第9話『叭(パ)号観測機』(その1)

 

 何にも増して,空を飛ぶ感覚は,

 すべての神経を最大限にまで張り詰めさせる胸の高鳴りと混じり合った完全な平安である

                        ウィルバー・ライト



 ルソン島のジャングルの中は、昼間でもそのうっそうとした重なる葉に夕方よりはまし程度の明るさを保っていた。下草が邪魔であるが先頭の兵を交代しつつ前へと進んだ。以前は汗がだらだらと流れていた体が、その汗も今日になってほとんど流れなくなった。たぶん体の水分はもう流れることを忘れるくらい無くなっているのだろう。補水するポイントが分からない今、水筒に半分ほどの水は使う機会を失っていた。

 このジャングルに「逃げ込んで」もう3日、なかなか敵を迎え撃つための陣地を構築する場所も友軍も探せないでいた。時折、米軍機が中高度を飛ぶ。その度に歩みを止めて葉陰にじっとする時間を過ごしていた。そして次に低空度を飛ぶ米軍機。これは危険だ。完全にこちらを探している。葉の重なりを無視してこちらを探っている。ゆっくりとした動きに反応するのはこちらの場所を知らせてしまう可能性が大きい。


「動くな、動くなよ」


 と、私に従っている兵たちに理解させる。理解させなけれはならない。そして兵たちもそれを理解していた。反応したとたん、次に来るのはどこから撃たれているのかわからない長距離の砲撃か、爆弾やロケット砲を抱えた戦闘機や爆撃機だ。一度その攻撃を受けたが、過剰反応である。たった50名あまりの小隊に、どれだけの砲撃が加えられたものか…。たぶんこちらを大隊規模と考えたろうかという爆弾とロケット砲の嵐であった。敵機の規模は10数機、耳をその手でふさぎ口を開けて攻撃が鳴り終わるのを待つしかなかった。しかもその攻撃したロケット弾のほとんどはジャングルの上空を覆う葉に早発してしまい、我々に効果的な攻撃をなすことができないでいた。

 そして敵が上陸して10日余り、味方の飛行機を見る機会はない。

 軽い爆音がジャングルに響く。例の低空偵察機のエンジン音だ。兵たちはこちらの指示の前に木陰や叢に素早く身体を任せる。そしてしばらく


「おい」


と誰かが声を上げる。そこには恐怖や不安ではなく歓喜の響きがあった。

 ふと見上げる飛行機の翼に日の丸が…確かに明灰色にフチなしの小さな赤く丸いマークが見えた。


「友軍機?」


各々が頭を上げ、体を起こしその機体の日の丸に見入っていた。米軍と同じ飛行機に見える。例の飛行機とそっくりだ。しかし、間違いなく日の丸が見える。間違いなく…


「万歳」


 どことなく声がした。止めるべき機会を失った自分がいた。声の主は誰でもいい。その声は次第に重なりそして自分自身も知らず声を重ねていた。10数日ぶりに友軍機を見た。それは小隊の士気を挙げた。もちろんその後に湧き水を見つけたこともあったが…敵がたとえ100機あってもたった一機の友軍の存在は、我々をまた一歩前進させるだけの効果があった。





 その日、野沢航空研究所の小さな事務所はあたふたとしていた。


「陸軍からの依頼?」


「とりあえず5機だ。場合によってはそれ以上」


「なんでまたうちの会社に…」


「カブだ。バイパー社の。それを欲しいそうだ」


「そりゃ、うちに発注するわけだ」



 野沢航空研究所は、野沢商店の下部組織として昨年できたばかりの会社だ。野沢商店はアメリカからの高級食品を中心とした輸入商会の老舗であり昭和10年代からは、食品以外の輸入品を狙っていた。その一つが航空機である。野沢商店はバイパーカブを輸入して販売を始めていた。そして野沢航空研究所はそのカブをもとに国産機を開発しつつあった。


 日本の二大航空機メーカーである中島飛行機、そして三菱航空機は第一次大戦以降、それぞれがイギリス、ドイツやフランスを中心にその技術を導入していたが、1930年代からその技術的向上はアメリカに移りつつあり、特にその国土の広さから民間機で顕著であった。そして世界恐慌が一段落した現状、雨後の筍のごとくアメリカでは大小の飛行機会社が産声を上げていた。(ちなみにその頃の日本では自動車会社が数を増やしていた)その中で日本はドイツ、フランスだけでなく様々なアメリカ製の機体も参考のために購入し、機体構造設計上の参考としていた。ちなみに、アメリカから導入した民間機は双発機だけでも

