第7話 薔薇のハンカチ
王家と神殿の間がきなくさいことになっていると神官達の間で噂になる頃には、鈍いことに定評のある胡桃でも流石に何が起こっているのか気になった。
胡桃はまずソフィアに情報収集を命じた。ソフィアはいずれ聞かれるだろうと確信しており、実家の力をかりてまとめた報告書を差し出す。が、この世界に来て五年になる胡桃でも、文字が違うために報告書の細かい部分が分からない。結局は口頭で説明を受けることになった。
「簡単な概要だけお願いします」
聖女なのにこの世界の文字も使いこなせないと恥じてうつむく胡桃。ソフィアは胡桃に盲目なので自分の仕える主人はなんて控えめで可愛いのだろうと思うだけだ。
「概要ですね。分かりました。まあ、結局のところ単純な話なんですけど……」
そこでソフィアはゴホン、と一つ咳をして喉の調子を整えた。
「この数年、胡桃様は聖女として活躍なさいましたでしょう? それで庶民からの人気が絶大なんです。今私達が所属している神殿はその恩恵を受けてウハウハです。……身体張ってる聖女よりお布施だの差し入れだの受け取ってるのは本当納得いかないわ。ああ、失礼話が逸れました。それで……以前胡桃様が王太子マルシオ様を治療なさいましたでしょう? あの件で聖女はやはり王家の手元に置くべきと思う王族やら貴族やらが増えたようで。それで一年前より王家に戻せという話が出ているんです。ちょうどその頃はミゲル……大神官様も女のところで遊びまくってましたからね。神殿が強く拒否できないところに、マルシオ様が勝手に二人ほど神官をクビにしたものですから、それまで良好だった神殿と王家の関係にヒビが入ったのはこの時でしょうね。でも私、あの二人は前から患者の苦情が絶えなかったし妥当だと思ってるんですよねえ。ええと、それで胡桃様のお陰で儲かってた神殿の人達は、聖女に出て行かれることで生活レベルを下げたくないと必死になりますよね。とまあ、そういう事情です」
胡桃は少し考えたすえに、言った。
「それ私の意思はどこにあるの……」
「そこになければないですね。いや本当に。ないんです。上の連中が聖女の能力ほしくて好き勝手やってるだけです。こっちはほぼ巻き込まれただけですよ」
胡桃は項垂れた。こんなの貰い事故みたいなものじゃないか。聖女らしくないって言われたから必死で聖女らしい行動をしていたのに、どうして今度はそれが原因で二大勢力が揉めるのか。自分はただ、聖女らしくしながら生きて、死にたいだけなのに。
「ソフィア……このままではいられないの? 今まで通り、聖女らしい行動をしたままでは……」
ソフィアは黙って首を振った。
「残念ながら……。はっきり言わせてもらいますと、胡桃様が所属先を明言しない限り王家と神殿は争いますよ。後世には二大勢力を誑かした悪女みたいに言われるかもしれませんね。というか既に面白おかしくそう言ってる人達がいます」
「悪女……」
心外だ。良い人だと思われるように必死で毎日治療していたのに。ただただ後世に『最初はアレだったけど最後はまともな聖女』 と思われるように頑張っただけなのに。これじゃ本末転倒というか、何もかも台無しだ。
「ソフィア、私どうしたら……」
困惑する胡桃に、ソフィアは全てをさとったような、諦めたような顔をして言った。
「クズ対クズの頂上決戦です」
「なんて?」
「少しでもまともなほうのクズ……王家か神殿かどちらかを選んでください。選べば世間の無責任な噂は静まりますし、王家も神殿も対立する理由が無くなります。まあ胡桃様にとってはクズしかない選択肢なんですけど。クズしかいないの侍女にとってもつらすぎるんですけど。大神官も王太子も貴方様にやらかしたことがクズすぎるんですけど」
「ソフィア……そのクズ言うのやめなさい。どちらも高貴な方なんだから……」
暴走するソフィアを前にすると胡桃はむしろ落ち着いた。落ち着くと、これからのことを考えて頭が痛くなる。
何も考えたくなかったから聖女の仕事に没頭していたのに。ついに自分で選択する時が来てしまった。まだ19なのに、これからの人生を左右する選択をしなければならないなんて。
いや、嘆いても仕方ない。ソフィアの未来もかかっている。自分はともかく、これまで尽くしてくれたソフィアには幸せになってもらいたい。そうすると……どちらがマシなのだろう?
