蛇足

 あいつは端から、私のことなんか眼中にもなかったんだな。

 その事実にようやく私が気がついたのは、現在から一ヶ月前。私と日向がちょっとしたお祝いパーティーをやっていた、例の初雪の日のことだ。

「もしもこの先、私が柚葉の足を引っ張るようなことがあったら、そのときは潔く切り捨ててほしいかな、なんて」

 この一言で、私は思い知らされた。日向が見ているのは私じゃない。私の偶像アイドルなんだって。

 日向と同じくらいアイドルが大好きで、日向と同じくらい武道館という目標に一途で、夢を叶えるためなら相方を切り捨てることさえ辞さないほどに、ひたむき。日向が思い描いている私という人間は、きっとこんな感じの偶像なんだと思う。じゃなきゃ、あんな的はずれな台詞が飛び出してくるはずがない。

 本当、なんて酷い勘違いなのだろう。私はただ、日向の隣にいたいだけ。日向に私を見てほしいだけ。アイドルも武道館も、本心ではどうでもいいって思ってるのに。いつも遠くを眺めてばかりで、すぐ隣にいる私のことを見てくれないから、こんな思い違いをし続ける羽目になるんだ。馬鹿だな、日向は。

 だけど、馬鹿なのは日向だけじゃない。私もだ。

 だって私は、ただの今まで信じていた。夢とか理想とか目標とか、そういう抽象的な言葉で表されるような遠い景色だけじゃなくって、横にいる私のことも少しくらいは見てくれているんだって。

 でも、現実はそうじゃない。日向にとっての私はあくまで同じユニットの相方であり、それ以上でも以下でもない。アイドルという共通項を取っ払った等身大の私には、興味も好意も執着も何一つ抱いてくれてはいないんだ。

 日向を花火に誘ったときのことを思い出す。あのとき私は、純粋に日向を元気づけたい一心だった。だけど日向の頭の中にあるのは、SNSでの営業のことだけだった。私には尻餅をついた日向の画像をネットに上げるつもりなんて、さらさらなかった。私たちだけの思い出に留めておきたいだけだった。なのに日向は、私の真意に思い至りもしなかった。

 義眼の件を打ち明けたときのことを思い出す。話を切り出す前は肩が震えて、口の中がカサカサに乾いた。だけど日向から特別な反応が返ってくることはなかった。当然だろう。日向にとっては私の過去も身体的な特徴も、どうでも良いことなのだから。あれは私に対する気遣いの表れではなく、単なる無関心の表出に過ぎなかった。

 二人で幾度となく撮った自撮りのことを思い出す。私は日向と肩や指先が触れ合う度に、心臓がドクンと跳ねて性懲りもなく身体が暑くなるのを感じていた。だけど日向にとってそれは、単なる百合営業の一環でしかなかった。ちょっとやそっとの身体的な接触なんて、どうでもいいことだった。

 冷静に振り返ってみれば、日向が私を何とも思ってないことくらい火を見るよりも明らかだ。アイドル以外の私にも関心を向けてくれるだなんて、どうしてそんな思い違いをしてしまっていたのだろう。

 嘲りの言葉がぽこぽこと湧き上がり、胸の中を埋めていく。だけどその一方で、心の一部はやけに平然としてもいた。

 だって私は、この気持ちを日向に伝えようなどと考えたことは一度もない。なら日向が私の実像に気づかないのは、ある意味で好都合とも言える。都合のいい偶像だけを眺めてくれていれば、失望した日向に見限られることもないのだから。

 どうか一生、私に視線など向けないで。

 遥か遠くの夢だけを、永遠に見つめ続けていて。

 そしたら私はずっと、貴方の隣にいられるから。

 だけど、そのささやかな願いすら、叶えられることはなかった。

 よく冷えた三月の夜。いつものスタジオ連の帰り道。街行く人の数は疎らで、青になった信号を渡っているのは私と日向の二人だけ。

 私たちはいつも、横並びになって歩いた。心がどこまでも平行線なのと同様に、交わることのない縦線を同じペースで辿っていた。

 だから本当は、横断歩道にトラックが突っ込んできたとき、私も一緒に肉塊になるはずだった。

 走馬灯なんて洒落たものは流れなかった。だけど映像がスローに見えるというのは本当らしく、刻一刻と迫りくるトラックの車体を眺めながら、あ、死んだな、なんてことをぼんやりと考えていた。

