第2話

 私が彼に初めて会ったのは私が二十歳を迎えた大学二年生の夏だった。玄関を出た瞬間からべたべたと身体に纏わりつくような熱気を感じる毎日のなかで、その日は珍しく扇風機と風鈴の音色だけで過ごせる軽やかな天気に恵まれていた。

「初めまして、中村です。よろしくお願いします」

 バイト先のスーパーの店内でそう名乗った彼と目が合った。吸い込まれそうな瞳は人懐こくて、目の周りには優しく皺が寄る。綺麗な目元だなと思った。

「初めまして。三波です、お願いします」

「なにか手伝えることがあれば言ってください」

 丸みのある穏やかな声で喋る彼は、他の店員にも挨拶をすると再びレジに立つ私のほうへ戻ってきた。近くにくると自分よりもあたりまえに背が高くて、男の人なのだという実感を与えられた。

「三波さんは大学生ですか?」

「はい、二年生です。中村さんは?」

「僕は秘密にしておこうかな。年齢を知って気を遣われたら寂しいし」

 そんなことを言うから随分年上なのかと思いきや、店長から「中村くん就活の調子はどうなの?」と訊かれているのを盗み聞いてしまった。黒々と艶のある髪はバッサリと切られていて、襟足の刈り上げが涼しげだ。つい先日就活が終わったらしい。就活中はバイトを休んでいて、その期間に私がこのバイト先へ入ったから、私たちはこれまで会う機会がなかったようだった。

 それから客の流れが緩まった隙を見計らっては、中村さんは何度も私に話しかけてきた。大学では何専攻なのか、どんなことが趣味なのか、シフトにはどれくらい入っているのか。会話を要約すれば、中村さんは私よりも二年早くこのスーパーでバイトを始めた大学四年生で、理数系の学部にいて、これといって明確な趣味はないけれど身体を鍛えたり漫画を読んだりアニメを見て休日を過ごすことが多いということだった。それに対して私は文系の学部で、休日はもっぱら読書をしていることが多いという話をしたら「賢いんですね」と言われた。真面目ですね、とか、凄い、ではなくて、賢いという言葉を選ぶ人に会うのは新鮮だった。嫌味たらしくならず、勉強の成績では測れない賢さを持っているのだとわかるような言い方だった。

 中村さんはどんな会話にも肯定的な相槌をうち、ゆったりと余韻のある会話を続けてくれた。少し間が空いても気にしないでいてくれるのは、喋りながら考え込む性格の私にとってありがたかった。

「三波さん、一緒に帰ってもいいですか?」

 退勤してすぐの休憩室でひとり、制服のエプロンを脱いでいたらそう訊かれた。初対面の人にここまでぐいぐい来られることは今までに経験がなくて、少し戸惑う。大学生は就活が終わると時間と孤独が残るようで、なんとなく身体の関係を結んでしまい、就職したら縁が切れてしまったという友達を数人見かけていた。優しく穏やかな印象はあるけれど、遊ばれるのは嫌だった。

「嬉しいですけど、帰り遠くならないですか?」

「あれ、どっちの方向ですか?」

「あっちのコンビニのほう、です」

「あぁ、僕もそっちだから遠くならないです」

 私がショルダーバッグにくるくると丸めたエプロンを突っ込んでから

「じゃあお願いします」

と言うと、中村さんはほんの一瞬だけ目を見開いてから

「一緒に帰るときにお願いされるの初めてかも、こちらこそお願いします」

とお辞儀をしてきたので思わず笑ってしまった。自然に零れた笑顔は中村さんにしっかりと見つかり、静かな休憩室に二人の声が響いた。

 コンビニがある通り沿いには、水深の浅く、流れの緩やかな細い川が流れている。川の近くを歩いていると軽やかに水が流れる音が聞こえてきて心地良い。バイトが終わる二十一時の東京はいつも街の明かりに照らされていて、誰かが起きているという安心感とこれから深夜へと繋がっていく高揚感がある。

