第4話
海が眩しい。潮の香りを纏った冷たい風が私たちの肌に吹きつけた。前髪が舞い上がり、きらめく水面が窓の奥で光っている。クリスマスを終えた週末の電車は、親子連れで賑わっていた。子どもたちはみな外の景色を見たくてたまらないようだった。電車のなかの吊り下げ広告には遊園地のイルミネーションが掲げられている。しかし、だれもイルミネーションなど興味がなさそうだった。子どもたちにとっては大量の電球よりも、大きく広く青い海のほうが人気のようだ。都心の子どもにとって海は冒険になる。
私は小さな子どもを見ると思い出すようになっていた。見たことのない一歳の子どもを抱きかかえる中村さんを。一歳になるとどのくらい歩けて、どのくらい話せて、どのくらい意思疎通できるんだろう。そもそも首がすわるのって何歳なんだろうか。出産も育児も経験したことのない私に子どもの成長は分からない。誕生日の贈りものに絵本を選んでいた姿は、私の知らない中村さんだった。言葉を大切にする人なのだ。それは知っていた。私は言葉を大切にする中村さんが好きだった。なのに、どうして。あの背中は私の知っている中村さんではなかったのだろう。
「次が降りる駅です」
私の隣には、これから行く場所をスマホで調べている成田君が座っていた。朝の十一時半に最寄りの駅で待ち合わせてから、乗り継ぎを重ねてかれこれ一時間半は電車に乗っている。朝から何も食べていないせいでお腹がからっぽだ。目的地の駅に着いたら何か食べにいきたい。駅名はわからなかった。聞いたこともない、知らない駅だった。
「海は眩しいね」
「好きですか? 海」
「好き。久しぶりに行くから実は結構楽しみなんだよね」
成田君は興味があるのかないのか微妙な顔をして、そうなんですね、と窓の奥に広がる景色を見渡した。海と街の境目に船着き場があり、ゆらゆらと数隻の船が揺れている。その船着き場の手前には小さな街がある。アーケードのある商店街や住宅街が建ち並んでいた。それから一番目立つのが、街の中央にある、見ただけで疲れてしまうような長さの石段だ。それを上った先に、朱色の鳥居が街全体を見渡すように佇んでいた。私たちはこれからあの神社に行くらしかった。
「ちゃんと持ってきました?」
「持ってきた。そのためのお出掛けだし」
「三波さんこういうの忘れそうじゃん」
持ってきた、というのは私の片手をふさいでいる紙袋のことだった。このなかには、中村さんと初めてデートしたときに着ていた服や靴が入っている。それから居酒屋でもらった手紙も。昨日の夜に成田君から頼まれて持ってきたのだ。
からかって笑う成田君の顔は中村さんに似ている。初めて会ったときからそれは変わらず、はにかんだときに目の周りに皺が寄っていて愛しい。
「さっきから俺の顔見すぎじゃないですか? そんなに似てますか」
「え。いや、そんなに見てないよ。たぶん勘違い」
慌てて窓の外へ視線を投げると、隣の成田君が肩を揺らして笑っているのがわかった。
「そんなんだから遊ばれちゃうんすよ」
「ほら、着くって」
車内に車掌さんの声が流れる。子どもたちは手のひらほどの小さな靴を履いて、電車を降りる準備を始めた。ダウンを着たくないと駄々をこねる子どもが、母親らしき女の人に叱られていた。
「風強そうっすね」
「うん。涼しそうでよかった」
成田君は会話が途切れたときや微妙な空気になったとき、すぐに雰囲気を切り替えるのが上手だ。特別な感情ではないが、私はそれが好きだった。中村さんと再会した日だって、成田君との会話にはかなり助けられたのだ。
「先にご飯食べます?」
「お腹空いたよね」
「確か商店街に海鮮丼食べれる定食屋があるって」
「そこにしよう」
私と成田君は商店街へ向かうことにした。改札を出ると、塗装の剥がれたおんぼろな駅舎には似つかない明るい声が聞こえた。駅舎の右側にくっついた売店が親子連れで賑わっているのだ。子どもたちよりも大きな背丈のソフトクリームのライトが立っている。
「食べましょう」
「食べよう」
会話は要らなかった。私たちは目を合わせて、にやりと微笑む。
売店には、バニラ、いちご、抹茶、チョコレート、バナナ、塩バニラの六種類が木製のメニュー表に掲げられていた。一番人気は三種類の味を一段ずつ、三段の渦として巻いてくれる「トリプル」らしい。私はチョコレート、バナナ、塩バニラのトリプルを頼むことにした。成田君は少し悩んでからバニラ、いちご、抹茶のトリプルを頼む。先に注文した私の「トリプル」が渡され、真昼の太陽に照らされた。冬とはいえ、これはすぐに溶けてしまいそうだ。
「先食べてくださいね」
そう言われて一番上の塩バニラを舐めながら、うん、と頷く。甘い。久しぶりに食べる渦を巻いたソフトクリームを楽しんでいると、成田君の「トリプル」も出来上がった。
「成田君の、王道の味だね」
「味見します?」
「いいの?」
そういえば、私が頼んだ味と成田君が頼んだ味は一つも被っていなかった。成田君はプラスティックの小さなスプーンでいちごの部分をすくって、私にあーんをしてくれた。あーんって、恋人じゃなくてもやっていいんだっけ。
