第9話 喜び憂う

 深夜、スマートフォンの着信音で、目が覚めた。三橋からの電話である。

「施設長、有川です。いかがなされましたか」

 眠さを辛抱しながら応対した。時刻は午前2時を少し過ぎたところである。3月も半ばになろうとしているが、さすがにこの時間帯は寒い。

「有川さん、こんな夜中に申し訳ない。ちょっと大変なことが起こった。中森さんが、拉致された」

 正士の眠気は、一辺に吹き飛んだ。

 拉致とは、どう考えても穏やかではない。

「施設長、拉致とおっしゃいますと、誰かに連れ去られたということですか」

「そのとおり。元の夫に、昨日の21時頃に連れ去られたらしい」

 拉致という、尋常ならざる事態と同じくらいに正士を驚かせたのは、由美に婚姻歴が有ったということである。

 結婚も離婚も、人それぞれのことではあるが、由美のこととなると、気分は複雑である。

 それにしても、昨夜の由美は、キッチンジャヌーでベリーダンスに出演していた。

 赤い衣装が情熱的で、実に美しかったが、三橋の言う21時頃は、出演を終えた、しばらく後ということになる。

「それで施設長、今はどんな状況なのですか」

「警察も動き出すようなんだが、居場所をはじめ詳しい情報は、まだ入って来ていない。まずは、有川さんにも事情を知っておいて欲しかったので、電話をさせてもらった。これから高瀬さんにも一報しておく」

「今現在で、私にできることは有りますか」

「いや、今のところ我々は動きようがない。何か情報が入ったら知らせるので、よろしく頼む」

「わかりました」

 正士は、再び布団に入ったが、もはや眠れるような心持ちではない。

 一人であれこれ考えても、意味が無いことは承知である。

 しかし、気になることが多過ぎる。

 まずは、由美の居場所と安否。

 元夫という男は、いったいどんな奴なのか。

 由美と元夫は、現在どのような関係なのか。

 由美を連れ去った目的は何か。

 そもそも、この情報は、どこから三橋のもとへ届いたのか。

 悶々としているうちに、東の空が白み始めた。結局、三橋から2回目の電話は入らなかった。

 翌朝、正士は、普段よりも1時間早く出勤した。

 すでに玄関の自動ドアは動いている。

 館内に入ると、三橋と高瀬の姿が有った。

「おはようございます。皆、考えることは一緒のようですね」

 仕事が動き出す前に、話しをしたいことがたくさん有る。

「施設長、今回の件は、いったいどういう事情なのですか」

「うん、私も知らなかったことが多くて、頭の中の整理ができていないんだが」

 三橋が、正士と高瀬に、事の成り行きを話し始めた。

 由美は、大学を卒業後1年程で結婚し、夫の実家で暮らし始めたのだが、そこの両親というのが、相当問題の有る人間で、いわゆる嫁いびりを楽しむようなタイプだったらしい。

 さらに、本来は由美を擁護すべき立場の夫も、結婚前の交際中とは一変して、親の言いなりに、陰険な振る舞いを平気でするようになった。

 およそ1年半、我慢に我慢を重ねたものの、こういう連中と、人生を共にすることなど有り得ないという気持ちが、ついに爆発してしまい、一方的に家を出た後、家庭裁判所の調停によって離婚した。

 しかし、元夫は、最後まで、離婚の原因が自分らに有ることを、理解できていなかった。

 それどころか、別れて半年も経たないうちに、恥も外聞もなく復縁を迫って来た。

 当然、由美は強く拒んだが、自分の非をまるで分っていない男故、しつこく付きまとうようになり、非常に大きな精神的負担を強いられた。

 電話番号やメールアドレスを変え、居場所を分からなくするために、引っ越しも2回行ったが、どういう方法を用いているのか、すぐに見つけ出されてしまう。

 もちろん、警察にストーカー被害の相談をして、口頭そして文書による警告も行われた。

 しかし、付きまとい行為は一向に止まず、ついには、ストーカー規制法にもとづき、公安委員会より禁止命令が出されるまでに至っている。

 禁止命令が出された後、姿を現さなくなっていたが、どうやら、昨晩、キッチンジャヌーでのベリーダンスを偶然見たようで、店から出てくる由美を待ち伏せて、連れ去りに及んだらしい。

