第8話「99式自動貨車」(戦後、その血統)
戦後、
トヨタは、
「トラックはこれから日本を復興する際にも重要な道具である。トヨタはそれをつくって供給する責任がある。だ
からそのつもりで再出発しよう」
という赤井久義副社長のことばに再出発を目指した。
終戦間際の空襲による工場の部分停止(4分の1の損害)を受け、99式は甲型のみを製造することとなる。民間に売り出すため名称は「トヨタAK」。KC型トラック(戦時量産型をやめ、民間型の装備に直した)とともに次の車の開発までの2本柱とした。
戦前に様々なメーカーが、小型乗用車や小型トラック(500〜800cc程度、500kg積載)を売り出しかなりの台数(日産自動車のダットサンは12年には 8,353台生産されている)を生産・販売していたが、軍用車両でない民間小型自動車を生産していたため,14年以降生産用資材の調達が困難となり実質的に製造は中止状態となり生産ラインが閉じられた。
したがって、戦後すぐに小型トラック(という割には大きいが…)を用意できたのは「トヨタAK」だけであった。
一方、95式小型乗用車(通称くろがね4起)を開発した日本内燃機は、軽便輸送手段需要の激増を予想し、価格が安いオート三輪を生産する気でいた。他の小型車メーカー(ダイハツ、マツダや元飛行機会社など)も、まずはオート三輪を量産・販売し、戦後10年くらいはオート三輪が日本の陸運の主流でもあった。ただ、オート三輪は重心が高くなりやすく、コーナリングでブレーキをかけると左右どちらかの斜め前方に転倒しやすいという構造的な弱点を抱えており、特に昭和30年以降の全国的な舗装道路の広がりの中で、山道の曲道や交差点での右折・左折には横転の危険性のあるオート三輪は避けられ始めた。(都市部の末端の輸送については、その軽便性・細道への適応性もあり小型のオート三輪はかなり遅くまで使われていた)
一方、「トヨタAK」は(というより復員兵が『ヨタヨン』と呼ぶのでそれが通称とされていた)、軍からの放出品が大量に出され、その価格もオート三輪に比較しても数倍であることもあって販売が伸び悩んだ。幌屋根を金属のものにしたり、ドアを付けたり、価格を抑えるため4躯をやめ後輪駆動にしたり、よりパワフルにC型エンジンからB型エンジン(KC型トラックのエンジン)に載せ替えたり…とトヨタとしても改修を重ねていたが、販売は低調であった。その頃すでに500ccクラスや1000ccクラスの4輪乗用車や小型トラックの開発を始めていたこともあり首脳陣の大勢は、
「見切りを付けるべきでは?」
というものであった。
このころのトヨタは戦後の労働者減少(労働動員が解散となり故郷に帰ったり他社への移動により、工員数が4分の1程度になった)や、組合の労働争議(GHQの若手が共産党びいきなこともあって、日本の企業のほとんどはこのころ組合対策に頭を悩ます。ちなみにアメリカ本土ではその反動から『レッドパーシー』が起こり、共産党は違法となる)などのため、今からは考えられないくらい余裕がなかった。
その空気を吹き飛ばしたのは、
警察予備隊(現・陸上自衛隊)への納入をめざした競作(トヨタ・日産・三菱)であった。
開発陣は、これまでの鬱憤を果たす勢いで、13年からの研究成果を惜しみなくつぎ込んだ。その結果として、「BJ型」と称されるこの車は、外観はとりあえず内部は「AK」とは全く別の車となったのは皮肉である。
シャーシは戦後に開発された1000ccクラスのものの強化版、駆動関係は戦中に開発されたKCY型四輪駆動トラックの改良版、副変速機は無く、エンジンはB型(C型よりトルクが高いので悪路に強い)、車体関連は丙型を元に改善して新設計したもの。(フロントあたりのデザインはダッジ WCを参考にした)
結局、三菱が当時ノックダウン生産していたウイリス・ジープが採用された。(これについては、米軍との連携を考え、競作以前に決定していたという)
トヨタBJのほか、日産の4W60型も参加したが、二車とも民間販売の道を探した。
日産の4W60型は「パトロール(サファリ)」として、トヨタBJは「ランドクルーザー」として、日本国内は元より外国への輸出が次第に広がり
『壊れない日本車』