「おいしい」
「よかったっすね。あ、口元ついてますよ。右側の、上のほう」
そう指摘されてバッグからティッシュを出そうとしたら、コンクリートの地面にぽたりと一滴のソフトクリームが落ちた。
「あ」
「早く食べちゃいましょう。いっそ全部食べてから口拭いたほうがいいかも」
「そうだね」
私たちは定食屋を探していたことなどすっかり忘れ、「トリプル」に夢中になっていた。駅舎の日陰に立ちながらコーンを齧っていると、さっきまで店の前に群がっていた子どもたちの中から一人の小さな女の子が寄ってきた。
「おねえさんたち、こいびと?」
陽光に目を細めて訊いてくる。成田君は女の子の目線に合わせるようにしゃがんだ。そして、友達かな、と微笑んだ。私もそれに倣って
「最近仲良くなったの」
と中腰になり、女の子と目線を合わせる。
「ともだちかー。じゃあ今日は遊びにきたの?」
この辺りが地元なのか、女の子は人懐こい笑顔を浮かべてそう訊いてくる。
「遊びにきたんだよー」
「きょうはおまつりとかないけど、いいの?」
「いいのいいの。お兄さんたちは大人だからお祭りがなくても楽しめるんだよ」
成田君の返しを聞いて、女の子は首を傾げる。
「おとなってそうなの?」
「大人は多分、そう。毎日自分で楽しみを作れるの」
私がそう返すと、腑に落ちないという顔をされた。
「ふーん」
女の子の友達らしき子が遠くから名前を呼んだ。
「呼ばれてるんじゃない? 行かなくていいの?」
明るくまろやかな声で、成田君はそう言った。
「あー、いかなきゃ。じゃあね、たのしんでね」
駆け出した小さな背中に向かって私たちは「ありがとー」と大きな声で返す。成田君が敬語を使わずに話している姿を見るのは、ほとんど初めてだ。新鮮でまばゆい。
「成田君って意外に子ども得意なんだね」
「そんなことないです、俺いま結構頑張って話してました」
そんなふうには見えなかった。
「そうだったの?」
しゃがんだまま駅舎の壁にもたれかかろうとしたら、剥げたペンキがつきますよ、と叱られた。まるで子どもを叱る母親みたいだ。
「三波さんは子ども苦手そうでしたね」
「うん。何考えてるかわかんない人、子どもも大人も苦手」
私がそう言うと、成田君は顔をしかめた。めんどくさい、というふうに。
「全部見透かせる人ってそれはそれで嫌じゃないですか?」
「そうかな」
私にはわからなかった。嘘をつけない人のほうが愛おしいに決まっている。
「子どもはまだ未熟だから理解できるけど、大人なのにほとんど見透かせる人はこっちを見下してる気がして嫌です。手のうち曝け出してあげてるけど、どう? みたいな」
その言葉は中村さんをいとも簡単に否定していた。
「成田君って意外と捻くれてる?」
成田君の言っている言葉の意味はわかる。わかっているから嫌だった。好きな人を否定されて怒らない人などいるのだろうか。
「どうなんですかね」
「わからないけど」
「まぁ、半年一緒に働いたくらいじゃ相手のこと何もわからないですよね。俺も三波さんのことあんまりわかっていないと思いますし」
好きになるのに半年もかからなかった。出会って数回のデートだけで。私は中村さんのことを何もわからないまま好きになったのだ。わからないからこそ好きになることもある。私は自分へ言い聞かせるようにそう思う。
「わからないよね。十年一緒にいてもわからない気がするもん」
「十年はさすがに、ちょっとわかりますよ」
「そうかな」
中村さんの奥さんは、と考える。きっとこの先十年も、二十年も一緒にいるのだ。身震いした。ソフトクリームで身体が冷えたのかもしれない。同じように成田君も身体が冷えたのか、彼は思い出したように「定食屋、行きますか」と呟いて立ち上がった。
駅舎から歩いて数分のところに、アーケードのついた商店街はあった。商店街と言っても、錆びたシャッターが閉まった店舗ばかりが建ち並んでいる。私と成田君以外の人は見当たらない。定食屋の存在自体が不明瞭だった。本当に営業しているのか不安に思った矢先、商店街の奥からおいしい匂いが漂ってきた。
「お腹が減る匂いがするね」
「めんつゆみたいな、ねぎみたいな。給食の匂いに似てません?」
「分かる」
商店街の一番端にある店舗に、くたびれた藍色の暖簾が掛かっていた。私たちは顔を見合わせて頷いた。入ってみよう、と。
「いらっしゃいませぇ」
引き戸を開けるとすぐに皺の寄った声がした。奥の席に座っていた腰の曲がったおばあちゃんが歩いてくる。小さい身体ではあるけれど、声ははっきりと届く。きっと長年ここでたくさんの人に定食を食べさせてきたのだ。白い壁の所々に、茶色いシミが残っていた。
「好きなところに座ってねぇ」
狭い店内には小さな椅子と机が並べられていた。椅子にはパッチワークで作られた丸い座布団が敷かれている。おばあちゃんが手縫いしたものらしい。さっきまでおばあちゃんが座っていた奥の席に、縫いかけのパッチワークが置かれていた。