 私も中村さんもしばらく黙って歩いていたので、交差点の信号を待つタイミングで中村さんの顔をちらりと見たら目が合った。

「今度ご飯行けたら嬉しいです」

 まだ視線が合わさったままそう言われて、つい自然に頷いていた。少し身長の高い中村さんの頭の向こうに月が浮かんでいる。くっきりとした満月だった。

「三波さんはいつがいいですか?」

「今週は木曜日以外ならいつでも」

 今日は月曜日。今時アナログでつけているスケジュール管理の手帳は、入っている予定のほとんどがバイトで、今週の木曜日は三ヵ月ぶりの美容院に行くことが決まっている。

「じゃあ金曜日でもいいですか?」

「はい。楽しみです」

 中村さんは一緒に帰るのをお願いされたときと同じ顔をして

「僕も楽しみです」

と呟いた。切りたての髪を見せる初めての人が中村さんになるのだと思ったら、久しぶりに胸が高鳴るのを感じた。どんな髪色にして、どんな髪型にしよう。

 男の人とご飯に行くのは半年ぶりくらいだ。少し前に食事に誘ってくれた大学の後輩とは、一回会ったきり連絡の頻度が減って終わりを迎えてしまった。大学の講義を澄ました顔で聞いている控えめな私と裏腹に、自分の意思がしっかりしているという本来の私に幻滅してしまったらしい。年下の男の子に幻想を抱かせることができなかったかなとしばらく反省していたら、友達から「真面目すぎて怖い」と笑われた。特段好きという気持ちを抱いたわけではないけれど、もう一度会いたいと思ってもらえないのは悲しいのだ。あなたには魅力がないと突き放されたみたいで。

 今度は仲良くなれたらいいな、と思って中村さんの横顔を見る。恥ずかしいのかこちらを見てくれない中村さんの瞳が、街の明かりを吸い込んだビー玉のように綺麗にきらめいていた。


 数日ぶりに中村さんと会う私はトリートメントをして艶やかな栗色のショートカットになっていた。暗くなり始めた待ち合わせの吉祥寺駅には、中村さんのほうが早く着いている。駅ビルのなかにある本屋で待っているね、という連絡が入っていたので足早にエスカレーターを駆け上がる。昼間は灼熱だった街は、夕方になってもむわんとした熱気を保っていた。駅ビルのなかはひんやりとクーラーが効いていて、汗が冷える。

「お待たせしてすいません」

 涼しげな空色のシャツにタックの入った黒のワイドパンツを着て、中村さんは文庫本のコーナーにいた。そっと肩を叩いて声をかけると、立ち読んでいた小説から顔をあげて

「僕のほうが早く着いちゃったんだし、全然待ってないから大丈夫ですよ」

と言って「じゃあ行きましょう」と駅ビルのなかを歩きだした。

「初対面の日にご飯誘っちゃってすみません。つい勢いあまって」

「いえ、嬉しかったです。最近暑くて出掛ける機会が減ってたから、いいきっかけになりましたし」

「それなら良かった」

 平日の夜だというのに駅の周りは人で溢れていて、私は少しだけ前を歩いて先導してくれる中村さんのあとをちまちまと追いかけていく。疲労と仕事が終わったことへの安堵が混ざった表情のサラリーマンの横を抜け、マクドナルドで優雅な放課後を過ごす高校生カップルを横目にみる。昼間よりも看板のコントラストが強くなった駅の裏側を歩いていく。

「三波さん、緊張してるでしょう」

 中村さんが提案してくれた居酒屋は雑居ビルの一階にあった。店員のネームプレートが全員あだ名で書かれている。店内は随分と忙しそうなのに、すれ違った店員と目が合うと大きな声で私と中村さんの来店を歓迎してくれた。間仕切りがあって半個室になっているような席に案内され、私は奥側の席へ座った。

「別になにか不安なことがあるわけじゃないんですけど、誰かと二人きりで食事するのが久しぶりだから、ちょっと緊張してます」

 夏でもほかほかに温められたおしぼりで手を拭く。クーラーで冷やされた店内にはちょうどいいのかもしれない。中村さんは私にも見えるような向きでメニューを一枚、また一枚と捲っていく。

「そんなに久しぶりなんですか?」

「多分半年ぶり、くらいです」

 メニューを捲る中村さんは伏し目がちで、綺麗だと思った。

「緊張しなくていいのに。食べたいものも味がしなくなっちゃうでしょう」

 あまりにも居酒屋の雰囲気が中村さんにしっくりきて、違和感を覚えた。敬語のなかに混ざり始めた砕けた言葉遣いに、あっという間に中村さんに主導権を握られているのかもしれないと気付く。