「施設長、だいたい呑み込めました。しかし、禁止命令まで出るということは、相当悪質ですね。中森さんが気の毒過ぎる」

 状況を概ね理解した正士であるが、もう1つ、とても気になっていることが有った。

「一連の情報は、いったい何処から施設長のもとへ届いたのですか」

「ああ、そうだよね。情報はキッチンジャヌーの若旦那からなんだ。昨夜のベリーダンスが終わった後、中森さんが『何となく、嫌な胸騒ぎがする』と言い出して、元夫の件を、旦那と若旦那に打ち明けたそうなんだが、二人とも、まさか本当に連れ去り事件が起きるとは考えてもおらず、中森さんを守れなかったことを、ものすごく悔やんでいた」

「いや、それは仕方のないことですよね。しかし、中森さんの『嫌な胸騒ぎ』というのも、不思議な偶然ですね。でも、店内に変な奴なんか居たかなあ」

「あっ」

 正士の言葉に、高瀬が声をあげた。

「そういえば、店に入って来たと思ったら、ほんの1分くらいベリーダンスの様子を見て、すぐに出て行った男がいましたよ。ひょっとしてあいつがそうかも」

「高瀬さん、人相や服装なんかを覚えているかい」

「いえ、施設長。ほんの短時間でしたし、僕も気にしていなかったので、覚えていないんです。ただ、体格はあまり大きくなかったですね」

「高瀬さん、そいつの可能性が高いな。ところで施設長、ここで疑問なんですけれど、なぜ、中森さんが拉致されたと分かったのですか」

「ストーカー対策で、もしもの時に、自分の居場所が分かるよう、中森さんは、GPS発信器を携帯しているそうなんだが、緊急の事態が発生した時にだけ、それのスイッチをONにすることになっている」

「なるほど、それがゆうべ、ONになった訳ですね」

 実家の両親や近隣の親戚だけが、受信者となっていたGPS発信器であるが、由美の胸騒ぎで、ゆうべ、キッチンジャヌーのパソコンと、若旦那のスマートフォンにも、受信用のアプリケーションをインストールした。

 そして、由美が店を出たしばらく後に、若旦那からテストをしたい旨の電話をしたが、これが全く通じず、『おかしい』と思った矢先、GPS発信器がONになった。場所は、由美が帰るのとは真逆の方向である。

 尋常なことではないと直感した若旦那は、すぐに、由美の実家と警察に相談をした。

 警察の側も、禁止命令が出ている事案故、看過できないものと判断し、素早く対応している。担当した警部補が、話の通じる人物で、非常に幸いであった。

「GPSで特定された場所の情報も、施設長のもとへ届いているのですか」

 あらゆることを、正士は知っておきたい。

「いや、まだそこまでは情報が来ていない」

「わかりました。当然、中森さんは出勤できませんが、事務長にはどういう風に説明しますか」

「彼に本当のことを伝えたところで、何の役にも立たんし、第一、中森さんも嫌だろう。風邪ひいて熱が出たということにしておこう」

 業務に集中すべしと、自らを戒めながらも、この日の正士は、半ば上の空という状態だった。

 長い一日の仕事が終わる頃、三橋が、正士と高瀬の所へやって来た。

「若旦那からの情報だが、中森さんの居場所が分かったよ」

「ど、どこですか」

「間抜けな奴だ、自分の実家に連れ込んでいる。まあ、警察や我々にすれば、有り難いことだが」

 確かに、実家などは、真っ先に捜査の対象となる場所であり、『見つけてください』と言っているに等しい。

 しかも、両親が住んでおり、かかわり方によっては、自分の親を幇助犯にしてしまう可能性もある。

「施設長、こいつ、間違いなく捕まって、裁判にかけられるんですよね」

「まあ、弁護士が間に入って、示談という方法も無くはないが、中森さんが、そんなことに応じるかどうか。私も、高瀬さんが今言ったように、逮捕、起訴、そして裁判で実刑という流れを期待したいところだが、こういう事案は、執行猶予付きの判決が示されることも少なくないのが現実だ」