「うわ。カツ丼いいっすね」
真ん中の席に座ってメニュー表を覗くと、成田君は目を輝かせた。食べたばかりのソフトクリームはすっかり胃に溶けていた。店内に充満するおいしい匂いに胃が広がっていく気がした。
「私はどうしよう。あったかい蕎麦にしようかな」
壁に貼られていた「冷やし中華始めました」の文字は一年中飾られていそうだった。もう季節は冬だ。それでもおばあちゃんは淡々と注文をとる。
おばあちゃんが厨房へ入ると、しわがれた二人の声が聞こえてきた。カツ丼と、あたたかいお蕎麦をお願いしますねぇ。おう。お味噌汁とサラダは私が出しておきますからねぇ。おう。出来上がったらまた呼んでくださいねぇ。おう。
おう、しか言わない男性の声は恐らくおばあちゃんの旦那さんだろう。無口なおじいちゃんと手先の器用なおばあちゃんの営む定食屋には、私たち以外の客はいない。本当にこの街にはだれかが住んでいるんだろうか。
おばあちゃんはお盆に二つのお冷、一つのサラダをのせて、厨房から歩いてくる。暖房の音が店内に響いていた。溢さないか不安に思っていたら、成田君が立ち上がった。そして、ありがとうございます、とお盆を受け取った。
あまりに機敏な優しさに感動する。成田君みたいな優しさは、私や中村さんにはない。私は机の上で開いたままのメニューを銀のメニュー立てに戻した。だれかを好きになったときにしか他人に優しくできないのは、悲しい。成田君が羨ましかった。
おばあちゃんが厨房に戻ろうとすると、今度はおじいちゃんが厨房から出てきた。湯気のあがったできたての料理が運ばれてくる。おばあちゃんとおじいちゃんの顔は瓜二つで、一瞬姉弟にみえた。けれど料理を運んできた左手の薬指と、パッチワークを再開した左手の薬指には、同じシルバーリングがはめられていた。やっぱり夫婦なのだ。
「おいしそう。いただきます」
「いただきます」
立ち昇る湯気に顔をほころばせる成田君は子どもみたいで可愛い。弟や年下の従兄弟がいたらこんな感じだったんだろうか。
「うまいっすよ」
成田君は勢いよくカツ丼をかき込む。私も湯気のあがるあたたかい蕎麦をすする。めんつゆの色はとても濃くて、けれど味はちょうどいい。もう年末が迫っている。大晦日になれば、年越しそばを食べる客で賑わいそうだ。冷えていた身体があっという間にほかほかになる。
「三波さんっておいしいと無言になる人なんですね」
「うん、そうかも。夢中になっちゃって」
互いに黙々と食べ進めていると、おじいちゃんがラジオをつけたようだった。厨房から小さく音が漏れてくる。洗いものをする音と、ラジオパーソナリティの軽快な笑い声が混ざる。絶妙に内容が聞き取れない音量のラジオは、私と成田君が食べ終わる頃にはクラシック音楽番組に変わっていた。
「ごちそうさまでした」
「おいしかったです。ずっとここで定食屋をされてるんですか?」
おばあちゃんはゆっくりと口角をあげて
「そうだよぉ。もう四十年か五十年くらいはここにいるんだよぉ」
と私にお会計のお釣りを渡してきた。私は、そうだったんですね、と返事をしながら受け取ったお釣りを成田君へ渡す。拒否しようとする成田君のお財布に無理やりお釣りをねじ込むと、おばあちゃんは
「来てくれてありがとねぇ」
と、小さな籠から棒付きキャンデーを二つ取り出してくれた。おばあちゃんからすれば大学生の私や成田君も子どもなんだろう。ありがたく受け取って店をあとにした。
「優しいおばあちゃんとおじいちゃんでしたね」
「あんな夫婦になれたら幸せだよね」
「きっとなれますよ。俺たちも優しい若者ですし」
真面目な顔でそう言い放ったあと、彼は吹き出した。誰もいないアーケードに笑い声が反響する。そのとき、彼が明確に中村さんとは似ていない表情をしたので、私も安心して笑った。彼を特別に好きになりかけているから誘いにのったわけではない。よかった。恋愛を恋愛で上書きしたくない。成田君が中村さんじゃなくてよかった。
商店街を抜けて、電車の窓から眺めていた景色のなかを歩いていた。自分たちの住んでいる地域と陸続きにある街なのに、どこか遠く離れた島のような気配がするのは人の気配がないからだろうか。駅の周りにいた子どもたちはどこで遊んでいるのだろう。定食屋を出てから石段に辿りつくまでのあいだ、出会ったのは小さな売店のおばさんだけだった。たまたま見つけたその小さな売店であたたかいお茶を買った。
これから長い石段をのぼっていくのだ。石段の周りには葉を落とした樹がたくさん植わっている。私は意を決して一段目の石に足をかけた。ながくなりそうだった。
「これ何段あるんだろう」
「考えたら疲れるんで数えるのはやめましょう」
「そうだね。ちなみに今はまだ、二十五段だよ」
「先は長いんだから黙ってください」
「じゃあ、しりとりでもしようか」
バイト中、私たちはお客さんがいなくなるとよくしりとりをする。
