第6話 真夏の或る日
「若旦那、来月、バーベキューをやろうと思うのですが、よろしければ参加してくださいませんか」
今年の4月より始まった、毎月第3土曜日のジャヌー・ミーティングも、今日で第4回である。
来月も予定どおり行うが、それとは別に、高瀬がバーベキューを企画している。
「高瀬さん、有り難うございます。ぜひ参加させていただきたく思いますが、スケジュールが合うかどうか」
「ジャヌー・ミーティングの前の週の日曜日、お店の臨時休業の日などはいかがですか。でも大事な用事がお有りになるとか」
高瀬は、壁に貼られている8月の臨時休業の案内を指差した。スケジューリングは、若旦那の都合に合わせることにしている。
「ええ、その日であれば大丈夫です。でも、私の都合などを優先していただいても良いのですか」
「全然問題有りません。施設長、有川さん、中森さんも大丈夫ですよね」
「異議無し」
「スケジュール良し。その日、あのメイド・イン・ユナイテッドキングダムの車を、お出しいただくことは可能でしょうか。有川さん」
「任せなさい」
いつもどおりの、正士と高瀬の軽妙なやり取りを見ながら、若旦那は笑っている。
「でも、今回は、施設長のところのお子さんも2人参加するので、僕のメイド・イン・イタリーも出させてもらいます」
「えっ、メイド・イン・イタリーって、高瀬さんのは、イタリア製の自動車なの」
由美が真っ先に関心を示した。
「車種は何」
三橋も興味有りである。
「これです」
高瀬は、スマートフォンに収めた自分の車の写真を皆に見せた。
正士は、自動車に精通している訳ではないが、高瀬の車は、自分が世話になった中古車ショップでも見かけたことがある。
「洒落た車に乗ってるね。高瀬さんは、イタリア車が好きなの」
「はい、イタリア車というよりも、ヨーロッパ車の雰囲気が好きです。僕の実家は、自動車の整備工場をやっているのですが、なぜか輸入車のお客さんが多いんです」
国産車に比べると、修理のコストが上がりがちな輸入車は、費用節約のために、ディーラー以外でも対応できることを、高瀬の実家のような整備工場に任せるオーナーが、結構居るらしい。
「僕も車が好きなので、子供の頃から整備の作業を手伝ったり、工場の敷地内で運転を教わったりして育ちました。で、去年、とあるお客さんから、格安で譲っていただいたのが、これなんです。良い車に出逢えて幸運でした」
高瀬の話を聞いて、正士は納得した。
なるほど、この男、自動車に詳しく運転も上手いはずである。
「国際色豊かな車で、お出かけという訳ですね。よろしければ、食材は、ある程度こちらで手配いたしましょうか」
若旦那から、嬉しい提案である。
「有り難いです。ねえ高瀬さん、我々が調達するよりも、プロにお任せした方がいいんじゃないかな。それと若旦那、量は多めでお願いします。なにせ、大食いコンビが居るもんで」
大食いコンビとは、正士と高瀬以外に無い。
「施設長、一緒にしないでくださいよ」
二人が口を揃えるが、これは『お互い様』の極みだろう。
とにもかくにも、夏の良き一日になりそうだ。デイサービスで、しばしば発揮される高瀬の企画力に、今回も期待したい。
「やっぱり暑いな」
3週間が過ぎた日曜日、真夏の朝日を浴びながら、正士はぐぅっと深呼吸をした。
真っ青な空に、大きな積雲が1つ、ふわりと浮かんでいる。
期待どおりに晴れ渡ったものの、8月の第2日曜日、暑くない方が不思議というものだ。
今回のバーベキューは、ほとんど高瀬が準備を受け持っているので、正士は、コーヒーとカメラくらいしか用意するものがない。
コーヒーは、深煎りのスマトラマンデリンを粗挽きし、冷蔵庫でじっくり八時間かけて水出しした。十分な量を作って、2リットルの保温水筒に入れる。三橋の子供たちが飲めるように、普段は使わない生クリームとガムシロップも用意している。