「何が好き? 食べたいもの頼んでいいよ」

 淡々と注文を決めてくれる姿に頼りがいを感じながらも、さっきの違和感はなんだろうと探るように会話を進めていく。私は唐揚げとだし巻き卵、中村さんは枝豆とネギトロ巻きを頼むことにした。しばらく経ってお通しと共に運ばれてきたお酒は並々と注がれていて気分が良い。

「乾杯!」

「乾杯」

 中村さんはお酒を飲むとよく喋るようになった。特段魅力的だと思ったのは中村さんは筆まめだという話だ。大学生になった今でも年賀状や暑中お見舞いの交換をしている友達がいたり、文通をしている遠方の幼馴染がいるらしい。小さい頃に父親から「手紙は心が伝わるんだ」という教えを受けて始めたけれど、理数系の学部に入ったうえに、この年齢になるとなかなか手紙を書く人がいないから寂しいと呟く。その姿は小さい子どものようで愛おしくみえた。やっぱりデジタルなメッセージでは物足りない、温かみや優しさが伝わる手紙の文化が好きなのだと言って、中村さんは少しとろけた視線を私に送る。

「三波さんはお手紙書いたりする?」

「文章書くのが好きだから時折」

「本当! じゃあ今度お手紙交換しようよ、というか今でもいいな」

 テーブルの端に置かれている店舗利用アンケート用紙と記入用のボールペンを取って、三波さんはお手紙を書き始めた。黙々と字を連ねている猫背の中村さんからは、賑やかな大衆居酒屋にいるとは思えない品性を感じさせる。まるで図書館にいるような。

 三分くらい経ってから

「はい、お手紙です」

と両手で渡された店舗利用アンケートの裏面には、丁寧かつ繊細な字で

〝今日は一緒にご飯を食べてくれてありがとう。実は今、思ったよりも酔ってるかもしれません。だから僕ばかりが喋りすぎていたらごめんね。この後、どうしますか?〟

と書かれていた。読み終えたと同時に頬の熱があがったのが、自分でもわかった。

 私も新しいアンケート用紙を手に取り、頭のなかから出来るだけ丁寧な言葉を探して手紙を書き始める。氷が溶けてグラスのなかで落ちる。普段手紙を書くときは目の前に相手がいることなんてほとんどないせいで、変に緊張してしまう。なんとなく言葉に詰まって中村さんのほうを見ると

「うん? どうしました?」

と甘くとろけた瞳で見つめられる。慣れているのだなと理解するのとほとんど同時に、私は中村さんのことを好きになっているのかもしれないと感じた。


 居酒屋を出たあと、働かなくなった頭を冷やすように歩いていた。会話という会話はなかった。ただ隣を歩いていた。結局、何もないまま家まで送り届けられてしまい、自惚れていた自分が恥ずかしくなった。玄関に入らず、ドアの前で呆然と立ち尽くしていると

「三波さんってそんな表情するんですね」

と中村さんは一人吹き出して笑っていた。

「そんなにヤバい奴だと認識されてたんですね、僕は」

「いやそういう訳ではないと思いたいんですけど、でも慣れてる感じがしていたから」

 私が正直にそう言うと、中村さんは一拍置いてから「慣れてはないと思うけど」と小さな声でへらりと呟いた。

「お手紙を交換したのは三波さんが初めてですよ?」

「本当に? というか、やっぱり私以外にもいるんですね」

「嘘はつきたくないから」

 素直に生きると決めている人は、時にそれが誰かの心を砕いているという自覚がないのだろうか。そう思いつつ、中村さんの言葉は穏やかなせいで調子が狂う。

「ごめん。悲しい顔させちゃったな」

 そう謝られて、私の何かが壊れた気がした。

「じゃあハグしてください」

「え?」

 私は寝静まったアパートの玄関前で大きく腕を広げた。中村さんが突然酔いが覚めた声色で「どうしたの」と困りだしたので、勢いあまって私が抱きつくと、黙って抱きしめ返された。夏のハグは本当に好きな人としかできない。暑いし、べたべたした身体を触るのも触られるのも嫌だし、夏休みのたびに思い出してしまうから。

