ノスタルジアの星の下で

兎ワンコ

本文

「知ってる? うちの高校のプールの中で、火のついた蝋燭を消さずに四隅を触った人には、願いが叶うんだって」


 そんな迷信めいた噂が広まったのはいつからだろうか。

 教室を支配する話題がやがてプールでの阿呆なチャレンジになったのは一週間前のことだ。

 となりの三組で占いや占星術にハマっている女の子を筆頭に、オカルト熱に浮かされた取り巻きの計三人が土曜日のプールに侵入し、例の噂を実行した。彼女らが成功したのか失敗したのかは知らない。だが、駆け付けた警備員に捕まったことだけは確かだ。

 教室は謹慎中の彼女らの話題で盛り上がっている。そんな喧騒がイヤになって、足早に教室を抜け出す。

 私の通う学校は俗にいうミッション系の女学校で、私の親と同様に、親が心身深いという理由で通わされている子が多く、変わった子ばかりが集う。二次元や非現実に身を置くことが、彼女たちの至高。私には受け入れられない、現実。

 メルヘン世界の中に、私ひとりだけ。まるで不思議の国のアリスみたい。

 みんな、性懲りもなく実ることのない恋と届くはずのない世界を夢見てる。正直に言って、ほとほとうんざりしていた。

 そうして私が行きついた先は、屋上に続く階段。今は物置となっており、使われなくなった机や椅子がジャングルジムみたいに積み上げられている。私は細いパイプを潜り抜け、屋上へ続く扉の前まで来ると、私は階段に腰を降ろした。


 階段室は薄暗く、踊り場にある灯り取りの窓以外に光源はなかった。でも、その薄暗さがちょうどいい。私はブレザーの内ポケットから一枚のポラロイド写真を取り出し、じっと見据える。

 ポラロイドには体格のよい清涼感に満ちたバスケユニフォームの男の子とぎこちない笑顔でこちらに微笑んでる私。四年前の中学二年の時、大野先輩と一緒に撮った写真。引退直前の、唯一撮れた写真。

 あの頃、誰もが彼に憧れた。妥協を許さず、いつだってひたむき。おまけに甘い顔だち。女子のハートを捉えるすべてを兼ね備えた人に私もみんなが夢中だった。

 早朝、スマホに中学来の友人からの衝撃ニュース。

『大野先輩に彼女ができたって』

 私の心を破壊するのには、充分な一文だった。相手は誰なのか知らないし、知りたくもない。この珍妙な場所で、先輩という存在は私にとって希望の光だった。

 叶わぬ恋といえど、想ってるだけで毎日を乗り切れた。でもいまは……。

 胸の奥がギュッと引き締められる。なにもかもどうでもいい。


「キモ」


 不意に発せられた声に身を震わせた。声の主を探すのと、写真をポケットにしまうのはほぼ同時だった。

「今どきポラロイド写真で好きな男を眺めてるやつなんて、そうそういないよ」

 見られた。けど、棘のあるいい方にムッとする。私の視線がやっと背後――二つ積み上げられた机の上にあぐらをかいて座る人物を捉えた。薄暗くて誰だか視認できない。目元に溜まった涙を拭い、言い返してやる。

「別に関係ないでしょ」

「関係ありまくり。ここ、私の居場所だから」

 件の人物が陽射しの元に顔を出す。途端に、息が詰まりかけた。

 百瀬ももせ里音りおん

 細い眉毛に、鋭い眼付。こめかみから耳の後ろまで刈り上げられ、長い横髪からチラリと見える耳たぶには金色のピアスが光っていた。

 百瀬里音の噂は絶えない。マッチングアプリで会った男に身体を売ってるとか、他校の男子となん股も掛けているとか、駅前のドラッグストアで万引きして捕まったとか。耳にするのは、どれも悪いものばかり。

 チャカリと音を立てながらオイルライターの蓋が開け、喫煙者特有の手慣れた動作でタバコに火をつける。途端にムスクのように甘い煙が漂い、不快感からエホンと咳払いした。当の百瀬さんといえば、悪びれる様子もなく鼻から煙を吐き出している。