これから、キッチンジャヌーで待ち合わせた後、1時間程ドライブをして、バーベキュー広場へ向かう予定である。
いつもどおり早起きし、車の掃除は済ませている。暑いので、ワックスがけまでは行わない。
温度が上がっているボディに、いきなりワックスをのせると、焼き付きを起こして、えらいことになるし、以前、真夏の炎天下で車磨きを強行し、熱中症になりかけたことも有る。
「少し余裕をもって行こう」
待ち合わせの時刻よりも、15分程早く到着する見当で出発した。
車は、いつもどおり絶好調である。
元気よく噴き出してくるエアコンの冷気が心地良い。
フォレスタのCDを聴きながら、上々の気分で走って行く。
しばらくして、いつもの路地に入ると、見慣れた山小屋風の屋根が、フロントガラス越しに現れる。
「おう、早いな」
店の駐車場には、すでに白いイタリア車が停まっている。
隣のスペースにゆっくり入ると、高瀬が店の中から出て来た。
「有川さん、おはようございます。もう全員集合しています」
相変わらず『ルーズ』とは無縁のメンバーである。正士が待ち合わせのしんがりであった。
「おはようございます」
三橋が、二人の子供に促すまでもなく、声変わり前の挨拶が、正士の方に響いてきた。
「はい、おはよう。二人とも大きくなったなあ。ええと、和也君と修平君、今は何年生かな」
「5年生です。」
「3年生です。」
兄の和也が答えると、それを真似るように、弟の修平も答えた。
「下の子が、若旦那に妙になついちゃっているんだよね」
三橋の言うとおり、弟の修平は、若旦那の隣にちょこんと立って、離れない。
「子供の純粋な感性で、人となりが分かるんでしょうね」
正士の言葉どおりだろう。
また、小学生ながら、異形への恐怖を制御できている姿は、父親の教えが故に違いない。
「さて、荷物を積み込んで、出発しましょう」
高瀬が全てを仕切ってくれるので、他のメンバーは、ずいぶんと楽である。
「高瀬さん、荷物はどんどんこっちに積んでいいよ。それで、乗車の割り振りはどうする」
「皆さんの自由で良いのですが。和也君と修平君、ここの緑と白の車の、どっちに乗りたいですか」
まず、子供たちの希望を聞く。
「緑」
「白。いえ、緑」
二人の希望が割れたが、兄の和也が弟を慮った。
「誰と乗りたいですか」
さらに高瀬が尋ねる。
「わかだんなさん」
弟の元気な答えに、兄も反対はしない。
「申し訳ありません。我々が若旦那とお呼びするもので、子供まで真似をして」
「いいんですよ。私だって、三橋さんのことを、遠慮なく施設長さんと呼ばせていただいているのですから」
三橋と若旦那のやり取りを見ながら、正士は、乗車の割り振りに考えを巡らせていた。
子供たち二人と若旦那は、正士の車に乗る。
保護者として、施設長も同乗するだろう。サードシートは、荷物に占領されて人は乗れない。
となると、高瀬は、彼の車に由美と二人きりで乗る。そう、二人きりで乗る。
「羨ましいわ」
思わず口に出てしまった。
まさか、『高瀬さん、今日は君の車を運転させてもらってもいいかな』などと言えるはずもない。
「有川さん、話のタネに、僕の車を運転なさってみますか」
本日もまた、想定外のことを、高瀬が言い出した。
正士の心中を察した訳ではないだろうが、
今のこの場面では、これ以上望みようのないコメントである。
「ええっ、でも大切な車をいいのかい」
そうは答えたが、高瀬の提案が嫌であるはずがない。
『高瀬、おまえの意外性は、世界一素晴らしいぞ』
正士の心の叫びである。
荷物を積み終え、2台の車にそれぞれ乗り込む。
正士は、助手席のドアを開け、由美を促した。
「有り難うございます。有川さんのお車は、侍のような風情ですけれど、高瀬さんのこちらは、舞台俳優をイメージさせますね」
