第3話

 中村さんと会わなくなり、二年半が経った。逃げるように走ったあの日から一度も会うことはなかった。あのあと私はすぐにスーパーのバイトを辞めて、今の本屋に働きだした。自分から約束をしなければ会えない。それは私にとって実質的に一生の別れを意味している。

 本屋で成田君が働きだしてからは半年が経っていた。季節は廻り、冬になる。十二月のお客さんは来店するたびにクリスマスの贈りものを買う。サンタやトナカイが描かれた包装紙で、ありとあらゆる本や小説を包んでいく。店内では立ち読みを邪魔しない程度の音量でクリスマスソングメドレーがかかっていた。

「三波さんってもしかしなくてもマジで失恋引きずるんですね」

「誰でも二年半くらいは引きずるでしょう」

「いや、流石に長いです」

「それはもうさ、好きじゃないに値すると思うんだけど」

「本気で好きなんですね、その、中村さんのこと」

 成田君は引き気味にそう呟いてから、お客さんの対応に向かう。冊数の多い会計で、全部にブックカバーをかけてほしいと頼まれていたので手伝った。本屋の仕事は私に合っている。この人はこんな小説を読むのか、この人はこれを頑張っているのか。本が売れるたび、客それぞれの人生を想像した。だれかの手に本が渡るというのはうれしい。

 お客さんの対応が終わり、私は乱れた児童書コーナーを直しにいった。子どもたちは親に連れられて、絵本を読んでは放り出したまま帰っていく。開かれたままの童話。折り目がついてしまったみほんの図鑑。元ある棚とは違う棚に戻された間違い探し。働き始めたばかりの頃は、棚を探すのに時間がかかったこともあった。今ではほんの数分で終わる。

「あの」

 それは唐突だった。声を掛けられたのだ。顔をあげた。その瞬間、鼓動が速くなる。激しく高鳴る。そこに立っていたのは、中村さんだった。

「一歳児向けの絵本ってここにあるだけですか?」

 視線が重なった。お互いがお互いに気付いている。たまたま知らずに声を掛けてきたんだろうか。それとも、最初から私だとわかっていたんだろうか。訊けない。

「そうですね。この棚の一番下の段にあるだけです」

「ありがとうございます」

 あの頃と同じ、穏やかな声をしていた。乱れた児童書はとっくに直し終えてしまった。質問には答え終わっている。それなのに、その場から動けない。どうしたらいいんだろうか。

 二年半ぶりに会う中村さんの背中は疲れていた。毛玉一つない黒のコートを着て、落ち着いた紺色のマフラーを巻いている。一歳児向けの絵本を探している。贈りものなんだろうか。年下の従兄弟か、甥や姪でも生まれたんだろうか。

 中村さんはいくつか絵本を手に取り、読み比べた。そして独り言のように

「もうすぐ娘の誕生日だから、プレゼントに買いたいんです。この本屋ってプレゼント包装は」

と訊いた。娘の誕生日。娘がいるのか。というか生まれたのか。会わなくなって二年半が経つのだ。ほかのだれかと恋愛しているだろうとは思っていた。娘。私は何も考えられなかった。

 中村さんはあの頃とは、変わっていないように見えた。けれど、私の知らない中村さんが彼のなかに存在しているのだとわかる。その姿を見ることは出来ない。私は中村さんの妻でも、娘でもないのだ。

「できます。お決まりになりましたら、レジへお持ちください」

 何も考えられず、ぽっかりと穴があいたような心地で私はレジに戻った。どうして。私が好きだとわかっていて。

「三波さん顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」

 心配した面持ちで成田君が話しかけてくれる。バイトとはいえ、仕事に私情を挟みたくはなかった。

「ごめんね。なんでもないから」

「お客さん少ないんで、体調悪かったらいつでも言ってください」

「全然。元気だから大丈夫」

 本当に大丈夫ですか、と繰り返された。そんなに顔色が悪いだろうか。二年半ぶりに好きな人に会ったから体調を崩したなど、言えるはずもなかった。弱い。けれど、その弱さにつけ込むのが中村さんだと私は知っている。中村さんもまた弱い人だからだ。弱い人は他人が弱る瞬間を見逃さない。

