第5話

 駅のホームに置かれた錆びたごみ箱に、細かく裂かれた紙が捨てられた。三波さんはすっかりと気持ちを割り切れたのか、しゃんと目を見開いて俺の隣に立っている。自分よりも小柄な後ろ姿を見ると、愛おしさが募ってたまらなくなった。

「電車が来るまで待ちましょう」

 俺たちは座っただけで軋む音が鳴るベンチに座り、帰りの電車を待つ。


「栞くんと会ってみる?」

 母親が再婚したのは、俺が高校に入ったばかりのときだった。友則さん、という再婚相手のことは毎週金曜日になると出掛けていた母親の背中から、なんとなく知っていた。母親は、職場の人と食事をするのだと言いながらも、甘い香水を手首やうなじの周りに纏わせていた。単身赴任から帰ってきたばかりの父親は、そんな姿をどう思ったのだろう。想像するだけでいやになった。母親の浮気を知ってから意気消沈していた父親は、息子である俺に親のいざこざを見せてはいけないと思ったのか、口論になっている場面を見ることは一度もなかった。父親は無口な人で、感情を読みづらい人だった。

 二人が離婚する直前の夕方。母親は泣きながら俺に助けを求めてきた。不倫に対しての怒りをぶつけた父親から、責任から、逃れようとしていた。母親に非があることはすぐにわかった。

「おかえり」

 俺が帰ってきたことを知った父親は、何事もなかったかのようにそう言った。目を合わせることはない。母親は震えていた。自分のしたことだろう、と思ったけれど、助けを求めてきた母親の手はあたたかくて、言葉が出なかった。

 そんな母親のことも、嫌いにはなれなかった。母親は再婚するまで事務の仕事をしていた。仕事でどんなに疲れていても温かいご飯を作ってくれたのだ。肉じゃがに唐揚げ、ハンバーグ、おにぎり。母親が作るご飯は温かくておいしい。母親は母親なりに俺を育てようとしてくれていたのだと思う。放棄されたと思ったことは一度もなかった。そういう意味では、父親も母親も良い親なのかもしれないと思うこともあった。そう、思いたかったのかもしれない。

 母親が再婚して一ヵ月経ち、俺は栞と会うことになった。

「栞くんって名前、素敵よね。友則さんが名付けたんだって」

「珍しい名前だよね」

「そんなこと言ったら庵だって珍しいわよ。いおりくん、って幼稚園でも小学校でもいなかったでしょう? 母さんがたくさん考えて付けたんだから」

「言われてみればそうか」

 親からの愛情は感じている。だから、周りの人に母親の不倫が知られて同情の言葉をかけられても、少し他人事のように思っていた。

 駅前にあるファミレスで会うことになっていた。栞と栞の父親は先に着いていると聞いて、俺は緊張していた。書類上では家族でも、栞と会うのは初めてだった。

「優しい人だから大丈夫よ」

 母親は俺の緊張を見抜いてそう言った。親というのはどうしてこうも子どもの気持ちが読めるのだろう。店のドアを押すと、入店を知らせる軽快なチャイムが響き渡る。友則さんを探す母親は、放課後に彼氏とデートをする女子高生のようだった。「こっちだよ」と友則さんが手を振って知らせている。その隣に、栞は大人しく座っていた。

「初めまして、中村栞です」

「庵です。初めまして」

 そう挨拶をした瞬間から俺はしばらく記憶がない。きっと緊張で記憶の限度を超えてしまったのだと思う。知らない人間と家族になるというのはこわい。

 セットでついてくるサラダを無心でフォークに刺して食べていた。母親は友則さんと楽しそうに会話をしていて、ときどき俺や栞に話を振った。栞は特に緊張していないのか、母親や友則さんの話を頷いたり微笑んだりしながら聞いていた。栞のほうが三つ年上ということもあって、当時の俺はその立ち振る舞いに関心した。