侍に舞台俳優とは、由美らしいセンスである。
「中森さんは、どちらが好みですか」
運転席に乗り込むと、正士は、恐る恐る聞いてみた。
「そうですね、カテゴリーが異なる車でしょうし、それぞれに、独特の魅力を持っていますので、比較するのが難しいですね。でも、こちらの車のデザインは、本当にお洒落ですよね。他とは明らかに雰囲気が異なります」
正士に対する気遣いを感じるが、由美の好みは、このイタリア車の方だろう。
確かに、誰が見ても洗練された姿をしている。
「ところで、高瀬さんから、これの車名を教わったのですが、サブネームに使われているコンペティツィオーネという単語は、どういう意味なのでしょう」
由美は、イタリア語の響きもお気に入りのようである
「コンペティツィオーネというのは、『競技』を意味するイタリア語です。英語で言うコンペティションですね。イタリアの他のメーカーでも、スポーツ性の高い車種の名に使われることが有ります」
「有川さん、いつも感心してしまうんですけれど、どうしてそんなに博識でいらっしゃるのですか」
「いやいや、とんでもない。単なる格好つけのにわか知識に過ぎません」
卑下するくらいが、クールというものだ。
車という狭い空間を、由美と二人きりで共有できるのは嬉しいが、どのような雰囲気になるものか、少し不安であった。
しかし、それなりに会話が弾み始めて、正士は安心した。
「今申し上げた、格好つけに通じるかも知れませんが、出発の際、私は中森さんのために、助手席のドアを開けましたよね。さらに言うと、皆で初めてキッチンジャヌーに行った時にも、私は中森さんを優先して店の中へ促しました。男性のこういった行為というのは、女性としては、どのように感じるものなのでしょうか」
幼い頃から、今は亡き父親に、『女の人には優しく向き合いなさい』と教えられ続けた正士は、由美に限ることなく、女性に対する気遣いの行動が身に付いてしまっている。
しかし、現代においては、これが逆に女性蔑視の行いであると解釈される可能性もある。
そもそも、レディファーストなるものは、中世以前に、ヨーロッパの上流階級とやらで発生した『淑女のたしなみ』である。
『男性の邪魔にならぬよう、先んじて用を済ませる』とか、『安全の確認や魔除けのために、男性より前を進む』など、その頃の女性は、男性に隷属する物のごとく扱われていた。
ところが、近代以降に発生したフェミニズム運動を緒として、このレディファーストは、『女性を優先する』という、起源とは逆の意味合いを示す言葉として用いられるようになり、さらに、男性が女性に取るべきマナーといった慣習も生まれた。
しかし今は、性別に基づいた行動理念そのものが、もはや時代遅れであるという考えが広まりつつある。
こういったことも踏まえ、正士は、自分の立ち振る舞いが、実際にはどのように見えているものなのか、由美の意見を聞きたかった。
「有川さんのおっしゃらんとすることは、よく分かります。確かに、相手が女性であるが故の気遣いは、反フェミニズム的であるという立場を取る人も居ると思います。私も、露骨に大事な者扱いをされてしまうのは嫌ですが、有川さんのご対応は、礼節を重んじた紳士的な行動と理解しています。なぜなら、有川さんは、女性だけではなく、あらゆる方に、同じ行動をとっておられるからです」
言われてみれば、自分は、様々な場面において、性別を問わず、相手にプライオリティを置くことを、旨としているかも知れない。
由美の意見は、正士自身がフェミニズムというものを意識するあまり、自身の行動パターンが、いまひとつ冷静に見えていなかったことを気付かせた。