 ――とん、と。

 唐突に、何かに強く肩を押された。

 それで魔法が解けたみたいに、スローだった世界が一倍速へと回帰する。気づいたときには私の身体は尻餅をついていた。目と鼻の先の距離には銀色のトラックの車体があった。顔面がやけに暖かいので拭ってみたら、手の甲が真っ赤になった。舐めてみると案の定、鉄の匂いと味がした。

 恐る恐る、顔面を水平方向に旋回させる。

 トラックから十五メートルほど先の路面に、誰かが大の字で横になっていた。

 一歩、また一歩と近づいていく度に、新鮮な血と臓物の匂いが濃くなった。

 季節外れの彼岸花を一面に撒き散らしたかのように、放射状に伸びる赤い血溜まり。その中央で寝そべっている肉塊は、両腕がひしゃげ、両脚が潰れ、肋骨が突き出て、顔面の片側は潰れ、右の眼窩からでろりと眼球が飛び出していた。頭部では目に痛い朱色と透き通るような銀色が、美しいグラデーションを成していた。

 重力に抗う気概が消え失せた。崩れ落ちるように膝をつく。

「……ひな、た?」

 どうしてだろう。呼び慣れた名前のはずなのに、やけに舌先が強張った。見知らぬ他人の名を読み上げているかのように、発音が覚束なかった。

 そんな拙い呼び方であっても日向の耳には届いたらしく、血まみれの顔面をのろのろと私の方に向けてきた。その反動で、眼窩から飛び出ていた眼球が振り子のように左右に揺れた。左目は無事なようだけど額から流れ落ちる血が表面を赤黒く覆っていて、まともに見えているかは相当怪しい。

 ひゅ、と空気の通る音がした。見れば、唇が僅かに縦に開かれている。ただの呼吸かと思ったけれど、断続的にぷるぷると震えながら変形する唇を見て、何か言おうとしているのだと勘づいた。私は咄嗟に耳を口元へと近づけて、日向が最期の言葉を声に出すのを待った。

 だけど、そうして発せられた遺言は、私の思い描いていた言葉とは程遠いものだった。

「……ごめん。これじゃキャラ、被っちゃうね」

 最初、何を言われたのかわからなかった。音自体は聞き取れていたのだけれど、日本語への変換結果が明らかに間違っていた。何度も何度も脳内でリピートし、正しい変換を導き出そうと努力する。再生の度に間違いであってほしいという願望が膨れ上がって、再生の度に間違いなんかじゃないという絶望が胸を覆った。

 そしてようやく、聞き間違いではないという現実を受け入れた。

 最初に訪れたのは、呆れだった。

 この期に及んで気にすることがキャラ被りって、あんた、状況わかってるの? もっと他に言うことあるでしょ? どれだけアイドル馬鹿なんだよ。流石に、呆れるんだけど。

 でも、それも仕方ないのかな。だって日向は、アイドルのこと以外には興味なんてないんだもんね。武道館っていう輝かしい夢の前では、私なんか霞んで見えなくなる程度の存在でしかないんだもんね。私に対する個人的な言葉なんて、期待するほうが馬鹿なんだよね。

 わかってる。わかってるよ、そのくらい。

 でもさ。せめて今際の際くらい、私のことだけを考えてくれたって、いいじゃん。

 キャラ立ちなんて、どうでもいいよ。アイドルなんて、クソ食らえだ。

 そんなことより、私を見ろよ。

 そんなことより、私を見てよ。

 ……お願いだから、私を見てよ。

 呆れはいつしか諦めに変わり、諦めはいつしか憎しみに転じ、憎しみはいつしか子供の我儘じみた切望へと変化していた。

 気づいたときには、瀕死の日向に馬乗りになっている自分がいた。血の朱色に彩られた白いうなじに、そろりそろりと両腕を伸ばしている自分がいた。

 日向の右瞼は既に閉じられている。私に跨がられていることにさえ気がついてないだろう。その証拠に、日向は自己満足と自己陶酔に満ちた微笑みを湛えながら、訥々と遺言を垂れ流し続けていた。