じゃあ俺から始めますね、しりとり。旅行。海。水切り。リモート授業。嘘。ソーダ。だ、うーん、た、にしてもいいルールにしよう、棚卸し。シュリンク。雲。森。理科。カモメ。眼鏡。寝言。遠出。で、で、てにしますね、定期購読。クリスマス。スイカ。神様。まばたき。キュウリ。リモート会議。それありなの? 義母。しりとりで義母って言う人初めて見ました、ぼ、帽子。身長、何センチ? 俺は173センチです、う、でいいんですかね、浮き輪。意外と高いんだね、さっきから夏の言葉で連想してるでしょう、輪投げ。意外とって、余計です、ゲーム。む、む、虫。三波さんも夏で考えてますよね、死海。歯科医? 小学生の頃は夏休みに治療したりするからか、インターネット。歯じゃなくて死んだ海のほうですよ、とじ込み付録。あ、死海、そっちか、よく急にそんな言葉出てきたね、く、くじらぐも。懐かしいな、も、も、も、もー、目次。神社。野菜。インク。クワガタ。体操。運動。腕立て伏せ。三波さん腕立て伏せ何回できます? うーん、五回くらい。か弱いな。守ってくれていいんだよ。それ絶対何人もの男に言ってる言葉でしょう。言ってない、友達にしか言えないからこういうの。俺後輩じゃなくて友達なんすか。友達だね。最近仲良くなりましたもんね。うん? あ、そうそう、最近仲良くなったからね、っていうかしりとり飽きたね。もう続ける気はなかったですけど、やります? やらない。もうすぐ鳥居くぐれますから、頑張りましょう。頑張ろうね。
「そういえば三波さん、指輪してるんですね」
成田君はそう言って、私の右手を指さす。
「よく気付いたね」
「すごく大切そうにつけているな、と思って」
右手薬指にはめているシルバーの指輪には、小さなエメラルドグリーンの宝石が一粒埋められている。この指輪をはめているときに、いつだったか中村さんはこう言ったのだ。
「三波さんは繊細な手をしているね。小説をめくる手が、しなやかで綺麗だ」
それからこうも言った。
「エメラルドは確か、幸福とか新たな始まりって意味があるんだよ」
私に残る中村さんの言葉はいつも幸福をくれた。お気に入りの指輪だった。幸福な思い出は、いつまでもエメラルドグリーンのなかに閉じ込められている。
「思いつめた顔しないでくださいよ」
成田君の言葉で思い出から引き戻される。
長い石段は想像していたよりも短いように思えた。けれど、ダウンを着た身体にはしっとりと汗をかいている。私たちは気付けば、潮風にさらされた朱色の鳥居をくぐっていた。ダウンを脱ぎ、熱くなった身体を冷やす。成田君はバッグから、とうにぬるくなったお茶を出して、そのうちの一本を私にくれた。重いから俺が持ちます、と売店から神社に着くまでずっと持っていてくれたのだ。
「持っていてくれてありがとね」
「三波さんか弱いから、疲れちゃうでしょう」
「確かに少し疲れたけれど」
たどり着いた神社の鳥居は、遠くから見た予想よりはるかに大きい。境内には誰もいないように見えた。どこか厳かな空気に圧倒される。大きな声を出したら叱られそうだった。
「すごく神聖な感じがしていいな。のぼってよかったかも」
境内はほかの場所よりも少し空気がつめたい気がした。
「三波さんって霊感みたいなのあるんですか?」
「えっ、ないよ。でも神社の周りだけ、つめたい気がして。なんとなく神様がいそうだなと思っただけ」
成田君はいつものように目の周りに皺を寄せて
「神様がいるとつめたいんだ」
と笑って、お茶を飲んだ。喉ぼとけが大きく動く。吐く息は白い。私も自分のぶんのお茶を飲んだ。
「わかんないけど、いそうじゃない?」
「うん。いそう。確かここの、境内の奥に縁切りの石があるって」
「縁切りの石かぁ」
境内の周りを囲むように竹が生えているおかげで、日陰になっていて少し暗い。風が吹くたびに竹の葉がさわさわと音をたてた。本殿の左を回りこむようにして奥へ進むと、そこには手水舎のような作りの小さな小屋があった。
「手水舎にしては奥側にあるし、これがその縁切りの石なのかな」
「そうだと思います」
そこには、流れ続ける水のなかに丸く平べったい石がたくさん沈んでいた。そっと手を水のなかに浸けて、一つだけ石を取り出す。凍ったような冷たさに鳥肌がたった。
「なんかぴかぴかに見えるね」
成田君も私とは違う形の石を一つ取り出していた。私たちがこの神社へ訪れた理由はこの縁切り石にあった。思い出に蓋をするのだ。気休めだとしても、なんでもやってみるしかない。
近くにあった石碑に記されている説明を読んだ。私は中村さんと縁を切りたいけれど、成田君は誰との縁を切りたいんだろうか。私はまだ成田君のことを何も知らない。
「この石で水切りをして、七回跳ねたら縁を切れるみたいです」
「七回も? 縁切れなかったらどうしよう」
二年半も引きずった恋愛を、石が七回跳ねただけで忘れられるはずがなかった。
「うーん。あ、そのときは跳ねた回数にプラスして七回になるように、縁を切りたい対象の名前を叫べばいいって書いてありますよ」
成田君も半信半疑という表情で説明を読みあげた。
