第7話 愛しき者

 ベリーダンスは、アラブ文化圏で育まれた、世界最古とも言われている舞踊である。

 古代エジプトにおいて、巫女が女神イシスにささげた儀式。宮廷で、王のために披露された踊り。あるいは、結婚式での、新婦への夫婦生活の手ほどきなど。その起源には諸説有る。

 由美が踊るトルコの様式は、オスマン帝国の時代から存在し、ロマ民族のダンスに強い影響を受けたとされている。女性によるものという印象が強いが、男性によるベリーダンスも、同じ歴史の深さをもって、踊り継がれている。

 ただし、ベリーダンスという呼び方は、近代の欧米で作られたもので、アラビア語圏では『ラクス・シャルキ(東方の踊り)』、エジプトでは『バラディ(国産のもの、自然のもの)』と呼ばれている。

 さて、いよいよこの日がやって来た。

 正士にとって、今回のジャヌー・ミーテイングは、特別で、なお複雑である。

 由美のダンスに、こみ上げる期待は言うまでもない。しかし、彼女の姿が他の男性に晒される嫉妬。そして、新たに好意を持つ者が現れるかも知れない不安。心理状態は、正しくカオスの世界だ。

 店の中は満席で、食事を終えて立ち見の客も居る。

 正士たちも、通路の隅で立ち見である。

 出入口脇の壁には、若旦那が作ったベリーダンス告知のポスターが掲示されている。とても良く仕上がっているが、由美が踊る姿の写真が入っていることが気になった。

「あの写真、いつ手に入れたんだろう」

 そう呟きながら、カメラを入念にチェックする。若旦那から撮影の許しは得ている。

 資料としての写真撮影と言ってはいるが、自らの欲求に支配され尽くした行動であることは明らかである。動画は、若旦那が受け持つ。

 店内に、異国の香りに満ちた音楽が流れ始めた。ボリュームは控えめである。

「皆さま、ご来店いただきまして、誠に有り難うございます。さて、これより、先日来ご案内いたしております、ベリーダンスをご披露いたします。出演は、日頃から当店をご利用いただいている、中森由美さんでございます。アマチュアながら、5年のキャリアをお持ちです。それでは、どうぞ拍手でお迎えください」