「これを。プレゼント包装でお願いします」

 頼まれた一冊の絵本は、最近よく売れる商品の一つだった。私はいつもより丁寧に包んでいるような気がした。とてもながい時間だった。中村さんの一歳になる娘へのプレゼントを包んでいく。あのとき私の頭を撫でた大きな手は、このプレゼントを受け取る女の子を守るために存在しているのだ。包装紙と赤いリボンのシールで飾られた絵本は、中村さんのもとへ渡った。

「包装はこんな感じでよろしかったですか?」

 受け取った左手の薬指に、シルバーの指輪がはめられていた。

「はい。ありがとうございます」

「ありがとうございました」

 またお越しください、と言わなければならなかった。けれど、声が出せなかった。どうすればいいのかわからなかった。すると中村さんは「また来ます」と私に微笑んで、帰ってしまった。最後にしっかりと目が合った。スーツで来たということは仕事帰りだったのか、と本屋を出たあとも後ろ姿を目で追っている自分に眩暈がする。

「クリスマスの時期に誕生日が重なると、プレゼントって減るんですかね」

 何も考えていないような成田君の言葉ではっとする。もう中村さんのことは忘れないとだめだ。結婚して子どももいる人に対して、また会いたいなんて思ってはいけないのだ。もう手の届かない存在だ。私は退勤の時刻になるまでまで、ぼんやりとしていた。頭が働かなかった。好きになってはいけない。その事実は、私自身を否定されたような気さえした。


「今日一緒に帰ってもいいすか?」

 ようやく退勤の時間になり、タイムカードを切る。成田君は人懐こい笑顔を浮かべた。特にこれから用事があるわけでもなかった。いいよ、と返事をする。店から出ると、凍るような冬の夜風が鳥肌をたてた。駅前にはイルミネーションのライトがいたるところに掛けられている。

「あの、違ったら申し訳ないんですけど」

「うん?」

 少し考える間があった。私が成田君を見ると、彼は意を決したようにこう訊いた。

「今日中村さんって人、来てました?」

 中村さん。忘れなければならない記憶を引っ張り出され、一瞬足が止まった。名前を聞いただけで顔や声が思い浮かぶ。

「あぁ。やっぱり、あの人が中村さんだったんですね」

「違うと思いたいんだけどね」

 特段驚かれることもなかった。普段通りの会話を続けてくれるおかげで、なんとか歩くことができる。一人だったら泣いていただろう。

「分かりやすすぎます。レジに戻ってきたとき、顔面蒼白で心配しました」

「ただすれ違うだけならよかったんだけどね」

「違ったんですか?」

 小さい本屋で人がいなかったとはいえ、会話の内容までは聞こえていないようだった。なぜか安心する。あの会話は二人だけのものだったのだ。私と、中村さんの。

「娘への誕生日プレゼントだって言うから」

 すると、成田君は一瞬沈黙した。

「正直言って、そいつクソですね」

「随分と正直だね」

 私たちは進行方向を指で合図しながら話し続ける。まだ真っ直ぐです。おっけー。

「だって相手の心情を考えたら普通言わないでしょう。わざと傷付ける言葉を言ったとしか思えないですよ。最悪だ」

 わざとだったんだろうか。でも、まぁ、わざとだったのだろう。最後に目が合ったとき、また詐欺師みたいな顔をしていたのだ。男の人特有の顔。性欲が絡んだときにしか見せない据わった瞳。