 ダグラスDC-2、

 ダグラスDC-3(後に零式輸送機として国産される)、

 ロッキード10エレクトラ、

 ロッキード14GW3スーパー・エクストラ(ロ式輸送機、一式貨物輸送機の原型)

 などを上げられる。

(なぜかダグラスのライバルであるボーイング社のものは輸入されていないが、中島飛行機の記録によると、AТ‐2輸送機を設計する際に

「設計に当たってはDC-2やボーイング247、ノースロップ2E、クラーク GA-43の機体構造が大いに取り入れられていた。」

とあるので、もしかすると輸入されたかも)


 大型である双発機でさえそうであるのだから、単発機では数えるのもうんざりするくらいである。軍用機ではあるが、有名どころでは、

 セバスキー2PA-B3…どこをどう騙されたのか、20機(一説には25機)も一気に購入した。日本海軍に「セバスキー陸上複座戦闘機」として正式にA8V1の形式名(ちなみにA9が零戦である)を与えられ期待されて大陸に配備されたが、能力不足ですぐさま陸上偵察機・訓練機に変更されたかわいそうな機体。

 チャンス・ヴォートV―143…アメリカでは零式艦上戦闘機が当機のコピーであるという主張が広められたためにマイナーな存在であったこの機体は有名となっている。(さすがアメリカ絶対中心国家 笑)現在ではその主張は論破されているが今でもそれを信じているアメリカ人は未だ多い。なお、引き込み式主脚の構造やその他の艤装関連は、零式艦上戦闘機、九七式艦上攻撃機、一式戦闘機の設計に影響を与えたとされている。

 ノースアメリカンNA-16…ノースアメリカン社といえば日本では「P-51マスタング戦闘機」が有名であるが、もう一つ有名な機体が「T-6テキサン練習機」であり西世界的に練習機として多数使われていたものである。そのT-6テキサン(NA-26)の改修前機体がNA-16である。一番の違いは固定脚であるが、この機体をもとに日本海軍は渡辺鉄工所(後の九州飛行機)に二式陸上中間練習機を生産させた。ただし、安定性、操縦性、実用性が劣るために初歩訓練機とは使えず、中間訓練機としては実用機との能力格差が広がっていたために量産数は200機を越すことがなかったかわいそうな機体。



 野沢商店は、とりあえずアメリカのバイパー社に向けて10機を発注した。


「一か月以内に発送してくれ」


 と、そのころちょうど商談のために渡米していた社長のケツを蹴とばす勢いで野沢航空研究所は連絡を何度もとった。電報文ということもあって、少なくともそこには敬意は見られなかった。


「確か俺って社長だよね?」


「寝言は発注が終わった後に言ってください」


渡米についていった秘書と通訳は冷たかった。

 後年、『野沢商会社史(秘話編)』には


『陸軍の要請を電報で受け取った野沢社長は、数舜戸惑ったかと思うと

「すぐにバイパー社に行くぞ。アポイントを取ってくれ」

 と秘書に静かに伝えた。秘書は矢のように部屋を飛び出し、通訳だけが残った中で

「一か月だ。それが我が社を変える」

 とつぶやいた。その後、しばらくして戻ってきた秘書に

「研究所に連絡しろ。バイパー社の機体の改修準備だ。陸軍の要望にはなるべく応えなければならない」

 そこには何かを決めた男の姿があった。二代目社長と周囲が揶揄する中で、この決断こそがこの商会の躍進の一歩を歩み始めた。』


 と記されている。


「なんでバイパーなんだ?」


「社長、必要なものを必要な人に渡すのが我が社の役割です。理由なんて後からついてきます」


「確か俺って社長だよね?」


「はい。だからしっかりと仕事してください」


 バイパー社は大喜びで


「アメリカ陸軍よりも日本陸軍がこの機体の価値を知っている」


と、他の発注を飛ばし、現在組み立てている機体を流用する機体もあり、残業に残業を重ねて3週間後には再度輸送用にばらばらにした完成機体10機分を日本向けの輸送船に詰め込んだ。