「警察も、起訴の見込みがあるからこそ、スピーディに動いているんでしょうけれど、こういう奴は、法のもとで徹底的に叩きのめされて然りですね。検察や裁判所も、不起訴だの執行猶予だの、そんな訳の分からん対応をするようなら、法の番人など任せる必要は無い。いっそ、AIにでも仕事をさせた方が、人件費の節約になる」

「まあまあ、有川さん。君の言いたいことが分からんことはないが、抑えて抑えて」

 職場の上役や同僚とはいえ、正士たちは、あくまでも第三者である。今は、キッチンジャヌーの旦那や若旦那と、情報交換をするくらいしか、できることは無い。

「今回のケースは、どんな罪状が考えられますか」

「ああ、高瀬さん。まずは、ストーカー行為等の規制等に関する法律、いわゆるストーカー規制法の第19条『禁止命令等に違反してストーカー行為をした者は、2年以下の懲役又は2百万円以下の罰金に処する』。そして刑法第220条『不法に人を逮捕し、又は監禁した者は、3か月以上7年以下の懲役に処する』。この2つの罪にあたる可能性が高いね」

「有川さん、法律に詳しいね。司法試験を受ける準備でもしているみたいだ」

「いえ、施設長。今回の事案に関連しそうな法令を、部分的に調べただけです」

「それで、今、有川さんがおっしゃった罪が、裁判で両方とも有罪になった場合、刑の重さはどういう扱いになるんですか」

 高瀬に限らず、この疑問を持つ者は多いかも知れない。

「今回の場合は、併合罪ということになるはずだね。これの処断の方法については、刑法で規定されている」

 アメリカのように、単純加算方式を取っている国だと、複数の重大犯罪を犯した者に対して、懲役250年などという判決が出たりするが、日本では、今回の場合、正士の言う併合罪ということになり、その扱いは、刑法の第46条から53条に定められている。

 それによると、2つ以上の罪について処する場合の、一番長い刑期は、最も重い罪について定められた刑の一番長い刑期に、その2分の1を加えたものとなる。

 今回の場合、ストーカー規制法での一番長い刑期が懲役2年で、刑法の逮捕・監禁での一番長い刑期が懲役7年であるため、重い方の懲役7年プラス7年の2分の1、つまり10年と6か月となりそうであるが、ここでもう一つ、『それぞれの罪について定めた一番長い刑期の合計を超えることはできない』という定めがあるので、この事案では2年プラス7年、すなわち9年ということになる。

 余談だが、期間を空けて複数の犯罪を犯すと、併合罪ではなくなり、もっと長く刑期が重ねられることになる。

「とにかく、中森さんが、無事に保護されることが第一。その際に、元夫の身柄も確保されるだろうから、その後の扱いを見届けて行くということだね」

 正士の言葉に、高瀬が深く頷く。

「おっと、若旦那から新しい情報だ」

 三橋のスマートフォンに、元夫の実家の住所や、そこに関連する情報が届いた。

 早速、パソコン上の地図で住所を検索する。事業所からは、車で30分くらいの距離である。

「これですか、民家にしては、えらくでかいですね」

 正士が、パソコンの画面に顔を近づける。

「若旦那からの情報では、親は地元じゃ結構名の知れた資産家らしい。土地をたくさん持っていて、駐車場やアパートなどを手広く経営しているそうだ」

「金は極めて十分、品位品性は絶望的に不十分っていうタイプですね。だから、嫁いびりなんていう馬鹿なことを、平気でやりやがる。おお、いかんいかん、貧乏人の僻みのように聞こえるので、この辺でやめましょう」