「そう言っていただくと、大変嬉しいです。制度や法律をはじめとした、社会的な条件は、当然、性による差別があってはなりません。また、『男らしく』『女らしく』などという概念も、前近代的なものと言えます。しかし、男性が子を産むことができないように、如何ともしがたい性の本質的な違いについては、無理して乗り越えようなどと考える必要は無いでしょう」
由美が感嘆するような文言を、あれこれ考えたが、結局、当たり前のことしか言えずである。こういう所に、不甲斐なき自分を感じて仕方がない。
「それでよろしいのではないでしょうか。有川さんのお考えは、リベラルフェミニズムに近いですね。私も大体一緒の考え方です」
話しをしているうちに、そろそろバーベキュー広場に到着である。
いつも思うが、由美と共有する時間は、過ぎ行くのが速い。
高瀬の運転する車に続いて、駐車場に入って行く。
ドアを開けると、エアコンの効いた車内とは別世界の暑さである。
「車の中では、どんな話しをしていたの」
三橋が尋ねて来た。
「いやあ、この車のサブネームの意味とか、フェミニズムについてとか、ですね」
正士が、由美の方を振り返りながら答えた。
「うわぁ、インテリ夫婦の会話って感じですね」
「いやいや、そんなことはないよ」
深い意味も無く高瀬が発した『夫婦』という言葉だが、正士の妄想をかきたてること、この上ない。
「でも、高瀬さん、これは良い車だね。ターボチャージャーのおかげなんだろうけれど、とてもパワーを感じるし、足回りやブレーキもグッドだわ。ところで、そっちの車の中はどんな雰囲気だったの」
「盛り上がりましたよ。積んでおられるCDを、勝手にかけさせていただいたんですが、子供たちが音楽の時間に教わった歌なんかも有って、大合唱でした」
車にせよ、CDにせよ、自分の持ち物が皆の役に立つというのは、気分が良い。
「さて、お腹も空いて来たし、バーベキューの準備をしましょう」
高瀬が先頭に立ち、手分けして荷物を運ぶ。
割り当てられたスペースは、水場も近く、なかなか良い所だ。
早速、炭に火をおこす作業である。
「これって、慣れないと結構大変なんですよね。自信のある方居ますか」
高瀬は、あまり得意でないと見える。
「私がやりましょう」
若旦那が、そう言って、かまどに備長炭を並べ始めた。
形を揃えて並べ終えると、その隙間に使用済みの割り箸を詰めて行く。
「店で使った割り箸です。これを、焚き付けの薪の代用にします。ちゃんと洗ってありますので、ご心配なく」
洋食店に割り箸とは不自然だが、ナイフとフォークより、こちらを好んで使う客も、意外と居るらしい。
「若旦那、新聞紙などは、焚き付けに使わないのですか」
周りでは、新聞紙を用いているグループが多い。それを見ながら高瀬が質問した。
「はい、新聞紙は使いません。着火の効率が悪いんです。それに、紙は風で飛び火しやすいので結構危険です。それともうひとつ、燃え残りのインクが、食材に付着する恐れが有ります」
説明をしながらも、若旦那は、割り箸に塗り付けた着火剤に点火し、手際よく炭をおこして行く。
「大したもんだ、我々がやったんじゃ、倍の時間をかけても、炭は赤くなってくれないだろうね」
正士も感心している。
「若旦那、やはり印刷のインクは、身体に有害ですか」
真剣な表情で三橋が尋ねた。小学生の子を持つ親としては、心配して当然だろう。
「物によりましては、お気を付けになった方が良いと思います。現在の食品衛生法でも、ポジティブリスト制度、つまり原則使用を禁止したうえで、安全が確認されたもののみ使用を認める制度を導入して、パッケージに使用するインクなどの扱いを規程しています。また、印刷インキ工業連合会も、NL規制という自主規制を設けており、食品の包装材用のインクは、これに沿うかたちで製造されています。さらに、この規制にもとづいたインクであっても、直接食品への接触が無いように使用されるのが普通です」