 若旦那による紹介が終わると、音楽のボリュームが上がる。

 曲のタイミングに合わせて、由美が登場した。

 白を基調にした、煌びやかな衣装である。

 胸が覆われている他は、上半身の肌が露わで、スカートの深いスリットは、足を大胆に覗かせる。

 手足の所作や表情、そして、胸や腰の動き、それぞれが意味を持つに違いないが、全てが妖艶な魅力そのものである。舞台用のメイクも、美しさを際立たせている。

 他の客の邪魔になってしまうため、動き回りながらの撮影はできない。ストロボを頻繁に光らせるのも気が引ける。

 ズームレンズの焦点距離を、目まぐるしく操作しながら、ベストショットを狙うが、固定されたポジションからの撮影は、シャッターチャンスが非常に限られる。

「有川さん、口が半開きになってますよ」

 高瀬が小声で指摘した。そう言い終わった当人も、自分の口が半開きである。

 舞台と違って、店内の限られたスペースは、踊り手と観る者の間合いをぐんと縮める。

 由美が正士に近付いて来た。息遣いや体温が伝わって来るような距離である。

 カメラの構えを解いて、しっかりと見つめる。しかし、どういう顔をしていれば良いのか分からない。

 視線が合った。

 由美が微笑みかけてきた。

 キャットアイラインが印象的である。

 職場での控えめな身なりと、この場の艶めかしい姿の違いには、完全に心奪われる。

 もはや為す術を持たず、立ち尽くすしかない。

 心臓の鼓動は高まり続ける。

 三橋と高瀬も、言葉を発することなく見入っている。

 品の無いかけ声や指笛の類は、一切聞こえて来ない。この店の客層は、やはり洗練されている。旦那と若旦那の人柄故であろう。

 およそ30分間、正士たちをはじめ全ての客は、思う存分魅了された。

 最後の曲が終わると、大きな拍手とともにスタンディングオベーションが起きる。

 由美は、客の一人ひとりと、笑顔で握手を交わして行く。

「すばらしい」

「またお願いします」

 そういう声が、次々と聞こえて来る。

 店内の熱気は、しばらく収まりそうもない。

「中森さん、お疲れさまでした」

 楽屋として設えた休憩室で、柴が由美を出迎える。

「柴さん、いろいろお手伝いいただいて、有り難うございます」

「中森さんが、ベリーダンスをやっているなんて、本当に驚いたわ。でも素敵だった。今度は、生でしっかり見たいわね」

 柴は、若旦那が撮影する動画を、パソコンでモニターしていた。

「私も、ここの旦那さんと柴さんが結婚なさることに驚きましたけれど、すごく素敵なことだと思います」

「有り難う。でも、私たちの結婚のこと、中森さんは、どうして気付いたの」

 由美は、以前、柴が職場で見せたコーヒーの知識や、キッチンジャヌーの名に対する表情の変化のことを説明した。

「すごい洞察力ね。それに比べると、こちらの男性三人組は、お察しがずいぶんと緩やかのようね」

 パソコンのモニター画面には、正士たち三人が映し出されている。若旦那が、観覧後の客の様子を撮影しているようだ。

「施設長も、有川さんも、高瀬さんも、本当に仕事ができる方たちなのですけれど、おっしゃるように、そちらの方の感覚は、ゆるゆるですね」

 二人は笑ってしまった。

「ところで中森さん、有川さんが、あなたに好意をもっていることには、当然気付いていらっしゃるわよね」

 予期せぬ質問である。

「はい、ええまあ、分かってはいます。そうそう、若旦那さんは、すでに柴さんのことを『お母さん』と呼んでいるんですね」

「あら、話しをはぐらかすなんて、中森さんらしくもない」

「いえ、私も『お母さん』ってお呼びできたらいいなと」

「えっ」

 さて、仕事ができるお三方は、柴と由美のやり取りなど知る由もなく、感銘と興奮の余韻に浸っていた。

「いやあ、なんかすごいものを見せられちゃったっていう感じですよね」

 火照った顔で、高瀬が語る。

「専門的なことは分からないが、メンタルな訴えかけを、すごく感じさせられるなあ」

 三橋らしい視点である。

「島国根性を晒してしまうようですが、異国の文化というものは、とても新鮮な刺激と感動が有りますね」

 正士は、由美への想いが一気に募る。

「皆さん、今日は有り難うございました。本当に素晴らしかったです」

 作業を一段落させた若旦那が、三人の所へやって来た。

「こちらこそ有り難うございます。我々も生でベリーダンスを観るのは初めてだったので、少々興奮しています」

 そう言う正士の興奮は、少々の訳がない。

「何人かのお客様からは、早速『次の出演はいつ頃か』というお問い合わせを頂戴しています。男女を問うことなく、中森さんのファンが生まれたようです」

 できれば、男性ファンは増えて欲しくないというのが、正士の心理である。

「あのう、若旦那、ものは相談なんですが」

「有川さん、分かっていますよ。動画のデータは、喜んでコピーをご提供します」

 若旦那は察しが良い。

「有り難うございます。私の写真のデータも、喜んでご提供します」

 フェアな取引である。

「ところで若旦那、あのポスターの写真は」

 小さなことかも知れないが、正士は、自分に先んじて、若旦那のもとに由美のダンスのビジュアルが渡った経緯を気にしていた。

 光の読み方といい、構図といい、何処かのステージでの場面を、プロが撮影したものに違いない。

「バーベキューの翌日に、中森さんからメールで送っていただきました。半年ほど前の公演の際に、プロのカメラマンさんが撮影したものだそうです。もちろん、カメラマンさんの許可はいただいているとのことです」

「なるほど、そうでしたか。やはり、私のようなアマチュアが撮る写真とは、味わいが違いますね」

 喉から手が出る気分だが、さすがにこれは、版権を侵害して『データのコピーをください』とは言えまい。

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