労している兵たちを置いていくことはできない。

 側近の貫名少佐が口をはさむ。


「あなたを死なせるわけにはいきません」

「しかし…」

「分かってくれ。もし貴官が亡くなったとしたら、単なる国境紛争ではなくなる」


 連隊長の言葉にはっとする。日本側はこの戦いを『国境紛争』、つまり戦争ではないというスタンスである。だから部隊の派遣は最小限とされ、ソ連側の最大物資集積所であるタムスクへの航空機攻撃は計画実施寸前で止められたのである。


「ハルハ川を越える航空戦は、これを禁止する」


 最初は優勢にも思われた日本側の砲撃であったが、次の日より前日に増したソ連側の砲撃であり、そして戦車による日本軍砲陣地への蹂躙である。中にはその15センチ榴弾砲でソ連戦車を直接射撃で沈黙させたこともあった。いわゆる零距離射撃でも日本軍砲兵の練度を見せつけた。そして36門あった第一野戦重砲連隊の榴弾砲も故障や戦闘被害のため次第に減り、砲弾の補給もままならず、兵らの損害も目をふさぎたい状態となっていた。

 4機あった観測機も敵機や地上からの対空砲火のために残機は1。臨時の戦地基地展開後1週間もないうちに被害は瞬く間に広がった。


「貴官の生死は、後に続く万単位の兵の生死を決める」


 ここまで言われては、何も言えなくなった。

 この戦いで連隊長クラスの死者、負傷者もあり、大隊長・中隊長クラスになると何度変わったか分からない。そんな中で敵の直接の攻撃を受けた重砲陣地にいつまでも重要人物を置くことは危険である。


 こうして、東久邇 盛厚中尉は唯一残っていた叭号観測機の乗客として後方へと運ばれたのである。

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