「これで私の仕事は終わったよね?」


「とりあえず帰国する間に、今後の検討です」


「確かに…このまま終わってくれるはずはないよなぁ」


「帰国したら、楽しみですね」


「なんか私を脅してない?ね、ね」


 陸軍の発注から一か月半、5機のバイパー・カブはその黄色い機体を所沢飛行場に並べた。納入時期はずれ込んだが、野沢航空研究所は発注2週間後には野沢商会所有の一機と発注後に組み立てられるはずの機体一機が納入されていたために今日まで待ったのである。すでに納入された機体をもとに、野沢航空研究所の職員総出状態で、士官・下士官・兵への飛行機への搭乗・整備訓練がなされていた。この時点でカブでの単独飛行が許されている者は操縦が簡単なカブでもすでに5名いた。


 この一か月半余りの野沢商会・野沢航空研究所の怒涛のような活動は特記に値する。

 発注1週間後に所有の機体一機を納入し、依頼されていた担当中隊(重砲連隊・気球連隊などから抽出された特別中隊)全体に説明、上級将校、パイロット候補者など30名以上を各々同乗、くたくたな状態でも機体整備・エンジン整備のポイントを解説。睡眠時間6時間。

 発注2週間で分解保管していた一機を組み立て・整備の上、予備エンジンとともに納入。パイロット育成、エンジン整備員育成を並行で行う。首脳陣への恨みの言葉が多くなる。睡眠時間4時間。。

 発注1か月、アメリカより届いた機体を組み立てつつ、パイロット育成、整備員育成を行いつつマニュアルの作成。ゾンビ状態。睡眠時間0~2時間。。。

 社長が帰国した時、従業員らのそれを睨む目つきの悪さは最高潮に達していたのは言うまでもない。


「いや、社長が悪いわけではないですよ」


「そうそう。忙しかったのは納入期間の短さだったからだよ」


「って、陸軍相手に言えますか?社長」


「いやいや、言っていいことと悪いことがあるからね。」


 パイパーJ-3カブは、素直な操縦性で特に低速での安定性が良く、短距離での飛行性能に優れているように設計された。本来は練習機として人気を博したが、次第にその操縦の安定感から二人乗りの民間機として短距離の移動や遊覧飛行のために活用され、パイパー社は

「1938年にアメリカで販売された民間機の内、3分の1がカブであった」

 と吹聴していたが、少なくとも4分1はカブであったろう、そのくらい人気であった。

 その理由はもちろん特殊な操縦をしない限り、その安定性、操縦の易しさにあった。低速での安定性は操縦での一番困難な着陸を容易なものとしていた。陸軍としても、その安定した操縦能力と低速での安定性に目をつけたのである。

 性能ももとより、陸軍として重視した項目の一つ、コストパフォーマンスが高いことにもある。カブは、

「もっとも基本的な複座機を可能な限りの低価格で提供する」

 ことを狙って設計されたものであり、その頃、小型機であってもモノコック・セミモノコック構造の全金属製機体が増えている中で、あえて木金混合構造に羽布張りの機体であった。そのためもあってこの機体は軽量で簡単に作ることができ、他の会社(セスナ社・フェアーチャイルド社など)の機体の3分の1~2分の1の値段であった。

 この値段は、満州事変以降、軍用費の増大、そして高騰の中でも、陸軍としてもコストパフォーマンスを考えると満足ができるものであった。


 ちなみに野沢商会でのカブの値段は

 7000円(もちろんエンジン付き)

であり、同時期のフォードのトラック一台半分であった。(これは日本での売り出し値段であり、アメリカからの輸送費や関税を考えるとアメリカでの購入価格は5000円程度であったかもしれない)自分の農場でさえ、日本の市町村単位であるアメリカで、ちょっとした見回りや移動につかうには足代わりとして十分に使える値段であった。

 これも「ちなみに」であるが、

 昭和16年秋頃の零戦21型の平均価格が15万6787円

 である。(もちろん機銃等艤装済の機体であるが、万一、現在オリジナルの栄エンジンのレストア済・飛行可能な零戦が売り出されれば20億を超えると言われている。運用費は1年数千万円…ジャンボ宝くじでもどうしようもない 泣)




 さて、バイパー社のカブであるが陸軍航空機に必要な「キ」番号がない。これは、この機体の調達に陸軍航空本部が関わっていないことを暗に示している。

 では、どこが?

 陸軍技術本部

である。



『叭パ号観測機』



 この日、陸軍の正式書類にとりあえず仮称ではあるがそう名付けられたのである。

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