 黙ったままの中村さんを見上げると

「三波さんも相当酔ってたんですね」

と微笑まれて、呆れられているのかもしれないと勝手に想像する。相手の気持ちを想像だけで汲み取って関係を進めるのは、恋愛において一番やってはいけないことだ。理解しているのに、私は誰かを好きになるたびに勝手に喜んで、勝手に落ち込んでいる。好意をするりとかわされてしまい、少し傷付いた。酔いに任せたのは私なのに。自分で自分を振り回してどうすんだ。

「あれ、もしかして僕はまた君を傷付けちゃったかな」

 中村さんはよく察する人なのだ。この人は察する能力が高いから、これまで色んな人に好かれて生きてきたのだろう。魅了される気持ちがよく分かる。

「酔ってないですから」

 私が不貞腐れたようにそう呟くと、中村さんは

「知ってるよ」

と言って、私の頭を撫でた。もう彼の思惑通りになっているのだとわかる。

「知ってたんですか? じゃあなんでそんなこと言うんですか、もう」

 思わず少し声が大きくなり、アパートの住人たちが出てこないか不安になる。しばらく中村さんは黙っていた。どんな表情をしているのか気になり身体から離れようとした途端、息を吸う間もなく唇に柔らかなキスをされた。そして中村さんはまた穏やかな口調でこう言った。

「三波さんはもう僕のことが好きなんだね」


 あの言葉を聞いた瞬間から、私は取り憑かれたように中村さんに夢中になっていった。朝起きては連絡がないかスマホの通知を確かめ、バイト先ではシフトが被っている日を確かめて、会えると分かっている日には入念にメイクをした。

 中村さんには何人も好意を寄せてくる女の子がいるのだろう。きっと私はそのうちの一人にすぎない。それを理解していても、好きという気持ちを止める理性はあの一言を言われた瞬間から失われていた。私はもう中村さんのことが好きなのだった。

 しかし、中村さんから食事の連絡がきたのはそれから二週間もあとだった。

「明日のお昼、オムライス食べない?」

 連絡に浮かれた私は朝からフェイスパックをして、入念な準備の末、お昼には中村さんの家がある荻窪駅にいた。おすすめしてくれた駅近の小さなカフェは、ランチメニューのオムライスが絶品らしく、二人揃ってそれを注文した。

「急に連絡したのに会ってくれてありがとう」

「いえ、私も会いたかったですし」

「嬉しいな。三波さん、バイト先ではあんまり喋ってくれないから何か悪いことでもしちゃったかなと思ってた」

 二人きりで会うのは二週間ぶりでも、バイト先でシフトが被ることは何度かあった。中村さんは相変わらず積極的に話しかけてくる。私は以前にも増して緊張してしまい、会話したあとの仕事でミスすることがよくあった。だから避けていたのだ。ちゃんと生きるためには中村さんと一緒にいてはいけないのだ。

「まさか! 自分から話しかけるのが苦手なだけです」

「そうなんだ? よかった、嫌われていたらどうしようかと」

 嫌いなわけがない。会えない期間はむしろ好意を膨らませていた。中村さんは私が自分を嫌っているわけがない、というふうに微笑んだ。

 店員が湯気のあがった熱々のオムライスを運んでくると、中村さんは嬉しそうに顔をほころばせた。卵は半熟で、柔らかく震えている。おいしそうだった。中村さんは二人分のスプーンをカトラリーケースから取り出して、私に一つ渡してくれる。

 二人とも同時に「いただきます」と両手を合わせる。しあわせな匂いがした。ケチャップライスは少し味が濃くて、おばあちゃんが夏休みに作ってくれたような懐かしい味がする。すぐに食べ始めた私とは反対に、中村さんは何度もふうふうと息を吹いてスプーンに乗ったケチャップライスを冷ましていた。

「猫舌なんですか?」

「うん。昔、口のなかを火傷してから怖くて」

「これはそこまで熱くないですよ。むしろ熱々のうちに食べきりたい」

 次から次へスプーンを口に運ぶ私を、中村さんは少し驚いた様子で見つめてきた。

「なんというか、三波さんって男気があるよね」

「え」

 どういう意味で言っているのかわからなかった。首を傾げると

「僕は怖がりだから、一度失敗したり嫌な思いを経験すると、次はそんな気持ちにならないように避けようと必死になるんだ。自分を守りにいくというか。だけど、三波さんはたとえ嫌な気持ちになる可能性があったとしても、相手に真正面からぶつかっていくタイプに見える。それが凄く羨ましいなって」