「嘘がつけない性格なんだよ」

「素直であることと他人を傷付けることは天秤にかけることじゃないですよ」

「そうかな」

「そうです。三波さんって恋に盲目なんですね」

 呆れたように呟いた成田君は人差し指をコンビニの方へ向ける。私は頷く。

「一応忘れようと頑張ってるつもりなんだけどな」

 忘れられるはずがなかった。二年半も、忘れられなかったのだ。

「忘れられないと思いますよ。忘れようと頑張っている段階では」

「どうしたらいいんだろう」

 何度か、忘れるために男性とデートしたことはあった。それでも毎回思い出すのだ。人混みのなかにいつも中村さんの姿を探してしまう。短く整えられた髪、穏やかで知性的な声、微笑んだときに目の周りに寄る柔らかな皺。

「中村さんへの愛情とか執着を超えるほど、他の何かを好きになるとか」

「執着って言ったね」

 成田君はまるで中村さんを嫌っているようだった。ただ私が中村さんを好きなだけなのに。私の代わりに怒っているような物言いだ。

「執着って言いました。依存とも言えます」

「なんでそんなに辛口なの? 成田君ってこんなに毒舌だったっけ」

「三波さんが傷付かないために素直になっているだけです」

「うわ」

 バイト先でもよく喋ってはいたけれど、ここまで饒舌な成田君は初めてみた。

「きっと三波さんが中村さんのことを好きじゃなかったら、さっきまでの俺の言葉はさほど毒舌には聞こえないと思いますよ。毒舌じゃなくて、正論です」

 間違ってはいなかった。

「正論言う人って嫌われやすいよ?」

「嫌われてもいいですけど、このままだと三波さん不倫しそうだし」

 そう言われたときにはコンビニのひんやりとしたアイスコーナーの前に来ていた。私はチョコバナナ味、成田君は少し迷ってクッキー&クリーム味のカップアイスを選ぶ。誘ったのは俺なんで、と成田君は奢ってくれた。

「不倫するかな、私」

 プラスチックの小さなスプーンを持ち、私たちは近くの小さな公園へ向かう。街灯があるとはいえ暗い。一人では怖くて踏み入れることのできない夜の公園。私たちは誰もいないブランコに座った。

「すると思います。俺が放っておいたら、しばらく迷って連絡しちゃうでしょう」

「でも結婚してるし、子どももいるんだよ」

「既婚者でも子持ちでもなかったら、一生中村さんに縋りつくつもりなんですか」

 わからなかった。中村さんがいない人生を想像することができない。幸せかどうかは関係なかった。ただ隣にいられるだけでいいのだと思っていた。今は、隣にいることも許されないのだ。

「そんなことはないと思う。今までも夢中になった人はいたけど、結局違う人のことを好きになったら忘れていったから」

「二年半も引きずってるのに。恋愛の穴は恋愛で埋めろってよく言うけど、それって根本的に問題解決には繋がらないと思いません?」

「それしか手段がないんだから仕方がないよ」

 成田君はアイスを一口食べて、しばらく言葉を探しているようだった。横顔が綺麗だ。考え事をしている男の人はみんな綺麗だ。理性的な顔をする。

「俺は、三波さんが人の幸せを崩すような大人になってほしくないだけです」

 私も言葉を探した。冬のアイスはなかなか溶けない。

「ちゃんとした大人になれると思ってたんだけどな」

「子どもの頃って大人になったら大人になれるって思ってましたよね」

「わかる。毎年誕生日がきて、そのたびに勝手に成長しているんだと思ってた」

 私が包んだプレゼントの絵本を、一歳になる中村さんの娘は受け取るのだ。私はふと、嬉しくも悲しくもなる想像をしてしまう。毎年娘の誕生日になるたびに中村さんは本屋へくるかもしれない、と。また来ます。そう言ったのだ。

「違いましたね」

「自分で成長しなきゃいけないんだね」

 手のあたたかさでアイスは少し溶けだしていた。成田君が息を吐く音がする。

「思い出に蓋をしましょう」

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