第8話 日頃のお仕事
「施設長、今日は中森さん休みですか」
「ああ、有川さん、彼女は有休だよ」
自らの士気が下がってしまうことはないが、正直なところ、由美の顔が見えない日はつまらない。
とは言え今朝も、デイサービスの迎え便の運転から、一日の仕事がスタートである。
季節は巡って、晩秋。気持ちの良い晴天だが、少し寒い。
「以前に比べると、中森さんの有休って、増えたと思いませんか」
始業時の車両チェックをしながら、高瀬が正士と三橋に尋ねた。
「言われてみれば、確かにそうだな。最近は毎月有休を取ってるね。まあ、働く者の権利を、当たり前に行使しているんだから、良いことだと思うよ」
三橋の言うことは道理である。
「余談だが、事務長は、有給休暇の届けにも、休む理由を具体的に書けなどと言っている」
こちらのお方は、相も変わらずである。
「えっ、有給休暇の理由を書けと言うんですか。今のご時世に、そんな見当違いな奴が、まだ居たなんて」
正士が呆れるのも無理はない。三橋が言ったとおり、有給休暇は、法の下に保障された働く者の基本的な権利である。
事業所は、業務への影響が重大である場合などに、申請された休暇の日程について調整をはかる、時季変更権を持つが、保有する日数以内の休暇取得そのものを妨げることはできない。ましてや、申請の理由に事業所が介入するなど、愚の骨頂である。
「まさか施設長、届けに理由を書くようになったりしないですよね」
「もちろん、そんなばかばかしいことは、会社だって容認しない。これまでどおり、『私事都合』という記入で十分」
「さらに気付いたんですが、中森さんの有休って、決まって水曜日なんですよね。まあ僕らが頓着することではないのですが」
なるほど、高瀬の言うとおりである。しかし、どんな事情が有るのか、知っておきたいのが、正士の本音だ。
「ところで、中森さんの次の出演スケジュールは、どうなっていたっけ」
「今月は、来週の火曜日の夜ですね」
三橋の問いに、正士が即答する。
三か月前、キッチンジャヌーで由美が披露したベリーダンスは、常連の客を中心に、大きな好評を博した。以来、毎月一回のペースで、出演を重ねている。
正士たちも、毎回観に行っていることは言うまでもない。
「あと半月で師走か。だんだんと世間が慌ただしくなって、交通量も増えて来るな。くれぐれも安全第一で」
「承知しました」
三人は、それぞれ受け持ちの地区へと、車を出発させる。
今こそが、正士の最も好きなる季節である。
見上げる空にはいわし雲。目を下せば、すっかり色づいた木々の葉。風は、涼しさより変じて寒さを運ぶ。
そして、何処からともなく感じる、草木を焚く如き微かな匂い。
心象がつくり出す実体無き感覚かも知れぬが、正士の感性の中に、季節の気と匂いは、確かに存在する。
空気がふわりと萌える春。万物が嬉々と騒めく夏。そして、空が凛と透き通る冬。時季それぞれに、イメージする情景が有る。
しかし、心惹かれるのは、しんみりと郷愁漂う秋である。
最初の利用者殿が乗車するまでの間、窓を開けて、霜月の風と心を共にする。
道の両側に植えられた銀杏の葉は、すでに黄一色に染まり、縁石の隙間からは、イヌタデが顔を出して赤紫の花を揺らしている。
正士の、ささやかではあるが上質な幸福感を乗せ、車は進んで行く。
突然、右側を走行していた車が、方向指示器を点灯させず、前に割り込んで来た。自分の走っているレーンが右折専用と気付き、思慮なく左へ入って来たに違いない。
「ああっ、何だこの馬鹿野郎」
利用者殿が乗っている時には、決して口にできない言葉である。
「やれやれ、アホにロジックは存在しないな。お前のような低レベルには、季節の移ろいに触れる感性など、持ちようがあるまい」
マナー無き運転への怒りは当然だが、無分別な阿呆者に、秋を愛しむ『気』を妨げられたことが、何よりも腹立たしい。
思わず、ホーンのスイッチに手がかかる。しかし、ここは何とか辛抱した。この手の連中は、他人からの警告に対し、いわゆる『逆ギレ』の態度を示すことが珍しくない。
くだらない揉め事のきっかけを与えるよりも、賢者の気構えをもって見逃してやることが、時には必要であろう。こういうあしらいが、愚人を増長させるということも、十分に分かってはいるが。
「有川さん、『とことんご機嫌斜め』というお顔をされていますが、何か有りましたか」
利用者殿を六人乗せて事業所に到着すると、先に戻っていた高瀬が、早速正士の様子に気付いた。