「さすが、勉強になります。それでは、新聞紙で直接野菜を包むようなことは、しない方が良いのですね」
由美も真剣である。
「はい、おすすめできません。と言うよりも、おやめになった方が良いと思います」
かまどの中は、炭が赤くなり始めた。
「さあ、どんどん焼いてどんどん食べてね」
網の上にフランクフルトソーセージを並べながら、高瀬が子供たちに促した。
「これは、店からです。よろしかったら召し上がってください」
そう言って、若旦那が出したのは、見るからに値の張りそうな牛肉だった。
ピンク色の肉の中に、サシと呼ばれる霜降りの脂が、きめ細かく散らばっている。
全員の目が釘付けになる。
「わっ、若旦那、いいんですか、こんな高そうな肉をよばれちゃって。和也、修平、家じゃなかなか食べられないぞ。しっかりいただこうな」
三橋に、そんなことを言わせてしまう程、価値を感じさせる食材である。
「若旦那、この肉の銘柄は何ですか」
由美が尋ねる。
「これは、但馬牛のリブロースです」
「ああ、但馬牛ですか。確か、松阪牛や近江牛の素牛ですよね」
「おっしゃるとおりです。また、飛騨牛や前沢牛、仙台牛なども、但馬牛の血統が入っています」
語らいを楽しんでいるうちに、食材が次々と焼きあがっていく。各々好きなものを食べ始める。
「若旦那、本当に今日は、無理なスケジューリングではなかったのですか」
店の臨時休業に合わせたが、重要な用件が有ったのではないかと、高瀬はずっと気になっていた。
「高瀬さん、ご心配いただいて有り難うございます。でも大丈夫ですよ、外せない用事が有るのは父親だけですので」
「ああ、旦那さんの方ですか」
「実は、父親が来年の春、再婚することになりまして。お相手と、これからの生活についての話し合いをしているはずです」
「ええっ」
一斉に驚きの声があがった。
「まだ半年以上先ですが、お披露目パーティも行う予定です。皆さんもご招待しますので、ご迷惑でなければよろしくお願いします」
「おめでとうございます。我々からも、是非お祝いさせてください」
三橋の言葉どおり、慶び事の気分が場を満たす。
ただし、由美だけは、加えて何かを感じた様子だった。
「ほら、若旦那さんの肉が焼けたよ。どんどんいただいてね」
正士は、子供たちに肉を取り分けながら、自分も一口食してみた。
旨み、甘み、深み、そして繊細な食感、あらゆる肯定的要素が口の中に広がる。
「う、美味い」
そう言いながら、思わず若旦那に握手を求めてしまった。
質、量ともに、十分な食材がそろっている。
こういう場所では、美味しいものが、さらに美味しさを増す。
天気も、抜群に良い。
しかし、抜群に暑い。
「高瀬さん、君のおかげで、すばらしいバーベキューだけど、この次は、もう少し涼しい季節にしようね」
「はい、おっしゃるとおりです」
三橋の意見に、異論を持つ者は居ない。
「さて、冷たい飲み物を出しましょう」
高瀬が、大きなクーラーボックスを開ける。ジュース、アイスティー、ノンアルコールビール等々、この陽気の中では実に魅力的な飲み物が顔を出す。
「遠慮しないで、好きなものを飲んでね」
首にかけたタオルで汗を拭いながら、高瀬が子供たちを促す。
「良ければ、私が用意したコーヒーも飲んでみてください」
正士が、保温水筒を取り出した。
「有川さんがお淹れになったアイスコーヒーですね。是非いただきたいです」
若旦那は興味深々である。
「プロのお口に叶うか、ちょっと心配ですが」
そう言いながら、正士は、プラスチックカップに、コーヒーをなみなみと注いだ。まだまだ十分に冷えている。
「それでは、有り難くいただきます」
若旦那は、じっくりと味わう。
「美味しいです。雑味も有りません。豆はスマトラマンデリンですね。恐らく、粗挽きされた豆を、7時間から8時間かけて、丁寧に水出しなさったのでしょう」