 食事が終わると母親と友則さんはすっかり二人の会話に花を咲かせてしまい、店を出てからの俺と栞はあっという間に置き去りにされてしまった。

「なんか置いていかれちゃいましたね」

 栞は困ったようにそう言って愛想笑いを浮かべた。

「ですね」

「庵って、めずらしい名前ですよね」

「栞こそ、めずらしい名前ですよね」

「なんか」

 一呼吸あった。

「似てますよね」

 俺と栞はまったく同じ言葉を発していた。互いに目を合わせて苦笑いをする。

「僕の名前は父親が付けたんですけど、庵くんは?」

「母親です」

 そう答えると、栞はクイズの正解を思いついた、というような顔でこう言った。

「ああ。だから結婚したんですかね。感性が似てる、みたいな」

 言葉が見つからなかった。栞は母親が不倫して結婚したことを知っているはずだった。少しショックを受けていると

「ごめん。庵くんは不本意だよね、こんな家族」

と栞は潔く謝った。

「いえ、大丈夫です」

「僕は正直嬉しかったからさ。自分の母親が苦手だから、親が不仲で離婚したうえに、再婚してくれたことで遠くへ逃げられた気がして安心したんだ。距離をとったほうが仲良くなれる相手はたくさんいるよね」

 栞は平然としていた。生みの母親を苦手だと、清々とした表情で言える感性が俺にはわからなかった。このとき、栞とは生きるときの感覚が違うのだとはっきり感じた。

「わからないです」

 内容の理解ではなく共感ができないという、わからないだった。栞は俺のわからないをわかってくれたようだった。ふたたび俺を見て

「ああ、ごめん。また傷付けちゃったかな」

と困っていた。器用に見えるけれど、不器用なのかもしれない。

「いえ。俺は正直どうしたらいいのかわからなくて」

 栞はなにがわからないのか、というふうに眉をあげた。

「愛されている実感はあるけど、不倫した母親は許せないんです」

 なぜか心の奥底で悩んでいたことを話していた。会ったばかりなのに。心を開いているような実感はなくても、栞にはどんなことを話しても受け止めてくれそうな雰囲気があったのだ。

「母親のことは嫌い?」

「好きですよ」

「それなら悩む必要はないと思うよ。許せないけど好き、でいいんじゃないかな。許す必要なんてどこにもないでしょう」

 栞は一つも同情なんてせずに、かといって薄情にも思えない声でそう答えた。嬉しかった。栞は一度会っただけでも世界が広がったようにさせてくれる魅力をもっている。きっと三波さんは栞のそういうところに惹かれたのだろう。よくわかる。

 今思えば、栞と三波さんはよく似ている。栞の言葉を借りれば、感性が似てる、のかもしれなかった。栞の言葉をよく覚えているのは、きっと俺がその感性を好きだったからなのだと思う。


 好きだったはずの感性が自分の信じていた感性とは違うと感じたのは、もう何回目か分からない家族での食事を済ませたあとだった。初めて会った日から俺と栞は食事のあとに二人きりで話すのがお決まりの流れになっていた。俺は大学一年、栞は大学四年の夏だった。

「そういえばさ、庵くんは恋愛してないの?」

 俺たちは食事をしたレストランの近くにあったカフェで、マンゴーやらプリンやらが乗っかった甘い練乳味のかき氷を食べていた。栞は僕のことは呼び捨てで呼んでよ、と言うくせに、俺のことはいつまでもくん付けで呼ぶ。他人と距離をとることで栞は心の穏やかさを得ていたのかもしれない。

「いないね」

「優しくて好かれそうなのに」

「優しすぎると好かれないんだよ」

「ああ」

 栞は納得したようだった。否定しろよ、と笑えば、栞もつられるように笑った。笑ったときの栞は少年みたいだ。年下の俺でも可愛いと思ってしまうような無邪気さがある。

「栞こそモテそうじゃん」

「うん。僕はかなり好かれるね」

 自信にみちあふれた言葉を冗談のように言うのは栞の癖なのだと思う。俺にはないユーモアが垣間見えて、少し羨ましい。

「そういえばこの前一緒に飲んだバイト先の女の子が、すごく庵くんに似ている人だったよ」

「どういうところが?」

 かき氷はすぐに溶けはじめた。甘ったるく白濁したシロップのようなものがガラスの底に溜まり始めている。急いで食べようとすると頭痛がした。栞はどんどん胃に溶かすように食べ進めている。