 自重するものの、こういう類を、正士は最も嫌っている。

 人間の品位品性や教養というものは、物事の本質を見極め、如何にそれに叶った言動を為し得るかということである。

 疑うまでもなく、それが、財力の大きさや、学歴、学力の高さと、単純に結びつながることはない。

 大きな富を持ち、優秀な学校を出ていても、不見識で、人間として救いようのない奴は、いくらでも存在するし、その逆も、また然りである。

「そうなると施設長、そこの親は、今回の一件を示談に持ち込もうと、金銭や人脈を総動員して来そうですね」

「確かに、有川さんの言うような展開になる可能性は高いね。しかし、中森さん程の人間だ、決して相手方のペースに丸め込まれたりはしないだろう」

「僕らも、できる限りのバックアップをしたいですね」

「そのとおりだわ、高瀬さん」

「おっ、若旦那からだ。警察が動いたぞ」

「我々はどうしますか」

「情報をもらいながら、待機するしかないな。二人とも時間は大丈夫かい」

「施設長、今さら水くさい。何時まででも大丈夫ですよ。ねえ、有川さん」

 正士も、高瀬の言葉どおりである。

 時刻は、午後8時になろうとしている。

「何か食べようか」

 大食いコンビにとって、実に有り難い三橋の一言だ。

「僕がひとっ走り弁当を買って来ますよ」

「おう、高瀬さん、それじゃお願いしよう。今日は、私がご馳走させてもらうよ。何がいいかな。私は唐揚げ弁当の大盛り」

「有り難うございます。お言葉に甘えて、我々も同じものをいただきます」

 正士の考えに、高瀬も異論を示すはずはない。

 事業所から、歩いて5分程の所に、弁当も扱う精肉店が有る。

 ここの唐揚げ弁当は、地元でも有名な名物で、質の良さもさることながら、とにかく量が半端ではない。いわゆる普通盛りですら、拳の半分くらいもある唐揚げが、4個入っており、これが大盛りになると5個になる。そして、容器から溢れ出さんばかりのご飯。

 高瀬の『弁当を買って来ますよ』が、この名物を意図したものであることは、何よりも明らかだった。

 三橋は、二人が遠慮せずオーダーできるよう、自分が先んじて、大盛の希望を示したのだが、もちろん、完食できる自信など無い。

「それでは、行って参ります。閉店ぎりぎりですが、たぶん大丈夫でしょう」

 三橋から千円札3枚を預かって、高瀬が意気揚々と、弁当を買いに出て行く。

 しばらくして、三橋のスマートフォンが鳴った。

「新しい情報だ。おお良かった。警察が中森さんを保護した」

「良かったですね。それで、元夫とその親連中はどうなりましたか」

「元夫は当然だが、両親も、事情を聴かれるために、警察に任意同行したようだ」

「我々はどうしますか」

 そこへ、高瀬が弁当を提げて帰って来た。揚げたての唐揚げの香りが、部屋にひろがる。

「高瀬さん早かったね。有り難う。今、施設長に情報が入ったんだが、中森さんは警察に保護され、元夫と親はしょっ引かれた」

「良かったですね。それで、僕らはどうしますか」

 三橋に、釣銭とレシートを渡しながら、高瀬も、尋ねることは同じである。

「若旦那から、今後のこともあるので、我々を、警察の担当者に引き合わせたいという希望が届いている。私が、ひと足先に警察署へ向かうので、君らは、弁当を食べてから来るといい。事業所の車を使って構わないからね」