「例えば三回跳ねたら、四回名前を叫ぶってこと?」
「そういうことですね」
「水切りって川でやるものじゃないの?」
「俺もそうだと思ってます。でも」
この辺りに水のある場所は海しかない。私たちは来た道を戻りつつ、海岸へ行くことへした。電車に乗っていたときは気付かなかった。船着き場から少し離れたところに浜辺が見えたのだ。あれなら歩いていけそうだった。
「でも行く前にやらなきゃいけないことがありますよね」
「そうだね」
境内のなかをぐるりと戻り、私たちは参拝をした。二人して五円玉を投げ入れたあとで成田君が「縁を切りたいのに五円でいいんですかね」と呟いたので、神様へのお願いは良縁祈願にした。
「ここの神社、お焚き上げしてるって聞いたんで服とか持ってきてもらったんですけど、神主さんとかいないんですかね」
「いなそうだよね。というか服とか手紙って燃やしてもらえるの?」
「えっ。燃やしてもらえないのかな」
突然敬語が抜けた彼はやってしまった、という顔をした。事前に具体的なプランを訊いておかなかった私も私だが、お焚き上げは本来お守りや仏壇を炎とともに処分してもらうものだ。
「ちょっと、調べてみます」
スマホで調べようとするも、いらいらした様子で液晶を強くタップしていた。うまく電波が繋がらないらしい。せっかく色々持ってきてもらったのに、とぶつぶつ呟いていた。
「すみませーん」
「どなたかいらっしゃいますかー」
そこまで広くもない境内のなかで神主を探す。すると、誰もいなかったはずの竹林からしわがれた声が聞こえてきた。
「どうしましたかぁ」
背の低いおじいさんはよろよろとしながら出てきた。おじいさんは白い装束を着ていて、定食屋のおばあちゃんと同じような喋り方をしている。
「お焚き上げをしてもらえると聞いてきたんですが」
ながい年月を重ねた皺のある瞼をゆっくりとまばたきさせながら、おじいさんは
「やってるよぉ。燃えるものならなんでもいいのが、うちの特徴なんだよぉ」
と答えた。私と成田君は顔を見合わせて微笑んだ。よかった、と。
ちょうど今日が一年に二回しかないお焚き上げの日だよぉ、とおじいさんは言う。おじいさんは、私たちをお焚き上げの場所まで連れていってくれた。それはちょうど、さっきあがってきた石段の反対側を少しだけ下ったところにあった。ちょうどここにおじいさんがいたから、着いたときには人の気配を感じなかったのだ。
「それで、どれをお焚き上げしてほしいのかなぁ」
持ってきた紙袋を渡すとき、私は成田君にみえないように手紙だけ抜いた。まだ燃やしたくなかった。おじいさんは何も言わずに中身を確認すると
「じゃあ今からお焚き上げするからねぇ。離れているなら見ていっていいからねぇ」
と言った。すでに互い違いに組まれた木材の周りに、お守りや手紙が置かれている。私が持ってきたワンピースや靴も、そこへ並べられた。
おじいさんは布を巻いたながい木材に火をつける。まだ柔らかな炎をゆっくりと組み上げられた木材に近付ける。炎はじわりと移った。香ばしい音をたてて、お守りや手紙が燃えていく。風が吹いた。すると一気に炎が燃え上がり、ワンピースは激しい橙色に包まれた。気付けばすべてが燃ゆるものになっている。顔が熱い。炎の届かない場所に立っていても、冬であることを忘れるような熱気だった。
隣に立っている成田君は、黙って炎を見つめていた。ふと、私の視線に気付いて
「大丈夫ですか」
と言う。まだ瞳は炎を捉えていた。だいぶ煙があがっている。私は、大丈夫、と呟く。これで忘れられるとは思えなかった。黒く焼け焦げた何枚もの手紙が塵になっていく。あのなかに中村さんからの手紙はない。忘れなければならないとわかっていても、忘れたくはなかった。それに、私以外のだれかに消し去られるのが嫌だったのだ。思い出は二人のものだ。最後は私の手でどうにかしたいと、そう、思っている。
お焚き上げは無事に終わった。私たちはきた道を戻り、石段を下りていく。
「私は縁切りしたい相手がはっきりしているけれど」
「はい」
行きは少し憂鬱だった石段も、帰りはすんなりと終わりそうだった。お互いのバッグの中でお茶の揺れる音がする。寒くなってきたので再びダウンを着込んだ。
「成田君も、縁を切りたい相手がいるの?」
「はい」
「それが誰とかって訊いてもいい?」
「うーん。水切り失敗したら教えます、名前叫ばなきゃいけないし」
私と成田君はバイト先が同じという接点しかない。名前を叫ばれたところで誰のことなのか分かるはずがなかった。つまりは言いたくないということだ。なんとなく、深く掘り下げてはいけないような気がした。違う話題に切り替えようと、頭を巡らせる。
「でもこんな旅に誘っておいて、俺の秘密を教えないのもよくないですよね」
と、彼は私よりもゆっくりと息を呑んだ。ポケットに入れた縁切りの石が体温で温まっている。
「この前公園でアイス食べたときに、三波さんには人の幸せを崩すような大人になってほしくないって言ったの覚えてますか?」