「なに? 先生にいうつもり?」

「別に。そんなつもり、ない」

「あ、そう」

 本当はいう勇気なんかないのが正解。粋がってみたけど、まさか、相手が不良だとは思いもしなかった。

「とりあえず、一服してるから静かにしてくれない? 先生きたらヤバイから」

 百瀬さんに言われるがまま、私は黙ることにした。

 気まずい空気がタバコの煙に混じって漂い、私の肺を重くさせる。苦しい空気に耐えられなくなり、口を開いた。

「ねえ。なんで百瀬さんはこんなとこにいるの?」

「知ってるんだ、私の名前」

 言い終えたあと、フゥーと煙を吐き捨てる。差し込む光が煙に混じって、やがて消えていく。

「タバコ吸うのにベストな場所だから」

 至極当然の答え。それに、と付け加える。

「教室じゃあくだらない噂話まで流れてるしね」

「それ、百瀬さんのこと? それともプールのやつ?」

 フィルター越しに煙を大きく吸い込み、肺に溜まった煙を吐きながら「どっちも」

「ホント、どいつもこいつも人のことをあーこー言うのが好きだよね。みんな、理解するのが疲れるから、理解しない方向に持っていきたいんでしょう」

「どういうこと?」

「みんなさ、自分の知ってること以外は知りたくもないし、興味を示さない。だから、合わなそうなやつは自分たちとは違う世界の住人として、追い出したいんだよ」

 なるほど。共感できる心理だ、と素直に思う。

「百瀬さんって、すっごく哲学的なんだね」

 馬鹿にされたと思ったのか、ムッとした表情のまま私に照準を合わした。


「あんたもくだらない。おおかた、告白できないでウジウジ写真を眺めてるだけなんでしょ?」


 ドキリとし、思わず視線を逸らした。スカートの端っこをギュッと握る。

「図星でしょ。顔を見ればわかるよ」とタバコを挟んだ指を向ける。

 だって、仕方ないじゃない。先輩は高根の花で、みんなけん制し合っていたんだもん。それに、卒業するまでは彼女がいたんだし、と心の中で愚痴る。

「あんた、名前は?」

「樋口ユウ」

「そう」

 吸っていたタバコを蓋付きのコーヒー缶の内側で揉み消し、無造作に放り込む。

「その男、同級生?」

 首を横に振る。

「違う。中学の部活の先輩」

「そ」

「ずっと、好きだった。でも、今日……友達伝てで、彼女ができたって」

「あ、そう」

 会話が途切れ、また沈黙が訪れる。百瀬さんが二本目のタバコを口に運ぶ。無言でじっと見ていると、煙を吐き出しながらいった。


「やっぱ、ぜんぶくだらない」


 やれやれといった様子で、百瀬さんは机から飛び降り、私のとなりに座った。

「でもあんたが気に入った。だから、今日の夜、すべてがくだらないってこと、証明しようよ」

 唇の端を吊り上げて不敵に笑う。ニコチン臭い息がかかったが、なんだか悪い気がしなかった。



「ねぇ、本当にやるの?」

「やるよ。だからあんたも来たんでしょ?」

 深夜の学校に私たちはいた。

 スエットパンツに厚手のパーカーを羽織った姿で校門の前に現れた私に、百瀬さんは黒のショートパンツにダブダブのTシャツ姿で、煙草を吹かして待っていた。

「イヤなら帰れば?」

 タバコを足元に落として靴底で踏みにじる。肩からはブラ紐がチラチラと覗く。同じお嬢様学校の生徒とは思えない。

 真夜中の学校というのは静寂さも相まって不気味で、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。だが、百瀬さんは足元に置いていた大きなショルダーバッグを持ち、校門横に設置された人ひとり分のゲートを押し開け、ずんずんと進んでいった