「でも、良かった。……柚葉なら、絶対、行けると思うから」

 武道館。

 その言葉が現実のものになる前に、日向の首を絞めていた。

 思い知らせてやりたかった。私にとってはアイドルなんてどうでもいいんだっていう事実を。必死に築き上げてきたアイドルとしての虚像より、今ここにある日向への気持ちの方がよっぽど大切なんだっていう現実を。

 失望、させてしまうかな。それならそれでいいや。どうせ、これでお別れなんだし。

 だからお願い。最期くらい私を見てよ。今ここにいる生身の私を。都合のいい偶像なんかじゃない、ありのままの私を。貴方の隣にいたいばかりにメジャーデビューまでしてみせた、笑っちゃうくらい馬鹿な私を。

 日向が呼吸を止めるのと、私が気道を押し潰すのと。どちらが先だったのかはわからない。わかりたいとも思わない。

 私の好きだったあの子は、最初から最期までアイドルとしての私だけを瞳に映して、死んでいった。

 私にとっては、それだけが真実なのだから。


     /


「……ま、要するにそういうことです」

 蛇足でしかない解説を締めくくると、私は頬杖を付きながら横を向いて薄汚れた壁を見やった。刑事さんが今どんな顔をしているのかなんて、知りたくもなかったから。

 頭部の重さを支えている方とは反対側の手のひらを机上において、指先でコツコツと天板を叩く。私が喋れることは、これで本当に話し尽くした。あとは刑事さんが何らかの声を発するのを待つだけだ。それ以外に出来ることなんて何もない。

「――取り調べは以上で終わりです。長々と突き合わせてしまって、申し訳ありません」

 事務的な口調に釣られるようにして、顔を正面へと戻す。いつの間にか刑事さんの容貌はハーンズファンとしてのものではなく、一人の警察官としての理性的なそれに立ち返っていた。

「ようやく終わりですか。あーあ、長かったぁ」

 私はぐっと伸びをして、それから、もののついでのように訊ねる。

「で、結局、私は罪に問われるんですか?」

「その質問には答えかねます。私はあくまでも取り調べを担当しただけですから。起訴か不起訴かを決めるのは、警察ではなく検察の仕事です」

 刑事さんが音もなく席を立つ。そのまま踵を返すのかと思いきや、唐突に何かに思い至ったかのような顔になる。

「ただ、そうですね。推しに裏切られたファンとして、最後に一つだけ呪いを残しておこうと思います。三神さん、貴方の気持ちが報われることは万に一つもなかったはずですよ」

「でしょうね。日向が私個人に関心を向けるはずがありませんから」

 何を当たり前のことをと言わんばかりの、侮蔑混じりの口調で言った。だけど刑事さんは呆れる私の顔を見て逆に呆れたとでもいうような表情で、わざとらしくかぶりを振った。

「その解答では三角ですね。だって、日向さんの立場からの答えしか含まれていませんから」

「……どういうことですか?」

 訝しげに訊ねる私に対し、「気づかないんですか?」と刑事さんが訊き返す。その瞳には蔑みにさえなりきれない憐れみの感情が込められているようで、私は理由のわからない怖気を覚えた。

「だって三神さん、さっきから笑ってるじゃないですか」

「は?」

 恐る恐る手のひらを口角に当ててみて、愕然とした。確かに、私の口角は僅かに吊り上がっていた。

「……え。なんで、笑ってるんだろう。だって、今までの話で笑うようなところなんて、何処にもなかったはずなのに」

 私は本気で混乱していた。自分という人間が得体の知れない怪物に置き換わってしまったかのようで、気持ち悪いことこの上なかった。

 刑事さんは心の底から気の毒そうな眼差しを私へと向けながら、この日二回目の下らない憶測を口にした。

「三神さんは、首を絞めたときでさえ自分には見向きもしない見峠さんのことが、好きだった。それだけの話じゃないんですか?」

 それは多分、刑事としての推理でもファンとしての願望でもない、一人の人間としての言葉だった。

 そして、この日初めての当たらずと言えども遠からずな推理だった。

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クビシメアイドル 赤崎弥生 @akasaki_yayoi

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