「覚えてる」
一段、また一段と石段を下るたびに息が弾む。
「実はその人の幸せを崩すような大人が知り合いにいて」
「そうだったんだ」
一息ついて、石段から眺められる海を遠く見渡しながら成田君は話し続けた。
「これは衝撃なんですけど、俺の母親、不倫してた相手と結婚したんですよ」
成田君が家族の話をするのは初めてだった。
「それは、えっと、お母さんが結婚してて不倫してたってこと?」
「そうです。父親とは離婚して、不倫相手と再婚って感じで」
縁切りの石を時折親指でそっと撫でる成田君は、寂しそうな眼をしている。
「成田君はその不倫相手との縁を切りたいんだ」
「不倫相手と、それからその連れ子も」
連れ子がいるということは、成田君には義兄弟か義姉妹がいるのだ。
「兄弟いたんだ?」
私がそう言うと、なぜか成田君は眉を吊り上げて驚いていた。
「こういう話をして同情の言葉をかけてこない人、初めてです」
「あぁ、ごめんね。何も知らないのに優しい言葉かけるのは杞憂な気がして」
うまく言葉にすることが出来ずもどかしい。私は成田君の気持ちを代弁できるほど、成田君のことを知らない。深く事情を知らない私に悲しまれたり、哀れまれたりするほうが嫌じゃないだろうか。そう思ったのだ。
「大丈夫です。むしろ三波さんが素直な人でよかったです。家族の話をしたときに心配されたり同情されたりするのって、ありがたいけど、そこまで落ち込んでないのになーって思うこともよくあったから」
と成田君は穏やかに言った。
「嫌な気持ちにさせていたらごめんね」
「いえ。話したのが三波さんでよかったです」
石段から見える景色は少しずつ目線が下がっていく。浜辺への距離が短くなっていた。水切りをするのは小学生以来だ。七回も跳ねるだろうか。中村さんとの思い出を振り返るうちに、ひそかにに縁を切りたくないと思っていた節もあった。けれど、ここまで来たら意地でも七回跳ねさせて、縁を切りたいと思ったりもした。もう会えないのだから。私も次へ進まなければいけない。
「不倫相手が嫌なのはなんとなく理解できるけど、連れ子の人と縁を切りたいのはなんで?」
成田君はしばらく考えていた。言葉を探しているというよりも、感情を落ち着かせたいというような間合いだと思った。
「その人は、俺より年上の男なんです。だから義理の兄なんです。いつも女の子に好かれては相手を都合よく扱うんですよ。それでいつも相手を泣かせているから」
「そんな人たくさんいそうなのに」
「自分のことになると途端に感情のやり場を失っちゃうんですよね」
「自分のこと?」
成田君は口を閉ざしてしまった。みんなどこかしら不器用なのかもしれない。私も成田君も中村さんも。自分ひとりで感情をコントロールするのはむずかしい。
「成田君も、私と同じくらい不器用だったんだね」
私がそう言うと、成田君は寂しそうな眼をしたまま笑った。
「もしかしたら。似ていると思ったから、声を掛けたのかもしれません」
中村さんも似たような言葉を言っていた。成田君はやっぱりどこか中村さんと似ている。笑ったときに目の周りに寄る皺や、ふとした言葉の選び方は二人ともそっくりだ。
「このまま歩いていったら浜辺に着きますね」
ながかったはずの石段は、最後の一段になっていた。
海の音が徐々に大きく聞こえてくる。波が押し寄せたり引いたりすることで泡ができあがる。その泡はシュワシュワ、ジュワジュワと消えていく。ゆりかごのように心地よく揺れるリズムは途切れることがない。
浜辺にいたのは見渡す限り、私と成田君の二人だけだった。私の前を成田君が歩き、私はその足跡を追いかける。砂に足跡が残る。ざくざくと残る。私たちはバッグを砂浜へ放り出して波打ち際に向かって走った。息を吸った。吸えた。走っても息が吸える。大丈夫。
「せーのっ」
私たちは投げた。角がとれて平べったい石を二人同時に投げた。水平に跳んだ石が波のなかへ消える。私たちは呆れるように笑った。そりゃあそうなるよね、と。海に向かって水切りをするなんて無理だ。二つの縁切りの石は海に飲まれて沈んでしまった。だからあと七回、名前を叫ばなければいけなかった。
「中村栞!」
この海の先のどこかまで届くような大声だった。私が叫んだ名前と同じ名前を、成田君も叫んだのだ。口を開けたまま固まっていると
「中村栞! 中村栞! 中村栞! 中村栞! 中村栞! 中村栞!」
連続して彼は叫び続けた。微動だにできない私を、ほら叫んで、と彼は私の背中を押す。わからないまま、私も叫んだ。
「中、村! 中村栞! 中村栞、中村栞、中村栞、中村栞、中村しお、り」
声の出し方がわからない。呼吸が乱れた。少しだけ苦しい。部屋を飛び出して走り続けたあの日を思いだした。成田君は私の背中をさすりながら
「それから、栞の父親の中村友則! 友則! 友則! 友則! 友則! 友則!」
と叫んだ。力強くて芯のある声だった。成田君はこんな声をしていたのか、とはっとする。