「校舎に近寄るとセンサーが反応して警報鳴るから、あんまり近寄っちゃだめ」なんて忠告するもんだから、大人しく彼女の背中を見つめて歩いた。そんなことを知っているなんて、やっぱり不良なんだと再認識した。

「ねえ、もうすぐ夏なんだし、先でもいいんじゃない?」

「もう暖かいでしょ? この時期だからいいんじゃない」

 おっしゃる通り。実際、となりの連中も三組の連中はもう少し寒い時期に入ったし。

 プールの前に辿り着くと、入り口に回らず、鞄から大きめのニッパーを取り出し、躊躇ちゅうちょなくバツンバツンとフェンスの網を切っていく。

「すごい」と漏らす私。「まるで強盗みたい」とうっかり本音を漏らす。

 百瀬さんはキッと睨みつけ、「悪い?」

「こんなの、どこで覚えたの?」

「ドラマで見ただけ。このニッパーは親父から勝手に借りた」

 なんとワイルドなことだろうか。クラスの女の子たちが見たら、きっと卒倒するに違いない。

 切られたフェンスを押し退け、プールサイドに身体をあげると真っ黒な水面が視線に飛び込んだ。昼間見ていたあの青々しい印象とは裏腹に、夜のプールは校舎以上に不気味だった。近くに建てられた常夜燈の灯りで、辛うじて底に描かれたガイドレーンの表記が揺蕩って見える。

「それで、プールに入ってローソクに火ぃ付けてグルグル回るんだっけ?」

 百瀬さんの言い方には語弊があるが、だいたいはあってる。

 私はスエットパンツの紐をきつく縛り、着ていたパーカーと靴と靴下も脱いだ。下に長袖のTシャツを着ていたが、外の空気はちょっぴり肌寒い。下着で入ろうかと考えたが、さすがに恥ずかしいのでやめた。一方、百瀬さんは着替える様子もなく、また鞄を漁っている。

「百瀬さんはやらないの?」

「私?」と半笑いする。「私の願いなんて叶うわけない。だって、そう簡単に手に入るものじゃないって、知ってるから」

 それってどんなお願い事なんだろうと考えていると、私の前に何かが散らばった。真っ白なローソクに百円ライター。それと、手のひらサイズの燭台。燭台は黒色で、一本だけローソクを立てる柄の長いもの。

「これでいいんでしょ?」と少し頬を膨らませて小首を傾げる百瀬さん。小悪魔な笑顔だ。やはり、私だけやるのだ。

 しぶしぶと備え付けられていたハシゴに手をかけ、ゆっくりとプールに入る。

 つま先からゆっくりと入る。まだ昼間の熱を残していたが、体の熱が奪われていくのがわかった。腰まで入ると身震いしたが、肩まで浸かるとどうってことはなかった。

 ローソクを手に取り、ライターを掴む。が、ライターは回転ヤスリが備えられているタイプで、とてもじゃないが怖くて火なんかつけられなかった。躊躇していると百瀬さんが私の手から奪い取ってローソクに火を灯した。

「失敗したらどうしよう?」と私。

「そしたらもっかいやればいいじゃん」

 拗ねたい気持ちを隠し、燭台にローソクを刺し、恐る恐るプールの中を歩き出す。

 歩き出して少し、高地から吹き下ろす風が髪と火を撫でて、その炎を小さくする。私は慌てて左手で覆うが時すでに遅し、ロウソクの火は消えてしまう。

「消えちゃった」

 独り言ちるが百瀬さんは「もっかいだね」と冷めた返事。腹が立つ。

 私はもう一度プールサイドに寄り、おっかなびっくりしながらまた火をつける。


 それからというもの、挑戦しても何度も何度もローソクの火は消えてしまう。

 気が付けば月は頭上まで昇り、タバコの吸い殻がどんどん積み上がっていく。

 十何回目かの失敗で、私の心はすっかり折れた。ダメだ、できない。自棄的な気持ちが高まる。どうせ何やったって、上手くいくわけがない。

 正直、こんなことをする意味があるのだろうか? 私はいいように百瀬さんの暇つぶしに付き合わされているだけじゃないのか? もう次で消えたらやめよう。百瀬さんだって、飽きたに違いない。