「あの、ソフィア、私この世界をまだよく分かっていなくて、こんな質問をするのは恥ずかしいのだけれど……」
「そんな他人行儀はやめてください。何でも聞いてください胡桃様、そのために私はここにいるんですから」
「ありがとう。それで、あの……どちらに帰属したほうが世間の反発は少ないか、分かる?」
ソフィアはそれを聞く意図が分かった。より他の人に迷惑がかからないほうはどちらか考えたのだろう。もっと自分の意思を出してもいいのに。そう考えながらソフィアは答えた。分かりきった答えだった。
「それは王家ですよ。だって今までの聖女は皆王族の方と結婚されていますから。そもそも神殿所属の聖女なんて聞いたことがありません。神殿を選んだら必然的に世間の反発と戦うことになるでしょうね」
「……そう、王家のほうが」
胡桃の気持ちが大きく揺らいだのが分かった。一応神殿で生活している身として、最低限のフォローは入れる。
「でも、胡桃様が大神官様と一緒に居たいと仰るのでしたら、反発なんて大した問題ではありません。王家だって聖女には恩があるんですから、貴方様が望めば最終的には力になってくれるでしょう。それに何といっても長年暮らしていたのはここなのですから。実績だってあるんですから」
ソフィアの言葉に胡桃は困ったような顔をして言った。
「逆に言えば私が大神官様を好いていなかったら無理ってことね」
その言葉でソフィアには分かってしまった。
ああ、もう心は決まっているのだなと。
ソフィアは胡桃はもうミゲルのことなど嫌いなのだろうと解釈したが、胡桃はミゲルに未練があった。それでもミゲルを選べないのは、世間の反発と戦えるくらいの愛情が残っているかと言われれば、否だったからだ。かといってマルシオが好きなのかと言われれば違う。どっちも同じくらいの愛情しかないなら面倒くさくないほうがいい、それだけだった。そんな判断する自分を、胡桃はまた嫌いになった。
神殿を出る日をマルシオに手紙の中で伝えた。彼は応援をよこすというので有り難くその言葉に甘えることにした。
出て行く時は着の身着のままで出ることになりそうだ。持ち物を整理しなければならない。ここで得たものは全部ここに置いていこう。
得たもの。ふと思う。ここを出れば二度と神殿には戻れないだろう。長年暮らしていた場所を、世話になった場所をあっさり捨てるのだから。物だけでなく、未練も綺麗さっぱり置いて行かなければ。ミゲルへの気持ちも、全て。
『さよなら、初恋』
日記の最後のページにはそう書いた。そしてソフィアに日記を燃やすよう命じる。取っておかれて後代に好き勝手解釈されるのも面倒だ。
◇
ある休日のミサにて、聖女は神殿を出て王家に行くと宣言した。民衆はそれじゃあ治療はどうなるのか、これまで通りしてくれないのか、ただでさえ最近は前ほど多くを診なくなったのにと詰り、神官達は今の聖女は大変疲れていると言って発言を有耶無耶にしようとした。それがかえって胡桃の決意を固くさせた。
「今までが異常だったのです。だって神殿にいる聖女なんて聞いた事もないでしょう? 私はあるべきところに戻ります」
前々から打ち合わせしていたことだったのか、聖女がそう言うと神殿の入り口にはいつの間にか王家の使者が列をなして待っていた。これくらい強行しないとここから出られないとソフィアの提案だ。
ミゲルがいないミサの時に行われたのも狙ってのことだったのだろう。アレホは聖女とソフィアが神殿から出て行く姿を、深々と礼をしながら見送った。
王宮で出迎えたマルシオは胡桃が自分を選んだことを喜んだが、その胡桃が開口一番「マルシオ様のこと、良いお友達以上の感情はまだありませんが、それでも構いませんか?」 と言われて浮上した気持ちが一気に沈下した。
だがすぐ持ち直す。良いお友達くらいには思われてる。これから進展する可能性は大いにある。過去は取り消せないけど、これからの行動で胡桃への気持ちを証明していきたい。
「構わない……というか、こちらがどうこう言える立場ではないから」
「……ごめんなさい」
何となく、王宮に来たくて来た、という雰囲気ではないように見えた。ミゲルに任せておけなくて王宮に来るよう強硬に主張したし行動したけれど、もし彼女の心がミゲルにあるのなら、歴代の慣例に畏怖するあまりこちらに来てしまったんだとしたら……。
