さめない夢に栞をはさんで
鞘村ちえ
第1話
とにかく、私の好きな人は怖がりな性格をしていた。怖がりな性格というのは、ホラー映画を観れないことや、遊園地で友達に誘われたとしてもお化け屋敷に入れないことではない。
私の好きな人は、自分の心が傷付くことをとても恐れていたのだ。信頼している人に裏切られたと感じることや、愛する人と意見がぶつかることを怖がった。例えば、バイト先で上司にあたる人とたまたま趣味が一致して話が盛り上がったとしても、仲良くなるといつか裏切られてしまうのではないかと心配になり、誘われた食事をなにかと理由をつけて断ったりする。彼は自分と他者の間に一線を引くことで、自分の心を守ることを徹底していた。一定の距離を保てば自分の心は傷付くことがないと、信じていたのだと思う。
夏の夕暮れはむわんとした熱気に包まれていて、自転車を漕いでいるのにも関わらず頬や腕に当たる風はあたたかい。家からバイト先までの距離は自転車で十分もかからないのに、信号待ちの一瞬でじんわりと首元に汗をかいていた。うんとエアコンの効いた涼しい部屋に行きたいという欲求を打ち砕くように、駅前の本屋にはぬるい空気が漂っている。
「おはようございます」
「おはよう。今日も暑いねぇ」
春に始めた本屋でのバイトは業務に慣れてきたこともあり、最近ようやく楽しいと思えるようになってきた。小学生の頃から当時好きだった人の影響で始めた読書は、いつしか自分の趣味に変わっていた。背の高い本棚に囲まれた駅前の小さな書店は私にとってかなり快適な職場だ。好きなものに囲まれているのは心地よい。店長は物腰の柔らかいおばあちゃんで、職場の空調がいつも少しだけ高い温度に設定されいることだけが残念だった。
「今日は新しいバイトの子が来るからね」
「あ、そうなんですか?」
「私もそろそろ腰がきつくてね。ちょうど新しく働いてくれる子が欲しかったところだったから、応募してくれて助かったわ」
ここの本屋は基本的に二人体制でお店を回している。店長と私、私と誰か、誰かと店長、のように。今働いている人のほとんどは四十代で、といっても従業員の数は少ないのだけれど、秋に二十二歳を迎える私は少し浮いている存在だと思う。どんな人が来るのだろうと思っていると、誰かが自動ドアにぶつかりそうになりながら駆け込んできた。
「すいません! 今日から働かせていただく成田です」
遅れたのかと思いきや時計の針は出勤時刻よりも十分も前を指している。
「おはようございます。全然遅れてないから慌てなくて大丈夫ですよ」
「え! あぁそうか。俺の時計は十分早くなってたんでした」
そう言ってはにかんだときの顔が、好きな人にそっくりで、目がはっきりと合った瞬間に突然動悸がした。言葉がつっかえて、頬や耳が一気に赤く染まっていく。気付けばもう二年も会っていないのに、バイト先の薄汚れた窓ガラスから覗く駅前の人混みのなかにいつも彼の姿を探している。
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