海は変わらずに波が押し寄せたり引いたりしていた。泡がシュワシュワ、ジュワジュワと消えていく。砂浜に残った私たちは、座ってそれを眺めた。
「水切り失敗しちゃいましたね」
「義理の兄弟ってこと? 中村さんと」
彼が言葉を発した途端、被せるようにそう訊いてしまった。頭で処理できないことがたくさんあった。わからなかった。何もかも。
「そうです」
秘密にしたまま過ごしてしまってごめんなさい、と彼は続けて謝った。心の底から謝っているのがわかった。
「びっくりしすぎて言葉が出てこないけど、別に謝ることでもないよ」
成田君は顔をあげてからこう言った。
「俺、好きなんです。三波さんのこと」
それは今まで聞いた成田君の声のなかで、一番柔らかくて優しい声だった。
「中村が苗字の人はたくさんいるから、最初は人違いだと思ってたんです。だけど三波さんが一回『好きな人が小説好きだから本屋で働き始めたんだ。彼の名前も小説にぴったりで』って言ったことがあって」
あれは成田君がバイトに入ってから三ヵ月が経った頃だと思う。私はまだ中村さんとの恋愛を引きずっていて、よく成田君と話していたのだ。中村さんは素直で、だから嫌いになれないのだと。アルバイトをスーパーから本屋に変えたのも、小説が好きな中村さんとは本屋ならまた出会えるかもしれないと薄い可能性を信じたからだった。結果的に彼はもう結婚をして子どももいて、再会から新しく関係を築くことはできなかったのだけど。
「栞って、珍しい名前だもんね」
栞、という名前が好きだった。けれど、私が中村さんと会話をしているときにその名前を呼ぶことはなかった。栞さんと呼べるほど距離のちかい関係になれなかったのだ。だから私はもらった手紙を小説の栞にしていた。なくさないように。小説を読むたびに思いだしていた。
「はい。それでこの前、栞がうちに来たじゃないですか。バイト先に。レジに戻ってきた三波さんを見たら自分の推測は合っていたんだなと思いました。ああ、三波さんは俺の義理の兄が好きなんだって」
「じゃあ二人はあの時全部知ったうえで、知らない人みたいに振舞ってたの?」
「いや、一応会釈はされました。だけど三波さんは動揺していたうえに、プレゼントの包装をしていたから見ていなかったんだと思います」
「それでも別に隠すことなかったのに」
自分の知らない秘密を知ってしまうと、途端に仲間外れにされたようで寂しい気持ちになった。
「中村さんは私のことを本気で好きじゃないのに、なんで近付こうとするのかな」
「たぶん、責任のいらない愛情が欲しいんだと思います。恋愛も結婚も、深く関係を持とうとすると相手の感情や時間に対して責任をとらなきゃいけなくなる場面が必ず来る。でもそういう場面になると決まって厄介なんだって、昔食事をしたときに言ってました」
責任のいらない愛情。それは愛情といえるのかも定かではないと、私は思った。男の人というのはどうして理性をうしなって人を愛そうとするのだろう。
「男の人って奥さんがいてもそんなふうに思うの?」
「それは人によると思います。俺の周りはみんな責任から逃れたい人ばかりで、なんとも」
ただ、他人から愛情を受け取ることの心地よさは少しわかった。成田君と出会ってしまったからだ。これを責任のいらない愛情とするなら、中村さんの言っていることは少しわかった。
「責任のいらない愛情は、最初はみんな見返りを求めない愛情だから心地がいいのかもしれないね」
「見返りを求めないのが愛情なんですけどね」
成田君はいつも正論をいう。時々それをつめたいと思ってしまう。
「確かに相手のことが好きだとしても、気付いたら相手からの好意を望んでいることなんてしょっちゅうでしょう。見返りを求めないなんて無理な話なのかもしれない」
成田君はうつむいていた私の顔を覗き込んだ。目を見られると心のなかを覗かれているような気がする。真っ直ぐに貫いてくるような瞳だった。
「三波さんが好きで、中村栞のことを忘れてほしくて、俺だけを見てほしくて、誘いました。愛情のつもりだったけど、見返りを求めた我儘かもしれません」
私は目を逸らした。海をみた。一気に言葉を滑らせた成田君は、たぶん私を見つめていた。視界の端で視線を感じている。私は海を見つめていた。だいぶ日が陰ってきて、海が暗く、真昼よりも一段と深くなっているように感じた。
「うん」
そう相槌を打つので精一杯だった。
「俺じゃだめですか」
だめ、という言葉が強く残る。
「ちょっとでも好きになってくれたりしないですか」
言葉を返せない。
「似てるって、思ってた?」
彼の声が微かに震えている。つられて泣きそうになったけれど、ここで私が泣くのは絶対にちがう。どうして泣きたくなるのかもわからなかった。頬の内側を噛んだ。皮膚の感覚に意識がもっていかれて、潤んでいた瞳はあっという間に潮風に乾かされる。なんで私が泣きそうになってるんだ。
「笑ったとき、目の周りに皺が寄る無邪気な姿は、似ていると思ってた」
「やっぱり素直に生きる人は、だれかを傷付けるかもしれないです」
「ごめん。でも」