そう言われた。

「そんな風に見えていたんですね、私」

「そんな風に見えていました。だから、惹かれたのかも」

「本当に怖がりだったら『惹かれたかも』なんて言わないんじゃないですか?」

「あぁ、三波さんは一見柔らかそうに見えても時々氷のように鋭いなぁ」

 中村さんは湯気の上がらなくなったオムライスを次から次へと口へ運んでいく。

「冷たくてすいません」

「全然。素を出してくれるほうがずっと嬉しいよ」

 少し沈黙が続いて気まずくなり、店員が持ってきてくれたお水を飲むと、爽やかなレモンの香りが広がった。近くに置いてあるピッチャーをよく見るとレモンの輪切りが入れられている。

「レモン入りのお水が置いてあるカフェってお洒落に感じるよね」

 視線の先を言い当てられ、ぎょっとする。

「あれ、違う? 三波さんって感情が顔に出やすいんだなって、わかってきた」

 自分のことをゲームの攻略のように説明されると恥ずかしくなる。攻略したら違う人のところへふらふら離れてしまいそうだ。私は中村さんのことを何も分かっていないのに、勝手に私のことを分かられるのは違和感を覚える。

「察するというか、頭のなかを覗くのがうまいですよね」

「覗くのがうまいってなんか語弊あるけど」

「勝手に理解されている感じがして、ちょっと」

 言葉を探した。少なくとも肯定的な言葉を。短い間があって

「ちょっと? 嫌?」

と、目を合わせずに言われてしまった。

「そう。嫌、です」

 仕方なく素直にそう答えると、中村さんは考え込むように何度かまばたきをして

「それはごめんね。僕の悪いところかも」

とスプーンを置いた。オムライスはあっという間に平らげたが、付け合わせのコンソメスープはぬるくなって残っている。

「中村さんは良いところと悪いところが紙一重だからずるいんです」

「ずるい? 例えばどんなところが」

 また言葉を探した。考えると同時に、言葉が滑りだしていく。

「たとえば、中村さんは良くも悪くも素直なんです。子どもみたいに。それは時折だれかを傷付ける。他人とのあいだに距離を置いていると思っていても、相手が同じように距離を置いているとは限らないですから」

 中村さんは沈黙のまま、静かに頷く。

「でも素直だということを知っていると、嘘をつかない人だという信頼があります。嫌なところを直してほしい、と思うことはつまり、良いところを消してほしいに等しくなってしまうわけじゃないですか」

「そうなるね」

「だから、ずるいです」

 中村さんは一呼吸置いてから、ぬるいコンソメスープをスープ用のまあるいスプーンですくって飲み始めた。周りの客や店員の声が途端に耳に入ってくるようになった。二人きりの食事のとき、沈黙されるのは怖い。信用していたはずの自分の言葉が、途端に失言をしたように思えてくるから苦手だ。たぶん、本当は誰も何も考えていないだけなのに。

「すみません。言いすぎました」

「いいんだよ。僕は三波さんのきっぱり言うところが魅力的だと思っているから」

 結局私と中村さんはそのあと、大学で教授がしでかした面白いミスの話や、先週見たばかりの映画に感動した話をした。スープを飲み干してもなお喋り続けてしまい、次第にお店が混み始めたので、カフェを出ることにした。

「おいしかったですね」

「うん。おいしかったね」

 交差点の信号待ちをしていると、反対側には大学生らしきカップルが手を繋いで待っていた。私たちも傍から見れば恋人同士のように見えるのだろうなと思ったら、途端に手汗をかいてしまう。

「このあと、どうしようか」

 またこの言葉だった。手紙の最後の一文。きっとたくさん使ってきているのだ。身体に馴染んでいるような物言いをする。いやらしさがまったくない、それは本当に単純な質問に思えた。

