データの藻屑に散る母は、

えんがわなすび

卵型ポッド


白く煌々と照らす光が白い無機物に反射して、まるで打覆うちおおいのようだと思った。




機械の接続される電子音だけが響く静かな空間では、椅子を引いた音さえも悲鳴のようだ。地平線まで続いているような錯覚を覚える空間なら尚更だった。


四方八方見渡しても同じ形、同じ色の卵型のそれを前に腰を下ろす。動作が酷くゆっくりになってしまったのは、きっと当てがわれた椅子が質素な丸椅子で背もたれもなかったからだ。


「お母さん」


無機質な壁に隔たれて声は聞こえるのかと発してから躊躇したが、卵型ポッドの中に横たわる母は肉の薄くなった目を静かに開けてこちらを見た。


密度の減った白髪。皺の寄った顔。薄くなった唇を二、三度動かす。

規則正しく整列した白と勿忘草色をした卵の中からは何も聞こえなかった。分厚い壁に阻まれたのか、機械の接続される電子音にすら負けたのか。膜が張ったように濁った目からは光が消えてしまいそうだ。



大昔の誰かが言ったらしい。

"死んだとはいえ、愛する身内を焼くなんてできない"


死にゆく人といつまでも一緒に。教科書に書いてあったのは、確かそんなことじゃなかったか。何百年も前に息をするように常識として紛れ込んだそれについて、今更思考を巡らすこともない。



人は死ねば、データの藻屑になる。

ただそれだけだ。



人体情報化変換機。

死ぬ瞬間に人をデータへと換え、情報化して保存する。


政府が考えた名前は安易すぎる故に冷たい刃を向けられているようで、世間一般的には卵型ポッドが正しい。もしくは卵、あるいはポッド。

その中に横たわる彼女はスリープ状態を待つ人形のようだ。


「手続きしてきた」


古い時代の火葬や水葬からこれに代わって、人間は死というものに鈍感になった。どこかの時代の教授か誰かの言葉だ。私には分からない。


顔だけ僅かに動かした母の目元に数本の白髪がばらける。それを払うこともせず、ゆっくりと瞬く。



母の白髪姿が嫌いだった。


鴉の濡羽が灰になっていくようだった。

艶のないうねった糸屑のような汚いそれを視界に入れたくなくて、いつしかあまり顔を見なくなった。それでも母は髪を染めようとはしなかった。


いつだったか、一度聞いたことがある。


『髪、染めないの?』


『染めちゃうと、ずっと染めなきゃいけないでしょ?それが面倒なの』


『でも、黒と白が混ざってるの気持ち悪くない?』


『今はそうでも、そのうち全部白くなるから』


それを待ってるの。そう言った彼女は、笑っていたんだろうか。



「あのさ…」


僅かな電子音とスライドする音が響き、言葉と共に出しかけた手を火傷を庇うように引っ込める。

何故引っ込めたのか、何故手を伸ばそうとしたのか分からないまま音のした方に目を向けると、一組の男女がここの職員に連れられて入ってくるところだった。

女の方がこちらに気づき、首が僅かに上下する。会釈されているのだと思い、同じ動きを返した。


三人は大量にある卵の中から一つに近づき一言二言話す素振りを見せ、職員だけが去っていく。

あの中にも横たわっているものがあるのだろう。


数え切れないほどの卵は、口を開けているものと閉じているものが混ざっている。



以前ここの見学に来た時、一人の職員がポリバケツから残飯を投げ棄てるかのように事故死したのであろう人のパーツを卵に食わせているところを見たのを思い出す。緑一色の制服に身を包んだ彼は、さながら餌をやりに来た動物園の職員のようだった。

母が、ああでなくて良かったと思った。



こつり、と電子音に負けそうな音が聞こえた気がして視線を戻すと、母がしわくちゃの手を卵の内壁に当てていた。握ろうとしているのか開こうとしているのか曖昧なままの手は力なく壁にもたれたまま動きを止めている。