の神話を作っていったのである。さらに言えば、現在では外国の方が売上を上げている。
最後に3つほどエピソードを上げて、99式自動貨車の物語を終わりたい。
一つは有名な話であるが、トヨタBJは最初『トヨタジープBJ』の名称を使っていたが、三菱生産のウイリス・ジープ(ウィリス・オーバーランド (Willys) 社)が『ジープ』の商標を戦中より登録して所有していたため、トヨタは車名からジープの名前を外さざるを得ず、後に『ランドクルーザー』の名称を使い始めた。
二つには、AK10・トヨタAKを作り続けたトヨタに対するアメリカン・バンタム社からの特許裁判である。
今でも根強い
「日本の兵器は、全てアメリカのコピー」
である説。
そのころのアメリカン・バンタム社は小型4輪駆動軍用車を開発したものの、戦中の量産はアメリカおいては微々(3000台以内)たるもので(零細企業で陸軍の要請に応えられないだろうと判断されたとされているが、試作車の設計図をウィリスとフォードに公開した上で2次試作車を作らせたこともあり、政治力が働いたという噂もある)ウェポンキャリアであるダッジ WCの量産を命ぜられた。戦後、バンタム社は戦前の乗用車の改良型や、BRC-40の派生車を細々と営業を続けたが、伸び悩んでいた。
1ドルでも欲しいバンタム社が主導したのか、それとも仕事が欲しい弁護士がそそのかしたのかは分からないが、トヨタ相手にバンタム社は訴訟を起こした。
どうなったのか?
結局のところ、バンタム社は敗れたのであるが、これにはトヨタ側の戦前・戦中の設計・開発経過の反論資料だけでなく、この訴訟でトヨタ側が敗れた場合、ウィリスとフォードに対する訴訟が出される可能性もあるとする、両社からの陰ながらの支援の結果ともされている。
そしてバンタム社は、1950年代半ばに倒産、歴史から消えていった。4輪駆動小型車のパイオニアの寂しい最後である。
最後の一つは、復員兵たちの戦後の話である。
戦後、外地から復員した下士官・兵らは軍からの大量の放出トラックを利・活用し、様々な仕事に役立てていた。99式は大型トラックに比べて台数こそ少なかったが、すべての兵科で使われ慣れ親しまわれた存在であり、日本本土の道路事情にも合っていたこともあって、30年代になってもかなりの量が使われていた。
「こいつに命を救われた」
という人も多かった。買い替えに販売店は後継車である「ランドクルーザー」を勧めたが
「こんなでかい(贅沢な)車が使えるか」
とけんもほろろに断られていた。
「そんなこと言ったって、今どきの乗用車は、みんな同じくらいの大きさですよ?」
「うるせえ! 俺たちは、トラック乗りなんだから、トラックを持ってきやがれ」
そんなことをのたまう戦中世代が『終のクルマ』として好んで選びがちだったのは「ハイラックス」だった。
打倒ダットサントラック(日産)
を目指して、日野自動車と業務提携したトヨタが企画、設計は日野主導で行われたものである。すでに国内の道路事情は改善され、4躯は不必要な状況になってきたが顧客の要望に応える形で、3代目から4躯が導入された。ただ、ハイラックスはその後、戦中世代の減少に伴う形で国内の販売が振るわず(ハイエースが国内で売れ筋となった)国内販売が一時停止された。
しかし、道路事情の悪い海外の開発途上国やアメリカ人の(ピックアップトラック)好みに適していたこともあり、海外に生産拠点を移し、いわゆるグローバルカーとなったのである。(販売数だけならトヨタ2位)
その高い走破能力と耐久性・信頼性(わざと枯れた技術を用いた)、世界どこでも手に入る部品(これに対してはトヨタ販売網の手柄と言える)のためか、ハイラックス(と言うより99式の血統)はかつての働き場であった戦場に姿を表す。中東や南米、アフリカの紛争地には、政府側・反政府側ともにハイラックス(ランドクルーザーも含む)を’使っている映像が数多く残っている。そのため、トヨタは企業ぐるみの密輸が疑われ、また、中東のある国ではハイラックス自体が禁輸になったりする。
これこそ、歴史上の皮肉というべきものであった。
〜 終わり 〜
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