「あの」

「うちに来る?」

 最初からそのつもりだったのだろうな、ということはわかっていた。わざわざ中村さんの最寄り駅まで呼び出すのだから。

「嫌だったら違う場所でもいい」

「別に、大丈夫です」

 肯定という意味の、大丈夫だった。

「本当に? ずいぶんと緊張してる顔をしてるよ」

 俯く私の顔をからかうように覗いてきたので、目線を逸らす。へらりと笑った中村さんは、こっちね、と私の手を引いた。あっという間に指を絡められて恋人繋ぎにされてしまい、やっぱり、と思う。他の女の子にもこうしているのだろうな。今はとりあえず黙っておくことにした。これが夢ならまだ眠っていたいのだ。いつか朝になり目覚めるとわかっていても。

「別に何もしないよ?」

 ドアの目の前で鍵を探す中村さんはそう言って、私の手を離した。手が離れたとき、つめたい風が手のひらや指のあいだを通っていく。

「私がどんな心配してると思ってるんですか?」

「うん? それは分からないよ、僕は別に心が読める訳ではないし」

 ずっと私ばかりが緊張している。男の人というのは、みんな簡単に抱こうとする。感情のあるラブドールみたいに扱うのだ。私はそれが嫌いだ。いつも思う。好きなら、そばにいるだけでいいのに、と。

「大丈夫です」

「三波さんは大胆だよね。やっぱり」

「あからさまに家へ誘い込む中村さんに言われたくないです」

「言うねえ」

 頭ではわかっていても、感情はわかっていなかった。理由は簡単なことで、好きだから、たったそれだけだ。好きという感情は私を私でなくしてしまう。

「嫌いですか?」

「いいと思う。僕は嫌いじゃないよ」

 部屋へ入ると、

「何か飲む?」

と訊かれた。紅茶、牛乳、インスタントコーヒー。コーヒーがいいです、と答えると中村さんは狭いキッチンでお湯を沸かしてくれた。私は背中を眺めていた。きちんと布団が畳まれたシングルベッドの横に座りながら。

 全体的に黒で統一されたインテリアはお洒落で、背伸びしたような間接照明がいくつか置いてある。よく誰かが遊びにくるのだろう。ホテルとまではいかないが、一人暮らしにしては片付いていた。綺麗好きなのかもしれない。私の知らない中村さんが垣間見えた気がして、少し嬉しかった。

「あんまりきょろきょろ見られると恥ずかしいんですけど」

 後ろから喋りかけられた。ごめんなさい、と謝ると

「本棚ならじっくり見ていいよ」

と言われた。言われるがままに本棚をみた。壁にくっつけられた腰ほどの高さがある本棚は、黒で統一されたインテリアの中でもよく目立つ。詰められたほとんどが小説だということに気が付いて、

「意外です。休日は漫画って言ってたのに」

と言うと

「小説って言うと真面目で硬派な印象がついちゃうから、あんまり言わないようにしてるだけ」

と、あっさり返された。

「私のこと、真面目で硬派だと思ってたんですか?」

 キッチンから、湯気がのぼる二つのマグカップを持ってきた中村さんは言う。

「真面目で、硬派でしょう」

「そうですけど」

 思っていたよりも不満げな声が出てしまって反省する。拗ねる女の子はめんどくさいだろう。

「真面目で硬派が悪口みたいになってるけど、そうじゃないよ? 僕が女の子を口説くときには相応しくないと思ってるだけ」

 悪気なさそうに、すらすらと自白してくれるものだから、一周回ってそこまで悪い気がしなくなってくる。爽やかな微笑みは若干詐欺師のようにもみえた。男の人というのはどうして、性欲が絡むとこういう顔をするのだろう。

「僕と三波さんは似てるんだと思ったんだけどな、どう? 本棚」

 大量にある背表紙のタイトルを眺めて、はっとする。

「違ったら、それはそれで面白いけれど」

 ほとんどが自分が読んだことのある作品だったのだ。

「まるでわたしの本棚みたいです」

 中村さんは低い声で、はは、と嬉しそうに笑った。

 これも、こっちも、全部読んだことある、と驚いていると、中村さんは

「僕の下の名前、栞って言うんだけどね」

と言った。落ち着いた声だった。バイト先のネームプレートは苗字だけだから、下の名前を聞くのは新鮮だ。なかむら、しおり。

「珍しいですよね。栞さんって」

 マグカップに入ったあたたかいコーヒーを飲む。

「結構気に入ってるんだ。小説が好きだと、栞は欠かせないでしょう。女の子みたいって言われて嫌だと思っていた時期もあったけど、最近は好きになった。気になっている女の子も小説が好きみたいだし」

