あのひと
西しまこ
第1話
母は美しいひとだった。
色白で、真っ黒な長い髪を一つに結わえているだけの髪型。化粧は薄化粧。それでも美しい、その
自慢の母だった。
参観日は、母と目が合い、手を振るだけで気持ちが高揚した。「僕のお母さん、きれいでしょう!」とみんないに言いふらしたいような、誇らしさ。
いつ、この思いが罪悪感を伴うようになったのだろう?
夏に、袖ぐりから柔らかな膨らみを見てしまったとき?
髪を上げたときの首筋から目を離せなかったとき?
――分からない。
僕は罪悪感を払拭するため、恋人を作った。ある期間つきあって、別れる、の繰り返し。
僕は彼女たちが望むものを、いつもあげることが出来た。彼女たちが何を望んでいるか見極め、そのようにふるまった。僕はよい恋人でいられたと思う。完璧に。ちゃんと好きにもなった。
でも、僕自身は何も満たされなかった。彼女たちがいくら愛してくれても、僕のこころには欠陥があって、愛の水はどんどん流れ落ちていってしまった。悲しかった。
僕を満たすことが出来るのはあのひとだけ。
これは許されない恋。
分かっている。
だから、僕は一生、この思いを秘めて生きていく。一生、だ。
必要なときにしか会わない。声も聞かない。
――今日、久しぶりに会って、眩暈がしそうだった。
「昔はすごくお母さん子だったのよ? 旭は。中学生くらいから、ぜんぜんしゃべらなくなっちゃって」
母がにこやかにそう言うのを聞いて、僕は心臓が痛くなった。
母はもちろん歳をとった。それでもなお、美しい。……苦しい。
「旭さん、よくしゃべりますよ? それにやさしいです」
僕の婚約者の曜子は少し頬を染めながら、言う。僕たちは今日僕の両親に結婚を決めたことを報告しに来ていたのだ。僕の父も母も、曜子を気に入った。当然だ。気に入るような子とつきあったのだから。
「じゃあ、僕たち、もうそろそろ帰るね」
「ごはん、食べて行かないの? 旭が好きな豚の角煮、作ってあるのよ」
「いや、いいよ」
戸惑う曜子を連れて、玄関に向かう。これ以上いっしょにいるのは耐えられない。
恋しくて――豚の角煮なんて食べたら、泣き出してしまいそうだ。
心も躰も、恋しく思っている。
「旭くん、ありがとう」
「え?」
「わたしのために、早く帰ってくれたんでしょう?」
「ああ」
美しい誤解はそのままにしておこう。
一生、僕は母が嫌いなふりをする。
了
一話完結です。
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☆これまでのショートショート☆
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あのひと 西しまこ @nishi-shima
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