気に入ってもらって、正士は自信がついた。肉や野菜を焼く手を止めて、全員分を用意し始める。子供たちのものには、ガムシロップと少し多めのクリームを使う。
「有川さん、プロのお墨付きですね。ところで、さっき若旦那が言っていた、豆の種類や作り方って、全部当たりですか」
「ああ、高瀬さん、『あんた見てたんかい』ってくらいに、完全に当たってる」
若旦那の牛肉には及ばないかも知れないが、正士のアイスコーヒーも、皆の好評を得ることができた。
「施設長、事務長が企画している『ケア女プロジェクト』というのは、今、どれくらい進んでいるのですか」
こういう場では、仕事にかかわる話をしない由美が、いきなり三橋に尋ねた。
「あら、中森さん、こういった所で、仕事の話しをするなんて珍しいね。何か有ったの」
「実は先日、事務長から食事に誘われました。私を、そのプロジェクトのイメージキャラクターとして考えているそうで、企画の内容を、詳しく説明したいということでした」
「ええっ、それで中森さん、誘いを受けたんですか」
思わず正士は、二人の会話に割って入ってしまった。
まさか、由美に目を付けるとは。
驚くと同時に、怒りと不快感が沸き立つ。
「いいえ、お断りしました。企画の説明などで食事に誘われても困りますし、ああいう方と二人きりというのも」
断るのが当然とはいえ、この言葉に、正士は安堵した。
「あっ、それ相手にする必要ないよ。本社が却下したから。彼は、コンテストの上位に入ることを信じていたらしいけれど、書類審査の時点でアウト。プレゼンテーションの機会すら与えられなかった」
三橋があっさりと言い捨てた。
「良かった。施設長、その書類審査というのは、いつ行われたのですか」
由美は、心底ほっとした様子である。
「私のところに、本社からメールが入ったのが一昨日だから、恐らく中森さんを誘ってあまり日が経たないうちに審査があったと思うよ。プレゼンテーションに進む企画の一覧を見たけれど、ケア女プロジェクトだの金木忠彦だの、そんなものは影も形もなかった」
「安心しました。若旦那さん、仕事の話題などを出してしまって、申し訳ありません」
由美は、すまなそうに頭を下げる。
「気になさらないでください。中森さんは食事の誘いが、本当にお嫌だったのですね」
洞察力に優れた若旦那である。事務長とやらが、好ましからざる人間だということは、すぐに理解した。
「施設長、大切な仲間の若旦那には、うちの事務長の実態を、お話しして良いかと思いますが」
「そうだね有川さん、私もそう思う」
正士は、金木について、事業所へ異動してきた経緯や、4月の機関紙に載った若旦那を愚弄したことなどを説明した。
しかしながら、こういう人間の話題は愉快なものではないし、悪口めいた内容にも、早々に嫌気がさしてくる。
「有川さん、有り難うございます。もういいですよ、その方の人となりは、概ね理解できました」
若旦那も、こういう話題が続くことを本意としない。
「若旦那、機関紙の写真のとき、施設長が居てくださらなかったら、有川さんは、事務長をぶん殴っていたと思いますよ」
高瀬が付け加えた。
「ああ、そうでしたか。有川さんのお気持ち、大変嬉しいです。重ねて有り難うございます。同じようなことには、これまで度々出くわしました。異形への恐怖を制御できず、差別や排斥に短絡する人間というのは、いまだに存在します」
「お父さん、『いけいへのきょーふ』って何」
若旦那の話しを聞いて、長男の和也が尋ねた。
「和也君、お父さんや、ここに居る皆さんと比べて、私の顔はどんな風に見えますか」
若旦那が、直接話し始める。
「耳が無かったりして、ちょっと変わってます」
「こらっ、和也」