体を動かせる力がまだあったのか。一番に思ったのはそんなことだった。


「どうしたの」


聞いてみても、母はこちらに視線を合わせたまま何も言わない。

けれど、その表情が先程よりも笑みを浮かべているような気がして。

こんなに母の顔を見たのはいつぶりだろうか。



何に対しても笑っているような人だった。


いくつになっても自分は若いんだと、目一杯お洒落して歩くような人だ。

年に何回も旅行に行っていたし、そのたびに大量のお土産を買ってきては喜んでいた。一時期買いすぎて、その次の旅行ではお土産禁止令が出されたんだった。彼女は少女のように頬を膨らませていたが笑っていた。


『またこんなに買ってきて!お菓子ばっかり増えていくんだから買わなくていいって言ったのに!』


『でも、美味しそうだったし…。そんなこと言って、いつも一緒に食べてくれるじゃない』


『いつまでも置いておくはめになるから処理してるの』


『でもほら。いちご大福も買ってきたの。好きでしょう?』


『…。また喉詰まらせるんだから、お茶と一緒に食べてよ』


あの時は淹れたお茶が熱すぎて、大福を食べる前に二人して火傷したんだった。

大量にあったお菓子はどうなったんだっけ。



横たわる彼女を見る。

お気に入りだと言っていた淡いピンクのワンピースは皺一つない。着せてくれたのはここに入る前にいた病院のスタッフだろうか。


卵の中のものは全て情報化される。

いつまでも保存されるが故に、好きだったものや覚えていてほしいものを入れることを政府は推奨した。母が選んだのはピンクのワンピース一着だった。



ピピッ プシュ――…


三つ左隣の卵が電子音を吐き出して開く。周囲が無人のそれはいつの間にか”処理”を完了させたようだ。死ぬのではない。データの藻屑へと旅立つのだ。

だだっ広い空間が先程から私と一組の男女だけしかいないように、ここには誰に看取られることもなく保存される人も少なくはない。この前のポリバケツの人だってそうだ。人間は死というものに鈍感になった。


母を見やる。

膜が張ったように濁った目が見返している。

その口がまた僅かに動いていた。


「なに?聞こえないよ」


卵に近づいてみるも、小さすぎるのか最初から音になっていないのか、母の声は聞こえない。伝わらないそれに目を細める。



ふと、いつだったか料理を教えてもらっている時のことが脳裏を過った。

時間や予定に対してはきっちりしていた彼女は、料理にだけは大雑把だった。


『…で、あとは醤油を入れて十五分煮込む』


『え、待って、醤油どれくらい入れたの』


『ええと、こう…三周くらい回しかける感じ?』


『全然伝わらないから。大匙二杯?三杯?』


『えぇ…?そんなので入れたことないから分からないわ』


『適当すぎでしょ』


『でも、ちゃんと出来てるでしょう?じゃあ、今度作るまでにどれくらいかって、計っておくわね』


適当な筈でも、母の料理は美味しかった。自分で作る料理は、適当じゃなくても母の味にはならなかった。

結局、あれから教えてもらっていない。



「お母さん」


膜が張ったように濁った目が見返している。口が動く。


「お母さん。ねぇ」


伝わらない。

伝わらないのだ。


ガタンと大きな音が響いて、それが立ち上がって椅子を倒した自分が出した音だと気づかなかった。広い空間にこだまするように音の波が揺れる。

上から覗き込むような体勢になり、卵に縋りつく。彼女は酷く小さく見えた。


言葉になろうとしたものが喉に張り付いて消える。口を開けても閉じても音は出ない。分厚い壁についた指が無意識に力を入れていて白くなっている。


何を言おうとしているのだろう。

何を伝えたいのだろう。

膜が張ったように視界が濁って見えない。


"人間は死というものに鈍感になった"

私には解らない。



一瞬クリアになった世界で、母の口元がよく見えた。


『―――』


見間違いかもしれない。都合のいい解釈だったかもしれない。読心術なんてものはない。



けれど確かにそれは、私の名前を言っていた。



「お母さんっ、私――」

瞬きの合間に、母は消えた。


次のデータを求めるように、卵が静かに口を開けた。





【了】

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