 中村さんが作ってくれたコーヒーは、たっぷりの砂糖とミルクが入っていて甘ったるい味がした。熱いよ、と様子を伺われた。心配というよりも、火傷する可能性を加味しても熱々の飲み物を飲む私の様子が気になるという感じの言葉だった。

「大丈夫です。熱々の飲みものを飲むの、好きだから」

「子どもみたい」

 困っているような、愛おしいと思われているような、あたたかい眼差しだった。

「そんなに見つめないでください」

「無理かも」

 焦らすように言葉を残される。

「僕は三波さんのことを気になっているから」

 私はまた中村さんのペースに持っていかれていた。嫌な心地はしなくて、どちらかといえばこのまま身を任せてベッドで眠りたいなと思うような気分だった。好きなのだ。好きな人の家に来たら、好きな人が毎晩眠るベッドで眠りたいと思うものだろう。

「眠りたい?」

 コーヒーを飲んで黙っていると、眠気が混ぜられた声でそう訊かれた。マグカップからゆっくりと顔を上げて瞳をみると、少し骨太な男の人の手で頭を撫でられた。

「このコーヒー、睡眠薬混ぜてます?」

「僕のこと本当に信用しなさすぎだよ。原因を作っているのが僕の言動なのは分かっているけどさ」

 中村さんはさっきのようにまた、はは、と笑う。一瞬の沈黙があった。

「眠くなるのは、僕のことが好きだからじゃない?」

「好きだから」

 髪をゆるやかに撫でられ、両手で頬を包まれる。触れてはいけないもののように優しく触れられる。

「そう。好きな人と一緒にいると、幸せホルモンが分泌されて眠くなるらしいよ」

「うん? まだ好きって言ったことないですよ」

「三波さんはいつも、会うたびに好きですって顔をしてる。僕も」

 会話の返事がうやむやになるほど、撫でる手の温かさと優しく低い言葉と声が脳に沁み込んでいく。私の手と、中村さんの手が触れた。そのままその手に引かれ、気付けば背もたれにしていたはずのベッドのうえで横になっている。

「僕もちょっと眠りたいんだよね」

「眠りたいっていうより抱きたいって顔をしてます」

 中村さんは何も言わずに私の髪を撫でて、耳にかけた。

「私は中村さんのことが好きだけど、中村さんは私のこと好きじゃないですよね」

「そうかな? 眠りたいってことはつまり」

「つまり?」

「好意的な感情は、すべて言葉にしないといけないものなの?」

 深く考えれば、夢から覚めてしまうような気がした。嘘をつかない。好意的な感情を言葉にすれば、それは嘘になってしまうのだ。

「疑問を疑問で返してうやむやにしないでください」

「わざわざ言葉にしなくても伝わっていると思ってるんだけどな。三波さんになら」

 遠回しにせかされているのかもしれなかった。早く眠ろう、と。耳のふちをなぞる指がくすぐったい。

「相手の気持ちというのは、言葉にして伝えられることで確信を持ちたいものなんです。心の予想は外れて当たり前ですから」

 そう言うと、ふと中村さんは私に触れるのをやめた。そして足元にあったブランケットを二人の身体にかける。

「僕は好きになった人が傷付くのが嫌だから、恋人を作りたくないんだ」

「うそつき」

 自分でも感じた。子どもみたいだ。全部ひらがなで喋っているみたいだった。

「嘘じゃないよ」

 私は中村さんの瞳をみた。視線は、合わなかった。

「きっと相手を傷付けたくないよりも、自分を守りたいんですよ。それくらいしないと自分のことが守れないんだと思います。中村さんは意外に、怖がりだから」

 中村さんは私のおでこに軽くキスをしたあと、私の右手を両手で包んで

「ごめんね」

と眉を下げた。はっきり言葉にしてほしいと願ったくせに、いざ直接言葉にして伝えられると気持ちの整理がつかない。中村さんに寄り添われたまま泣いていた。背中をさすってくれる左手が大きい。頭を撫でる仕草は慣れていても、背中をさする仕草はぎこちない。あまり隣で泣かれた経験がないのかもしれない。