「分かりました。施設長、お腹空きませんか」

「私は大丈夫。さあさあ、食べて食べて」

 三橋に促されて、正士と高瀬が弁当をひろげた。

「相変わらず、すごい弁当だな。キッチンジャヌーも顔負けのボリュームだ。私は持って帰るよ。何かを少し足せば、十分に我が家四人の、明日の朝ごはんになる」

 笑いながら、三橋は部屋を出ていった。

「施設長が、ご馳走してくださったんだ。高瀬さん、しっかりいただいてから出発しよう」

 とは言え、自分たちも早く駆けつけたい。いつもの大食いに早食いを重ねて、二人は弁当を食べ始めた。

 警察署の、決して広くはない駐車場に車を止め、煌々と灯りがつく建物の中に入ると、三橋の目に飛び込んで来たのは、ベンチに座る柴の姿である。

「あら、柴さん、偶然ですね。こんな時間に何か有ったのですか」

 無理もないが、三橋は、全く別の用件で、柴がここへ来ているものと思い込んでいる。

 由美が、元夫に拉致された一件を説明し始めると、柴がそれを遮った。

「施設長、私も、その件でここへ来ているんです」

「はあ」

 事情が分からぬ三橋は、間の抜けた返事しかできない。

「機会が訪れましたら、施設長や皆さんに、お話しをしようと思っていたのですが」

 柴は、自分が、キッチンジャヌーの旦那の再婚相手であること。そして、由美と若旦那も交際が深まり、時を同じくして結婚することを説明した。

「えっ、あのう、すみません、柴さんとキッチンジャヌーの旦那さん、そして中森さんと若旦那が、結婚なさるんですか」

『今、そう言ったろうが、ボケ』と突っ込まれそうな返答をする三橋は、まだ頭の中の整理ができていない。

「はい、ご報告の前に、こんなことが起きてしまうとは。ご面倒をおかけしたことを、お詫びいたします」

「いえいえ、柴さんが詫びることなどありません。とにかく、中森さんが無事で良かったです。そして、このような所ではありますが、ご婚約おめでとうございます」

 三橋も、やっと状況が呑み込めて来た。今回、若旦那がキーパーソン的動きをしていることにも得心が行く。

「でも、有川さんは、ショックを受けてしまうでしょうね」

 柴の言葉に、またもや三橋はついて行くことができない。

「柴さん、有川さんが、なぜショックを受けるんですか」

「うふふ、由美さんの言ったとおり、ゆるゆるですね」

「はあ、ゆるゆる」

「あらあら、どうしましょう」

 とうとう柴は、笑いだしてしまった。

「施設長、お近くに居ながら、有川さんが、由美さんに好意を寄せていることが、お分かりになりませんでしたか」

「いやあ、そういうことには、とにかく鈍感なタイプでして。あっ、だからゆるゆる」

「施設長にだけは、お話しさせていただきますが、先日、由美さんが、こうも言っていました。『私、実は有川さんを慕っていました。雅志さんが現れる前に告白されていたら、有川さんのお嫁さんになっていたかも知れません』。そういうものなんですよねえ」

 柴は、複雑な面持ちで溜息をついた。

 正士がこれを聞かされたら、己の不甲斐無さについて、気が遠くなる程後悔するに違いない。

「あらまあ、男女の綾というのは、本当に難しいですね。ところで柴さん、若旦那の姿が見えませんが」

「先程から、奥で由美さんと面会しています。あっ、丁度戻って来ました」

 柴の視線の方向を追うと、若旦那が、警察側の担当者と思しき男性とともに、こちらへ向かって、歩いて来るところである。

「施設長さん、この度は、ご心配をかけまして、深くお詫びいたします」

「お詫びいただくには及びません。今、柴さんから、ご結婚のこともお聞きしました。この度の若旦那のご心労、お察しいたします。中森さんの様子はどうですか」

「おかげさまで元気です。乱暴な扱いも受けていないのですが、やはり、復縁を迫られたようです」

「初めまして、生活安全課の山下と申します」

 若旦那と一緒にやって来た男性が、三橋に挨拶した。私服の警察官と言うと、厳ついイメージを持ってしまいがちだが、そのような雰囲気はない、親身に対応してくれそうな人物である。