「まずとても真面目なんだけど、時折とても大胆になるんだ」

「もう恋人なんだ?」

 すべてを把握しているかのような言い方だったから、思わずそう訊いた。すると

「いや、僕は恋人になりたくないんだよね。周りの大人を見ていたら、恋愛に支配されたくないと思うように育っちゃったよ」

と呆れたようにそう言って、笑っていた。悲しそうにしている気がしたけれど、栞は自分の感情を隠すのが得意だから、俺には栞が本心ではどう思っているのかわからなかった。

「じゃあ告白されたらどうすんの」

「残念ながらお断りさせていただくかな」

「残酷だね」

「優しさがゆえに傷付けたくなくて告白を受け入れて、感情移入したところで別れを告げるほうが残酷だと思うんだよね」

 過去にそういう経験をしたことがあるか、そういう人を見たことがあるような言い方だった。栞は感覚で生きているように見えるけれど、意外と頭で考えて動いている。それは余計に栞が何を考えているのかわからなくさせていた。

 それから一ヵ月が経ったとき、栞は恋人をつくっていた。

「恋人つくりたくないんじゃなかったの?」

「いまの恋人に出会ってから考えが変わったんだよね。私だけを見てほしい! みたいなことを言わない人だから安心できるんだ。女の子っていうのは距離が近づくと火傷しそうになる」

「栞は猫舌だもんね」

 俺が真顔でそう言うと、栞は無邪気に、はは、と笑った。

「それで、その人ってこの前話してた人?」

「いや、違う子」

 あっさりと否定された。

「じゃあこの前の人は断ったんだ?」

「告白されてないから、特になにも言わないよ。好きでいてくれると嬉しいとは思うけどね。嫌われて嬉しい人はいないでしょう。いつかは終わるって、相手だって気が付いてると思うよ。結構勘が鋭い子なんだ」

 俺はこの栞の発言がどうにも引っかかった。多分、栞が二股している姿と母親が不倫している姿が重なったのだと思う。相手がどう受け取るか考える隙もなく、俺は

「栞は俺の母親に似ているね」

と言った。栞は思いも寄らない言葉で驚いたのか、自分が俺の母親に似ているとは思わなかったのか、とにかく黙ってしまった。

「簡単に人の気持ちを踏みにじるような人は嫌いだな」

 俺はそう続けると、栞は珍しく悲しそうな顔をした。

「母親のことも嫌いになれないんだから、僕のことも嫌いになれないと思うよ。それにしてもそんなに怒るなんて、めずらしいな。実の父親に感情移入したのかもしれないけど、庵くんの母親だって別に庵くんの父親を嫌ったわけじゃない。いずれ別れる未来の予定が早まっただけだと思うけどね」

 どうして栞が悲しい顔をしたのか理解ができなかった。栞は相手を傷付けておきながら、自分が傷付いたという表情をする。その姿もまた、おそらく父親と口論をしたあと俺に泣いて助けを求めた母親にそっくりだった。


 それから二年が経ち、俺は三波さんに出会ったのだ。三波さんは俺が仕事に慣れてきた三ヵ月目くらいから自分の話をよくしてくれるようになった。幼い頃よく読んでいた絵本はこれだったんだよね、とか、初恋のきっかけは小学校の席替えで隣になったからだった、とか、熱いスープも臆せず飲むタイプなんだ、とか。素直になんでも話してくれる人だから、俺も信頼して自分の話をした。

 仲良くなるにつれて三波さんは二年前から引きずっているらしい恋愛の話をするようになった。どうやら三波さんは彼のことを相当好いていたというのが、噛みしめるような物言いから伝わってきた。

「中村さんは小説が凄く好きな人で、家の本棚にも小説がたくさん並んでた。棚に小説を並べているときも思うんだよね。ああ、この作家さんの小説を多めに読んでいたなぁ、とか。新刊は読んだかな、きっと気に入るだろうなって。だけど、もう会うことはないし、いま小説を読んでいるかどうかも知ることができないから悲しい。好きだったことに後悔はないんだけどね」

 だった、と過去形で喋る割には未練が残っているのがわかる。あまりに好きだったから、受け入れるまでこんなに時間がかかっているのだろう。

「三波さんってもしかしなくてもマジで失恋引きずるんですね」

「誰でも二年半くらいは引きずるでしょう」

 そこまで誰かを好きになれるのは素敵だ。三波さんが好きな人について話しているのを聞くのが好きだった。お客さんがいなくなると、窓の奥にある駅前の雑踏を見つめる三波さんは、暗闇に浮かぶ月みたいで綺麗だった。