言葉に詰まり、私は彼の瞳を見つめた。真っ直ぐに私を捉えたその目は、艶やかに光っている。目のふちが薄く赤くなっているのがわかる。
「中村さんと成田君は全然違うと思うよ」
「どういうところでそう思うんですか」
少し怒っているような、そんな顔をした。私は言葉を探した。
「たとえば、成田君はお年寄りのおばあちゃんに対してすぐに気を遣えるでしょう。あれは中村さんにはできない、私にもできない」
「そんなこと誰にでもできます」
やっぱり強気な物言いだった。この先の予想がつくから感情的になっているのだ。
「できないよ、できないの。無意識のうちに動けるのってすごいよ」
「でも」
成田君は黙ってしまった。波の音が静かな時間を埋めてくれた。
「三波さんは中村さんと同じ側の人間だと思いたいんですね。中村さんにも、私にもできない、成田君ならできるって」
それはつめたい言葉だった。軽蔑と悲哀が込められた言葉だ。
「そんなことはないよ。だけど私といたら成田君を傷付けるとおもう」
「傷付いてもいいから好きだって言ってるのに、どうしてそんなに拒絶するんですか」
子どもみたいな顔をして、成田君は泣いていた。男の人というよりも男の子にみえる。乱雑な言葉が可愛いと、思ってしまった。私は知らない間に成田君を見下していたのだとその瞬間に気付く。
「ごめんね」
私は中村さんに言われた言葉と同じ言葉をかけていた。薄々わかってはいた。中村さんは私を見下していたのだ。私なら責任をもって接さなくても大丈夫だ、と。
「だれも悪くないときに謝らないでください」
袖で涙をぬぐう成田君は強くみえた。自分ひとりで自分を守れる人なのだ。
「もっと慎重に言葉を選べばよかったんだと思ったの。自分を大切に想ってくれる人を拒絶するって残虐だから」
「わかんない。好きとか嫌いとかじゃなくて、俺は三波さんと一緒にいたい」
成田君はそう言葉をこぼして、私の肩に頭を預けてきた。甘える姿は年下らしくて愛おしい。けれど、私がいま彼をなぐさめてしまうのが一番だめだ、と怖くなる。
ゆらゆらと沈んでいく太陽が砂浜の私たちを見守っていた。もうすぐ日暮れだ。海にいると、時間の間隔がわからなくなる。波を眺めているだけで、あっという間に時間は流れていく。
「なぐさめるように好きになるのが一番残酷だよね」
「はい」
成田君は頷いた。私のダウンに成田君の柔らかな髪がこすれる。だれかの体温が悲しいと感じたのは、これがはじめてだ。
「傷付いた心を他人で治すのはこわい。そうならないために私はここに来たのに」
彼は靴のつま先で足元の砂を掘りだした。掘るといっても、人差し指の第一関節くらいの深さを。
「三波さん、手貸して」
私が左手を差し出すと、右手、と言われた。
「これ外してもいいですか」
右手の薬指にはめていた指輪を目配せされる。私はそっと頷いた。彼はていねいに指輪をはずす。ふれたら壊れてしまいそうな手つきだった。そして堀ったばかりの砂のあなに置いた。
「綺麗ですね」
そう呟いて、彼は静かに指輪へ砂をかけていった。エメラルドグリーンの宝石が隠れていく。まだ思い出が閉じ込められているその指輪を、私はそっと見守っていた。なにもしなかった。これでいいと思ったのだ。
そのとき、夕方の海岸に沿って等間隔に置かれた街灯に明かりがついた。一気に私たちの夜が延びる。辺りはすっかり暗闇を帯び始めている。冬の夜は短くてさびしい。
「ありがとう」
そう伝えると、成田君は驚いていた。指輪を埋めたことを感謝されるとはまるで思っていなかったらしい。
「自分で区切りをつけるのは怖かったから、ありがとう」
「栞との思い出、まだあったら壊したいです」
素直な物言いに感心しつつ、私は思い出してバッグの中を漁った。
「これ。破ってほしい」
それは、中村さんから居酒屋でもらったお手紙だった。店舗アンケートの用紙に書かれた丁寧な字は、あの夜から何もかも変わらずに残っている。文字が見えたのか、成田君は手紙をひらりと見返してから「本当にいいんですか」と確認をしてきた。頷いた私をみて、しばらく考えてから
「やっぱりだめです」
と突き返してきた。
「指輪はいいのに、手紙はだめなの?」
「そうじゃなくて、自分の手で破ったほうがいいです。誰かに肩代わりしてもらうんじゃなくて、自分の手で責任をもって処分したほうが気持ちの整理になるから」
彼は私の怖がりな性格を見抜いていた。私の奥底にある中村さんに似たところ。
私は、そうだね、ともう一度手紙を手に取った。
「もう終わりにする」
波の音に被せて、紙の破れる音がした。中村さんが書いた文字が半分に切れている。この後、どうしますか? という文字が一つ一つばらばらになるまで何回か千切った。それから、これは駅のごみ箱に捨てようと私たちは砂浜をあとにした。思い出は燃え、沈んで、埋まり、裂いた。海水が、ちゃぽん、と背中越しに鳴る。
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