「いいんですよ、施設長さん。和也君は、正直に事実を言っているだけですから、叱らないであげてください。和也君が言うとおり、私の顔は、皆さんと違うよね。こういう、見慣れていない姿のことを異形と言います。そして、人間というのは、この異形に出会うと、本能的に、ええっと、どうしても仕方なく、怖いと感じてしまうものなんです。これが、異形への恐怖ということです」
若旦那の説明に、和也は大きく頷いた。弟の修平も、話の半分以上は理解できている様子である。
「大切なのは、たとえ姿が違うと感じても、それで変な風に思ったりなんかせず、その人の中身をしっかりと考えて、向き合っていくことだ。お父さんの言うことが分かるか、和也、修平」
「うん、分かる」
三橋が職場では決して見せることのない、父親の顔である。
それにしても、この子らの社会的感性は、どこかの事務長殿の、はるか上を行く。
「さてさて、焼きそばを作りましょう。今日のは、一味も二味も違いますよ」
高瀬は、かまどから網を外し、水の入った大きな鍋を上に置いた。
「高瀬さん、焼きそばだよね。ラーメンじゃないよね。なんで鍋なの」
正士は、高瀬の行動が理解できない。
「有川さん、一味も二味も違うと申し上げたでしょう。今日は全蛋麺を使って、さらにトルコ料理風に仕上げます。なので、まず、麺を茹でます」
高瀬に、このような料理のセンスがあるとは、誰も知らなかった。
「高瀬さん、失礼だが見直したわ」
「あはは、施設長、お褒めいただくのは嬉しいのですが、こんな手の込んだことを、僕が考えると思われますか」
高瀬がそう言って、視線を送ると、若旦那が、気恥ずかしそうに手をあげた。
「ああ、やっぱり」
一同納得である。
全蛋麺は、かん水を使わず、玉子だけで仕上げた麺である。麺自体に旨みが有るので、焼きそばやラーメンをはじめ、様々な麺料理に応用できる食材と言える。
「火を通し過ぎると、麺の旨みが逃げてしまいますので、やや控えめの茹で時間で行きます。そして茹で汁は、麺から出た出汁が効いていますから、全部捨ててしまわず、焼きそばのソース作り用に、少し残しておきます」
麺の茹であがりを見て、高瀬は、かまどの上の鍋を、今度は鉄板に取り換えた。すかさず若旦那が湯切りをする。
炭は、焼きそばの調理がし易いくらいに、程よく火力が落ちている。
大きな鉄板にオリーブオイルを引き、高瀬が左半分のスペースを使って麺を焼き始める。その脇には、小さな金属のボールが置かれ、溶かしバターが作られている。
右半分のスペースでは、アルミホイルで囲いを設け、若旦那がトマトソースとヨーグルトソースを作り始めた。限られたスペースで、巧みに調理していく。調味料と合わせて、先程の麺のゆで汁を少し使い、味を整える。
麺とソースができあがった。ここで、若旦那が、調理済の薄切り肉を鉄板の上で温め始める。
「店で仕込んだドネルケバブです。今日は牛肉を使っています。さて、高瀬さん、仕上げをしましょう」
若旦那と高瀬は、素晴らしい手際で、麺の上にドネルケバブを重ね、トマトソースとヨーグルトソース、そして最後に溶かしバターをかけて、見る間に料理を完成させた。
「いやいや、実に見事。二人の動きを見ているだけでも楽しかったです」
正士は素直に感心した。
若旦那の良き指導が有ったのだろうが、高瀬が、ここまで器用に調理をこなすとは。
「この焼きそば、イシケンデル・ケバブの応用ですね」
由美が、耳慣れない料理の名前を口にした。
「トルコ料理風の仕上げっていう高瀬さんの話しだったけれど、中森さん、今のも、トルコ料理の名前ですか」
正士にとっては、未知の世界である。
「はい、トルコ料理のメニューです。本来のものは、焼きそばではなく、角切りのパンの上に具材をのせるんですよね。イシケンデルというのは、この料理の考案者の名前だそうです」
「中森さん、全くおっしゃるとおりです」