「いや、流石に長いです。二か月の間違いな気がします」

「それはもうさ、好きじゃないに値すると思うんだけど」

「本気で好きなんですね、その、中村さんのこと」

 中村、という苗字には聞き覚えがあった。栞だった。親が再婚したとき、俺は父親の苗字のままにしてもらっていた。なんとなく名前を変えることに抵抗があった。だからあまり自分の身近にある話には感じなかったけれど、俺を除いた三人の家族の苗字は中村だった。

 だからさすがに驚いた。本当に栞が本屋へ立ち寄って、三波さんが対応をしたあと彼女の身体が微かに震えていたときに。ようやくはっきり気が付いた。

 栞が俺に似ていると話した女の子は三波さんで、三波さんが好きなのは栞なのだと。

 すっかり生気を失った三波さんの様子から、まだ栞のことが好きで仕方ないのだと分かった。そして、俺は三波さんを好きになっていた。だから声をかけたのだ。傷付けないようにそっと優しく守りたくて。


「あ、電車来たかも」

 ベンチから立ち上がった三波さんは、子どもみたいな笑顔を浮かべている。まだ一緒にいたいと思いながら俺も立ち上がる。ベンチの軋む音が、ホームへ到着した電車の音でかき消された。

 三波さんを追いかけるようにして乗り込んだ車内は、自分たちの街へ帰ろうとしている人で溢れていた。座らずに、窓から景色のみえるドアの側に立つ。もうすっかり夜だ。窓越しの街に幾つもの小さな灯りがともっている。発車のベルが聞こえたのと同時にドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。

 今日は随分と歩き回ったせいで疲れさせてしまった。ドアに肩をもたれかけて窓から外を眺めている三波さんは、しばらくぼうっとしてから

「外が暗いから反射しちゃって、成田君の顔を眺めてるみたいになっちゃった」

と小さく微笑んだ。それはもう、誰にも傷付けさせないと誓える笑顔だった。

「三波さんの笑顔を見ると、守りたくなります」

「どうしたの? 急に」

「ずっと思っていたことを言っただけです」

 海は暗闇に覆われていて、そこにあるのかどうかすらも不確かに思えた。さっきまでいた街はどんどん遠ざかっていく。窓に映る三波さんは、とても満ちたりた瞳をしていた。まるで長い眠りから目覚めたときの幸福を味わっているようだった。

「ありがとうね」

「いえ、こちらこそ。今日は俺の我儘に付き合ってくれてありがとうございました」

 沈黙があった。ながく感じる夜だった。

「人は傷付く必要があるんだよ。傷付くことで覚えるしかないんだと思った。私みたいに、諦めの悪い人間は特にね」

 三波さんは窓から目を逸らして、俺の瞳にそう言った。言葉にしなくとも、いまの言葉が俺の失恋を意味していることはすぐにわかった。

「三波さんはいつも窓越しに誰かを探していますよね」

「そうかもしれない」

「いつかその誰かが俺になることを願ってます。俺もまた、諦めの悪い人間なんです」

 途端に電車が揺れて、停車した。まだ最寄りの駅までは遠い。それでもタクシーを呼んで帰ろうと思った。もう一緒にいてはいけない。一方的に好きだと気が付いてしまったら、傷付くことしかできないのだ。

「俺、ここの駅で降ります。もう暗いから、帰りの道は気を付けてください」

 唐突にそう告げて電車から降りようとしたとき、三波さんは俺を引き留めようとはしなかった。またね、と手を振ってくれた。俺は栞と違って、またシフトが被ればバイト先で会うことになるのだから、その挨拶に深い意味がないことはわかる。俺は軽く会釈して、改札へ走った。俺たちを見守ってくれていたはずの三日月は、ホームの屋根ですっかり隠れている。欠けた月はいずれ時間が経てば満月に戻る。俺の欠けた心もいずれ満ちたりた心に戻るのだろうか。

 改札を出ると、知らない街の夜景が一望できた。一人で夜景を眺めた。一緒に見たかったな。後ろを振り返ると、三波さんが乗っていた電車はとっくに見えなくなっている。夜景の小さな光は涙で滲み、空に満ちあふれる星のように煌めいていた。

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さめない夢に栞をはさんで 鞘村ちえ @tappuri_milk

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