「もし、神殿に戻りたくなったらいつでも言ってほしい。僕は、君の気持ちを大事にしたいと思ってるから」
マルシオのその言葉に胡桃はクスリと笑った。
「酷いじゃないですか。もう私を追い出すことを考えてるんですか?」
「え!? いやそうでなく……」
「冗談です。……マルシオ様、まだこの世界に疎い私だけれど、人並みになれるように頑張りますから、人並みに好意を持ってくれると嬉しいです」
ソフィアは聖女の侍女として傍にいるのでその言葉を聞いていた。
相手の愛情を大して期待していない台詞だ。胡桃のトラウマは深い。
マルシオにはせいぜい頑張ってほしいものだ。胡桃の運命を狂わせたのは彼自身なのだから。
胡桃がマルシオ、というか王家を選んだ以上、ソフィアは王家に何かすることはない。神殿を選んでいたら色々当てこすっていたかもしれないが。
しかし王家を選んだのだから、ソフィアの鬱屈した不満は全て神殿の、特に大神官ミゲルに向かった。理不尽だと自分でも思いつつ、それでも最愛の主人がやられっぱなしなのは許せなかった。負けたほうに全ての不満をぶつけようと思っていた。神殿で苛められた経験が追い打ちをかけるようなやり方に疑問を抱かせなかった。
◇
ある日の、王宮でも神殿でもない場所。そこでソフィアとミゲルは相対していた。
「用とはなんだ? 胡桃様のことなのか?」
そういえば初めて名前で呼ぶの聞いたな、とソフィアは思う。ソフィアが神殿入りした時には既にミゲルは留守がちだったのでろくに関わりがなかったが、それでも付き合っている女性にするべきではない態度をしていたことはよく覚えている。胡桃がどっちを選んでいても、一番ムカついたのは冷遇を間近で感じていたこいつかもしれない。だからこれをようやく活用できる日がきて万々歳だった。
「大神官様にこれをお返ししようと思って」
ソフィアが差し出したのは、黄色い薔薇の刺繍が施されたハンカチだった。差し出されたミゲルは、こいつ俺に気があったのか? と不愉快そうな顔をした。
「勘違いなさらないでください。私が縫ったのではありません。聖女様ですよ」
それを聞いたミゲルは酷く驚いていた。胡桃が? これを? 一体いつ? 動揺しながら手に取る。売りものよりは拙い刺繍。だが胡桃が縫ったのだと思うとたまらなく切なくなった。
どういう意味があってこれを自分に渡すのか、という表情のミゲルにソフィアはふふんと口元で笑って、嘘にならない程度に色々脚色して話す。
「聖女様はこれを貴方に渡す日を楽しみにしておられました。が、渡す前に貴方が他の女性と遊んでいるという噂が耳に入ってしまいまして。自分は好かれていなかったのだと分かったら渡せないでしょう? 貰うほうだって重いだけでしょうし。自分で所有しているのもつらそうなご様子でしたので、私がお預かりしておりました。でも聖女様は先日マルシオ様とご結婚されたでしょう? 前の男を想って刺繍した品なんてとっておけないじゃないですか。それで私がお返ししに来たのです。黄色い薔薇の刺繍がされた品なんて、貴方の元以外に行けませんもの」
ミゲルは受け取る以外の選択肢はなかった。
足元に力が入らない様子で去っていくその後ろ姿を、ソフィアはざまあみろという気持ちで見送った。
幸せになれたかもしれない可能性に縋って一生生きていけばいいんだわ、あの冷遇男。私の主人の自己肯定感滅茶苦茶にした罪は重いんだから。にしても胡桃様が王家に行くのを止めるでもなく見逃したようにも思えるけど、なんだかんだ言って王家が怖いのかしら。まあ若造だしね。
◇
神殿に戻ると、早速ハンカチを広げる。漂う香りは侍女の趣味なのだろうか。良い匂いなのが微妙に腹が立つ。余計なことするな。
刺繍はよく出来てた。素人の作にしては立派だから、相当気持ちがこめられているのだろうと思われた。
この刺繍をしていた頃の聖女は、まだ自分を想っていた。
自分を好きだった頃に縫われたもの。
その事実に、胸が締め付けられる思いがした。
けど彼女を取り返そうとは思わなかった。
過去、復縁を求める人間に自分は何をしたか。