「泣かないでよ」

 それは今まで聞いたことのない声だった。弱くて脆い音だった。私はどうして中村さんが好きなのだろう。ほかの誰でもない中村さんを好きになる理由を、探した。言葉を探していた。学校にもバイト先にも、男の人ならたくさん存在している。それでもここまで魅力に感じられる人は一人もいないのだ。

 私はその夕方、中村さんの隣で夢をみた。夢のなかの私は彼に手紙を書いていた。それは居酒屋でもらった手紙のお返事だ。一枚の箔押し便箋に「好きで好きでたまらなくて、中村さんになら殺されてもいいです」という言葉を綴っていた。片想いはつらいし、本気で好きになってくれる日はこないと分かっているけれど、好き。大好きだから天国で結婚したいなーとうつつを抜かしていたら、手紙を読んだ中村さんが私の身体を抱きしめたあとで首を絞められるのだ。根は真面目で優しいし、怖がりだからきっと私のことは殺せないんだろうなぁと、私からの手紙を読み愛想笑いをする中村さんの瞳を見つめる。もはや私が中村さんになって、私を殺したい。好きな人の手で殺されるなんて本望だ。酸素が足りなくて急に怖くなり、助けを求めようと彼の身体を叩くと、手に込められた力が僅かに緩められる。夢のなかの彼も怖がりなのかもしれなかった。夢はまだ続いている。

 一方的な好きは生きているだけで死んでいるみたいなものだ。いっそ死ぬなら好きな人に殺されたい。だけど中村さんは目の周りに皺を寄せて「生きてよ」と呆れたように微笑むのだ。死なないでとか、そういう縋るような言い方はしない。ああ、好きな人に生きてよなんて言われたら死ねない。不死身になりたい。不死身になるのなら一緒がいい。老いた私を置き去りにして、好きな人だけが死ぬなんて論外だ。冠婚葬祭の黒いスーツを着て棺の横に張り付いて泣き喚くくらいなら、同じ墓に入って抱き合いたい。天国の役場で婚姻届けを提出したい。字、丁寧に書くよ。そう思える相手と出会えるのは幸せなことだ。一生分の幸せがそこにある。奪わないでね誰も。

 私はそこで夢から覚めて、眠る中村さんをみた。よく眠っているようだった。寝息をすやすやとたてている。結局私と中村さんは、ただ同じベッドで眠りについただけだった。外で夕方のチャイムが鳴る。五時になりました。よい子はお家へ帰りましょう。私は、帰りたくはなかった。

 薄いレースカーテンの隙間から漏れる夕暮れの光に間抜けな寝顔が照らされる。いま自分から外へ出掛けないと、中村さんから離れることは一生できないような気がした。好きだ。寝返りで触れた彼の脚がずいぶんと冷えていた。私はお母さんになった気分で、やさしくブランケットを掛け直した。

 起きあがって私を引き留めてくれたら嬉しいけれど、そんな我儘は彼の夢のなかまで届かない。眠っているときにしか聞こえない息の音がする。邪魔してはいけない、と思ってしまうような。ベッドから抜け出そうとすると、脱ぎ捨てることなく綺麗に畳まれた彼の靴下が床に落ちていた。夜ごはんは何を食べようか。私はベッドから降りた。床がつめたい。起きてよ。わざとらしく軽い咳払いをしても、洗われていないマグカップを洗ってみても、靴を履くために玄関へ向かっても彼は起きなかった。

 嘘をつかないところが好きだった。けれど、嘘でもいいから恋人になりたいと思ってしまった。

「いってきます」

 そう呟くと、後ろのほうで衣擦れの音がした。もしかしたらずっと起きていたのかもしれない。起きても尚、私を止める気にはならなくて寝たふりをしていたのかもしれない。透明なコップに水を注いだときのように目の前の景色が歪む。中村さんの眠りを妨げたくはなくて、嗚咽を抑えて静かに泣いた。振り返ったらだめだ。鍵をあけて部屋から飛び出し、私は逃げるようにして中村さんの家をあとにした。

 夢は心を映すという。彼は私と眠った夕方に、どんな夢をみていたのだろう。何も知ることはできない。私はただただ走り続けた。さむいあつい息がしたいくるしい。呼吸をするたびに喉が乾いていく。溢れて止まらない涙を舐めた。やっぱり一緒に生きたかったな。生きてよ。

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