「中森の勤務先の責任者をいたしております、三橋でございます。この度はいろいろとお世話になります」

「こちらこそ、よろしくお願いします。さて、お聞きすべきことは、お話しいただきましたので、本日はお帰りになって結構です。今、中森さんも、こちらへお連れします」

 山下は、そう言うと、廊下の奥へ戻って行った。

 時刻は、午後9時を回っている。

「相手の連中は、示談の方向にもって行こうとしますかね」

「その可能性は高いと思います。しかし、私どもは、安易な妥協をするつもりはありません。人と争うことを、本意とはいたしませんが、今回に限っては、徹底的に戦うべきと考えています」

 三橋も、若旦那と同じ捉え方である。本件に、示談などという選択肢は存在しない。

「及ばずながら、我々も協力させていただきます。お手伝いできることが有れば、遠慮なくおっしゃってください」

 三橋たちの存在は、心強いだろう。

 「有川さん、警察署って、そこを左でしたっけ」

 「いや、もう一つ先だろう。ほらほら、あそこに矢印の看板がある」

 「本当だ、有り難うございます。しかし、あの弁当を完食したすぐ後、車に乗るっていうのは、結構きついですね」

 高瀬の言うとおり、超満腹の状態で車に揺られるのは、相当しんどい。

 「確かに。今後、緊急事態では、もっと体に優しい弁当にしよう」

 警察署のゲートを通り、中に入ると、脇のスペースに、事業所のロゴが入った車が止まっている。

 「施設長が乗って来た車の隣に止めよう」

 そう言われて、高瀬は、いつものように、1センチの狂いもなく車を並べる。 

 ロビーには、三橋と若旦那、そして柴が居る。

「あっ、若旦那。えっ、柴さんがなぜここに」

 予想外の場面に出くわし、正士は戸惑った。

 三人に声をかけようとしたその時、由美が山下と一緒に、ロビーへ出て来た。

「山下さん、いろいろとお世話になりました。雅志さん、お母さん、ごめんなさい。そして施設長、有川さん、高瀬さん、ご心配をおかけして、本当にすみません」

「えっ、えっ、雅志さん。お母さん」

 正士の頭の中で、無数の疑問符が、ブラウン運動のごとく駆け回る。

「有川さん、私も、先程話しを聞いて驚いたんだが。」

 三橋が、正士の肩をポンと叩いた。

 この状況を理解するために、正士は、持ち得る分析能力の全てを動員する。

 そして、できれば、そうあって欲しくない結論にたどり着いた。

「施設長、まさか」

「そう、そのまさか。キッチンジャヌーの旦那さんの再婚相手は柴さん。そして、若旦那は中森さんと結婚する」

「あっ、ああ、そ、それは、今回の災難から一転して、感動的におめでたいことですね。しかし、世の中というのは、広いようで結局狭いものだなあ」

 心ここに在らずの言葉を発しながら、正士の理性は、押し寄せる虚無感と、必死に闘っている。由美の相手が若旦那であることが、唯一の救いと言えば救いだが。

「中森さん、ご無事で何よりです。しかし、昨日から今日にかけて、本当に驚きの連続です。改めて、こういう場ではありますが、ご婚約おめでとうございます」

 そうは言ったが、正士の気持ちの切り替えには、相当の時間がかかりそうである。

「ところで、若旦那、加害者側の連中は、どうなりますか」

 高瀬が尋ねた。

「三人ともこの奥に居ますが、今は何も話そうとしないそうです」

「話をしませんか。まあよかろう」

 正士が不敵な笑みを浮かべる。

「ああっ、おいおい、有川さん、まさかとは思うが、妙なことを考えないでくれよ。山下さんもいらっしゃるんだから」

 三橋が血相を変えた。

「施設長、いかがなされましたか」

 高瀬は、三橋の様子が理解できない。

「いや、高瀬さん。今の有川さんの笑い方を見て、ふと、昔観たアメリカ映画を思い出しちゃってね。街のチンピラどもの暴力で、親友を失った主人公が、そいつらをはじめとした世の中のクズ連中を、警察に頼ることなく、過激な手段で次々と倒して行くストーリーだった」