由美の知識に、若旦那も舌を巻いた。
「料理も然りですけれど、私、トルコの文化が大好きなんです。現地にも、これまで2度旅行しました。5年くらい前からは、ベリーダンスも習っているんですよ」
これまで由美とは、趣味の話しなどをしたことが無かったが、彼女がトルコの文化に明るいとは、正士には新鮮な驚きであった。
「ベリーダンスって、あの、とんでもなくセクシーな衣装で踊るあれですよね」
高瀬は、早くも興奮気味である。
正士も、由美が衣装を身に着けて踊る姿に想いを巡らす。動じていない体を取り繕うことに必死ではあるが。
「セクシーかどうかは、分かりませんけれど、露出が多い衣装であることは事実ですね。
あっ、若旦那さん、ご迷惑でなければ、お店でご披露いたしましょうか。でも、良く考えるとミスマッチかしら」
「中森さん、大歓迎です。父親も絶対喜ぶはずですよ」
「やったー」
若旦那の答えに、高瀬が真っ先に声を上げた。
正士は、とにかく平静を装う。上昇し続ける心拍数を感じながら。
「いいね。それで、いつ頃拝見できるかな」
冷静な言い振りは、いかにも三橋らしい。
「若旦那さん、急かもしれませんけれど、今度のジャヌー・ミーテイングのときなどはいかがですか」
「えっ、あと1週間しかないですよ」
思わず正士が発した言葉だが、これは余計な心配だろう。
「私は、いつでも大丈夫です」
「店の方も、全く問題ありません。でも、うちのような狭い所で大丈夫ですか」
「通路がゆったりしているので、丁度いいです。あとは、着替えとメイクのスペースだけご提供いただければ」
下衆は承知だが、由美が着替えをする姿を、正士は、あれこれ想像してしまった。
「今晩父親に話しをして、告知のポスターも、さっそくパソコンで作りましょう」
簡単に話がまとまったが、正士にとって、これは間違いのないビッグイベントである。
「さてさて、それでは、焼きそばを食べましょう」
高瀬は、出来たての焼きそばを紙皿に取り分け始めた。
トルコ風の焼きそばとは、ここに居る全員の未体験ゾーンに存在する代物である。
「ああ、美味しい」
真っ先に食した由美が満足している。ならば間違いのない料理だろう。
正士も、するりと麺を口に入れる。初めて遭遇する味だが、確かに美味い。
子供たちも、無心にほおばっている。
「若旦那、うまくいったと言えるんじゃないですか」
「そうですね。高瀬さんのご協力に感謝します」
若旦那は、トルコ料理の要素を取り入れたオリジナルメニューを、店に加えたいと考えているようである。
それを高瀬に話したところ、今回の焼きそばのアイデアが出た。
これが、そのまま店のメニューになる訳ではないが、研究のための良い材料になっていることは確かである。
さて、食べる物も、飲む物も、おおかた皆の体に収まった。
どこか涼しい場所へ移動して、ゆっくりしたい気分である。
「一旦片付けをして、近くの河原に行きましょう」
高瀬の一声で、皆、動き始めた。
かまどを片付けている若旦那に、由美が近付いて行く。
「若旦那さん、間違っていたらごめんなさい。お父様の再婚のお相手は、私たちも良く知っている方ではないですか」
周りに聞こえないよう、由美は小声で尋ねた。
「あれ、中森さん。気付いておられましたか。おっしゃるとおり、父親が再婚する相手は、柴君子さんです。皆さんが、同じ職場と聞かされたときは、私も本当に驚きました」
若旦那も、声を落として答える。
「やっぱり。でも、他のメンバーには、しばらく黙っていますからね」
「有り難うございます。皆さんには、機会を見てお話しさせていただきます。まずは、今度の土曜日、ベリーダンスを、よろしくお願いします」
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