 プールサイドに近寄り、またライターを握る。もう回転ヤスリの扱いにも慣れた。

 濡れた左手で火を覆うとした時だった。


「隠してるから、消えちまうんだ」


 不意に届いた言葉。思わず百瀬さんに振り返った。


「消えてしまわないように、なくさないように隠してるから、逆に消えちまうんだ。あんたに足りないのは、馬鹿になる勇気だよ」


 百瀬さんはとても静謐せいひつな顔をしていた。その時、私は百瀬さんがすっごく澄んだ瞳をしていたのに気付いた。タバコの煙に霞みながらも、水晶みたいにすごくキラキラしていた。

 急に自信が湧いてきた私は添えようと上げかけていた左手を降ろし、グングンと突き進んだ。ツルツルとした底面に足を取られそうになったが、構わず進んだ。

 一つ目、二つ目の角を火を消さずに回った。何度か炎がなびいたが、不思議なことに消えなかった。調子づいて、そのまま三つ目の角へと進む。

 三つめが終わり、四つ目の角に向かう時、プールサイドに百瀬さんは立っていた。

 ついに、私は四つ目の端にたどり着いた。でも、安心はできない。ロウソクの火が消えぬように、慎重にプールから上がらなければ。はしごに手を掛けるが、水を吸った衣服が重く、身体を中々持ち上がらない。

 震える身体を百瀬さんの手が私の身体を引き上げた。

 プールサイドに横になる。そして――


「大野せんぱーい! わたし、あなたより幸せになりますからっ! だからもう、私の中から消えてくださーいっ!」


 ありったけ叫んだ。自分に出せる全力の声で。

 息が切れた時、自分の真上に満点の星空が広がっているのに気づいた。大小のキラキラした星々がチカチカと光って、真っ黒な絨毯にばら撒かれたビー玉のように瞬いていた。まるで、百瀬さんの瞳のようだとも思った。

百瀬さんは横に寝ころび、「お疲れ様」と呟く。


「どう? ぜんぶ、くだらないでしょ?」


 私は頷く。すっごく胸を透く言葉で、胸の奥に溶けてじんわりと暖かくなる。自然と口角が吊り上がる。しばらく無言で夜空を眺めていた。

 いつの間にかロウソクは小さくなって消えていた。ようやく私は口を開いた。

「ねぇ、百瀬さんはなにが欲しかったの?」

 百瀬さんは逡巡した様子で、うーんと喉を鳴らす。


「拳銃。とびっきり、デカいやつ」


 指を鉄砲の形にして、私に向かって引き金をひく素振りをする。バン。

 撃たれた私は思わず大笑い。百瀬さんも耐え切れずに吹き出した。

「変か?」とクスクス笑う。

「うん、すっごく変」

「バカにすんなよ」

 百瀬さんの細い指が脇腹に侵入してくすぐるもんだから、私はさらに笑い転げてしまった。プールサイドのゴツゴツとした表面が体に擦れるが、そんなこと気にならないくらいに。お返しにと私もくすぐってやる。

「バカ、濡れるだろ」

「うるさい。こうしてやる」

 身体を起こすなり百瀬さんに覆い被さると、蜘蛛の巣に絡まったようにふざけあった。おかげで百瀬さんもびしょ濡れになり、Tシャツが身体にピッタリ張り付いていた。それがまた可笑しくて、ふたりで大笑い。

 ひとしきり笑ったあと、私たちはまた上を見上げた。黒い絨毯にビーズをばら撒いたような、キラキラ光る星々。いまなら届くような気がして、私は手を伸ばした。

「あ」、と百瀬さん。「いま、願いごと思いついた」

 伸ばしていた手にピンクのマニュキュアが塗られた指が絡まる。


「ファミレスで腹一杯、山盛りのフライドポテト食べたい。樋口ユウと」


 私は百瀬さんの手を握り返し、微笑んだ。

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