 三橋の説明を聞いて、皆、一斉に正士の方を見た。なぜか誰もが納得顔である。

「いやだなあ、皆さん。安心なさってください。おとなしくいい子にしてますって」

「それでは皆さん、気を付けてお帰りください」

 山下は、会釈して踵を返す。今のやり取りは、聞かなかったことにしてくれているようだ。

「さあ、今日は引きあげるとしましょう。中森さん、気持ちが落ち着くまで、仕事は休んで大丈夫ですよ」

「有難うございます。お言葉に甘えて、明日までお休みさせていただければ幸いです」

「さて、タクシーを呼びますので、少し待っていてください」

 若旦那がスマートフォンを取り出した。

「若旦那、お店の車で、ここへ来られたと思っていましたが」

 三橋が、少々不思議そうに尋ねた。

「はい。店の車は、父親が、由美さんの実家へ伺うのに使っていまして、私たちはタクシーでここへ来たんです」

「ああ、そうでしたか。ならば、我々がお送りしますよ。施設長、よろしいですよね」

 正士と高瀬が乗って来た車は、デイサービスの送迎車である。本来の使用目的からは外れるが、せっかくの八人乗りは活用したい。

「了解。有川さんと高瀬さんに任せよう。若旦那、事業所の車でお送りしますが、いかがですか。」

「有り難うございます。それでは、お言葉に甘えて、よろしくお願いいたします。」

 三橋の許しを得て、正士と高瀬は、由美たち三人を、車の中へと導いた。

「私は、ひと足先に事業所へ戻っているので、くれぐれも気を付けてお送りしてね」

 三橋に見送られながら、高瀬の運転で、車を出発させる。

「私、デイサービスの送迎車に乗るのが初めて。中がすごく綺麗」

 柴の言うとおり、事業所の車両は、いずれも掃除を行き届かせ、清潔を保っている。利用者殿の送迎に使用するのであるから、当たり前ではあるが。

 若旦那と柴の間に座った由美は、さすがに疲れを隠せない。

 警察署から、キッチンジャヌーまでは、15分ほどの道のりである。

「我々にお手伝いできることが有れば、何でもおっしゃってくださいね」

 助手席の正士が、振り向きながら声をかけると、セカンドシートの三人は、ゆっくりと頷いた。

「施設長や、有川さん、高瀬さんは、本当に頼りになる存在で、私たちは、心から感謝しています。でも私、さっき警察署で、施設長に『ゆるゆる』なんて、すごく失礼なことを言ってしまって、後でお詫びしなきゃ」

「はあ、柴さん、『ゆるゆる』ですか」

 ルームミラー越しに、高瀬が尋ねるが、正士も同じく、何のことか理解できない。

 警察署での、柴と三橋のやり取りを察した由美は、少し気まずい表情でうつむいている。

 若旦那も、敢えて言葉を控えている様子である。

 店が見えて来た。

 旦那は、まだ帰って来ていないようで、駐車場に車の姿は無い。

 店寄りのスペースに停車する。

「いろいろと有り難うございました」

 由美が、深々と頭を下げた。

「なんの。これからもお互い頑張りましょう」

 若旦那と柴に付き添われ、由美はゆっくりとした足取りで、店の入り口へ歩いて行く。

 ドアの前で振り返り、もう一度頭を下げる三人に、正士と高瀬も会釈で応える。

「我、何が故に喜び、何が故に憂う」

「ブツブツおっしゃってますけれど、どうかなさいましたか」

 高瀬が、正士の顔を覗き込む。

「いや、大丈夫、大丈夫。何でもない、何でもない」

「3月も半ばなのに、妙に寒くなりましたね」

「ああ、寒いねえ」

「天気予報では、『夜半より雪』と言っていますよ」

「おお、そうなのか」

 この店と出逢った、1年前のあの日のように、明日は銀世界かも知れない。

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何が故に おいかわ まさき @swmswpsw

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