聖女の件で自分を見つめ直し、謝罪しに行こうと実の家族のもとに向かったら、全員流行り病であっけなく死んでいたことを知った。聖女を頼るという選択肢もあったのに、自分達にその資格はないと拒んだらしい。墓標の前で彼らの名を呼びかけたが、応えるものはなかった。
自分に追い出されるように出て行った元大神官にも会いに行った。急に暇になった元大神官は瞬く間に老いて認知症になったらしい。自分が誰なのかも分かっていなかった。貴方から聞きたいことが沢山あったのに、学びたかったのにと訴えるミゲルを孫でも相手するかのように頭を撫でて「そんなに思い煩うことはないんだよ、この世はなるようにしかならないのだから……」 と言う元大神官。涙が零れた。
不幸は一気に押し寄せると抵抗する気持ちがなくなるのだな、とぼんやり思った。
そして今度は以前の胡桃のようにミゲルは大神官の仕事に没頭した。
――奇遇にも、ミゲルが元大神官に会った後、数日の間を置いてマルシオが元大神官の棲む屋敷に訪れていた。自分の手の者を使ってミゲルと元大神官のやり取りのことは調べさせていた。立場の割に訳の分からぬことばかり言っていたと聞いて安心して元大神官に会いに行く。もちろん胡桃には別の用事で出かけると言って。
もとをただせば、自分のせいでその地位を下ろされた方だ。生きているうちに謝っておきたかった。……でも、罵倒されるのが怖いから呆けているならそのほうがむしろ有り難い。そういう気持ちもマルシオにはあった。
しかしマルシオが元大神官に会った時、運命の皮肉なのか彼は中治り現象を起こしていて、一時的に正気であった。
「大神官殿……あえてこう呼ばせて頂きます。ミゲルにはその素養がなかったと思っていますので。許してほしいとは言いません。ですがどうか謝罪させてください。結局自分は聖女と婚姻することになりました。他ならぬ自分の意思で。僕のしたことは、ただただ周りを混乱させただけでした。それに最愛の聖女を傷つけてしまった……」
どうせ分からないと思って心のうちをつらつらと語る。他に語る相手がいないのだ。父王ですら聖女の件で信用を失っている。
「……だから、後悔すると言ったんだ」
マルシオはぎょっとした。どこにでもいるお爺ちゃんのようになっていると報告されたのに、まるで健常な人じゃないか。病床で横たわったまま、はっきりと意思の宿る目でマルシオを睨みつけている。
「そうか。結局王家のところへ行ったのか……聖女様がお可哀想だ。王太子の我儘のためにどれだけ振り回されたことか。近くにいればお慰めできたというのに」
「あ、あの……」
「謝罪は承りました。だが許すことはありません。お帰り下さい」
「大神官様!」
「帰れと言いました。貴方から現役のように扱われるなど反吐が出る」
半泣き状態で王宮に戻ってほどなく、元大神官の死を伝えられた。
若き日の過ちを、自分はいつまで償い続ければいいのだろう。
――いや、自分の我儘で何人もの人生を狂わせたというなら、きっと、一生……。
◇
数十年後、大神官が亡くなった際、遺品整理をしていた神官が古ぼけてはいるが、大事にされていたらしいハンカチを見つけた。黄色い薔薇の刺繍が施されたハンカチは、女性からの贈り物のように思われた。
自分は数年前に神官になったばかりだが、浮いた話なんてさっぱり聞かない真面目な大神官だったのに……若い頃の思い出の品かな?
そう思った神官はひっそりと棺にそのハンカチを入れた。棺は大神官代々の墓がある墓所へと埋められる。例外は生前に辞めたという先代くらいだったそうだが、生まれる前の話だから何があったかは知らない。
やがて葬儀が終わると、その時を待っていたかのように小雨が降り出した。
人々の心情を反映しているのだろうか。
それとも天が偉大な大神官の死を悲しんでいるのだろうか。
それとも……。
若い神官は思う。
大神官様は今頃、送り主と再会しているのだろうか。その喜びの涙だったらいいのにな、と。
小雨はやがてみぞれになり、雪に変わった。
雪の結晶がひらひらとダンスを踊るように地面に吸い込まれていった。
さよなら、初恋 菜花 @rikuto
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