「あれ、バレたか。いや、いつものことだが、また、アホなドライバーのアホな運転に出くわしちまった」
「あらあら、それは災難でしたね。そんなご気分の中、申し訳ありませんが、派遣の看護師さんが、身体能力測定のやり方が、よく分からないと言っているんです」
今週は、三か月に一度の、身体能力測定を行っているが、機能訓練担当を兼務した看護師が病欠のため、本社の事業部の手配により、医療職系の派遣会社から、代役の人材に来てもらっている。
「まあ、看護師さんでも、当然得手不得手は有るさ。万能を求めちゃ気の毒だよな。我々と一緒にやりながら、慣れてもらおう」
ふうっと深呼吸をして、正士は自らを平常心に戻した。
正士は、利用者殿すなわちクライエントについて、相談援助を生業とするソーシャルワーカーであるが、その修行時代に、ソーシャルワークとリハビリテーションを、初めて体系化させた社会福祉学者による、スーパービジョンを経験している。
これが、自らの仕事の在り方において、大きな礎となっており、現在勤務するデイサービスでも、その理論に根ざした、総合的リハビリテーションの体系づくりを目指している。
以前、施設長の三橋が、事業所の見学に来訪した都議会議員に説明したとおり、リハビリテーションについて、身体的な運動や機能訓練という側面のみの認識に終始することは、本質からの逸脱である。
クライエントにおける生活が、本来の姿で主体的に運営されること。
そして、その実現のための、心身両面の能力の保持や、社会的活動の場および方法の構築などについて、全体的な視点をもったサービスを実践すること。
これがすなわち、リハビリテーションの本質的な理念であり、そして、この全体的な視点を担うのがソーシャルワークである。
人間の生活は、点としての様々な要素が、線でつながり、それらが面を構成して、さらに立体へと重層化するかたちで、日々運営されている。
クライエントの生活における問題を、点の次元で捉え、これの改善解決を重ねていくことも、サービスの一つの方法とは言えるが、それに終始するようでは、問題の本質に届かぬ、対症療法的な手段であるとの批判を免れない。
クライエント自身が、諸問題を改善解決し、自ら納得できる社会および生活の状況を創りあげるための支援には、その、点から線、線から面、面から立体という全体像を捉えることが不可欠である。
正にこれが全体的な視点であって、ソーシャルワークは、それを原理として機能する。
そして、リハビリテーションとの有機的な統合をもって、総合的リハビリテーションの体系が構築される。
今週行っている身体能力測定は、その一要素として、身体機能エクササイズの実効性を評価するものである。
本日派遣の看護師殿は、内科病棟でのキャリアが長かったようで、いきなり不慣れな領域を突き付けられ、当惑したらしい。
正士も、慣れない派遣スタッフによる、測定データの精度低下を少々心配したが、実技をともなったレクチャーで、何ら問題無く作業が進み始めた。元々能力に優れた人材と見て間違いない。
「高瀬さん、あの看護師さんならば、心配無いわ」
手分けをして、筋力や歩行、総合的移動動作、静的および動的バランスといった項目の測定を、それぞれ決められた方法で進めて行く。
なお、立位や歩行が困難であったり、認知症により、条件どおりの動きが難しい方など、測定の方法に工夫が必要なケースについては、個々の状態に応じ、アレンジした内容で対応する。
そして、初回以降の測定値の変化について、これをレーダーチャートにビジュアル化した資料を個別に作成し、毎回利用者殿に提供している。
数値化つまり客観化した評価を怠って、『大分良い感じです』や『結構歩行が安定してきました』などという、観念論のみの対応では、いささか不十分である。
また、言うまでもなく、個々の利用者殿の状態やニーズを的確に捉え、明確で現実的な目標設定のもとに、プログラムを進めて行かなければならない。
こういった次元の取り組みを実践しているのは、社内の事業所の中でも、ここだけである。
データを蓄積しながら、全社的にノウハウの共有をはかりたいと、正士は考えているが、まだまだ時間がかかるだろう。
「有川さん、来てくれた看護師さんが、優秀な人で良かったです。本社の事業部も、たまにはいい仕事をしてくれますね」
「そうだね、イライラ無く仕事が進んでくれるのは、実に有難いことだ」
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