第5話 人の在りよう
「おはようございます。有川さん、A2サイズの機関紙ができ上りました。でも、少し問題が有りまして」
4月上旬、正士と由美が担当した機関紙が仕上がった。
利用者殿や関係先に配布するものは、事業所内でA3サイズのプリントアウトを行うが、玄関と、デイサービス出入口の掲示用は、その倍のA2サイズであるため、専門の業者に、プリント作業を依頼している。
「中森さん、有り難うございます。今回は、キッチンジャヌーに進呈する分も合わせて、A2サイズは3枚ですね。さっそく掲示しますが、問題って何ですか」
車椅子を使用する方の目線に合わせ、掲示の位置は、やや低めである。
「はははっ」
紙面をひろげた正士は、由美の言う問題にすぐ気付き、笑ってしまった。
プリントアウトというものは、当然のことながら、拡大をすればする程、画質が低下して行く。特に写真やイラストは、文字に比べて、その傾向が強くなる。
ここで正士が笑ったのは、例の金木による自己紹介写真である。
原稿を見た時に分かってはいたが、スマートフォンでの自撮りであろうこの写真は、もともとの画質の粗さにブレも加わり、オリジナルの時点で、相当クオリティが低い。
それを拡大したものであるから、画像の劣化は、目を覆わんばかりである。
対して、正士が撮影したものは、この程度の拡大では影響など出ず、同じ紙面に『これで良いのか』と思うくらい、質に差のある写真が載ってしまった。
「中森さん、問題というのは、この写真のひどさですね」
正士は、金木のにやけ面を、指で弾きながら言った。
「はい、最先端の画像処理技術を使えば、ある程度の画質向上は可能だけれど、コストの問題が無視できないと、業者の方が言っていました」
「まあいいでしょう。ご本人も『完全原稿で校正無用』とおっしゃって来た訳だから、何も文句は無いはず。しかし、良く仕上がった他の記事が、こいつに足を引っ張られている感は、否定できないなあ」
「おう、できたね。いい具合じゃないの。あらら、一番左下の写真は、天罰でも下っちゃったかな」
三橋も、さっそく金木の写真が目に入ったようである。
「これは施設長提出分です」
正士は、三橋に、配布用のものを一枚手渡しながら、金木の写真の質の低さについて説明した。
「これに、最先端の技術や高いコストを投入する意味は無いから、まあ仕方ないね。他の部分が良いだけに、残念ではあるけれど」
三橋も、苦笑するより術が無さそうだ。
「さて、有川さん、日課のデイサービスお迎え運転手をしに行こうか」
「はい」
三橋に促され、正士は、ここを由美に任せて表へ出て行った。送迎ルートの都合で、高瀬が受け持つ車両は、すでに出発している。
玄関と、デイサービス入り口への掲示を済ませ、配布用の機関紙の仕分けをしている由美の所へ、金木がやって来た。自己紹介の記事が気になるらしい。
「こちらが、事務長提出分の機関紙です」
由美が、配布用の1枚を差し出すと、金木は、返事もせず受け取った。
「職員の自己紹介は、いつもこの場所に載せてるの」
自分の記事を見つけたものの、左下というスペースが、あまりお気に召さない様子である。
「はい。利用者様関連の記事が右上、その他一般的な記事が中央から下、そして職員にかかわるものが左下というのが、基本的な構成です」
「あ、そう。でも写真はどうにかならなかったの」
さすがの金木も、自分の写真のまずさに気付いた。A3サイズの配布用ですら、救いようの無い画質である。
「スマートフォンのカメラや、ウェブカメラで撮影された画像は、大体こういう感じになるんです」
『画像処理技術をつぎ込むに見合う程のものではない』と言う訳にもいかず、適当にあしらうしかない。
「あれ、この写真も駄目じゃない」
急に金木が笑い始めた。
「何、この人の顔、完全に壊れてるよ、誰が撮ったのこれ、カメラ故障してるんじゃない」
金木は、若旦那を指差して笑っている。他人の失敗が楽しくて仕方ないらしい。
「いいえ、事務長。カメラの故障ではありません。この方は、ご病気でこういう顔のお姿なんです」
毅然と由美は答えた。
そこへ、運転業務の手伝いから、正士と三橋が帰ってきた。
「中森さん、すっかり任せてしまって申し訳なかったです」
正士が、由美に詫びていると、金木が話しに割り込んできた。
「何、この人病気なの。こんな顔して洋食屋で働いてるの。気持ち悪いよね。こんな店で食事する客なんか居るのかね。なんでこんな所の記事載せたの」
金木は、薄笑いを浮かべながら、人の道に悖ることを言い放題。
しばらくは辛抱していた正士だが、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減にしろ、この野郎」
デイサービスの利用者殿が、次々と到着する時間帯である。周りには聞こえないが、十分に凄みが効いた声と三白眼で、上から睨みつけた。
金木は、その場に凍りつく。
「はいはい、はいはい、どれどれ、私にもちょっと見せてよ」
三橋が、滑稽な体を装って間に入って来る。
これ以上放置すると、正士は金木を殴り倒すかも知れない。こういう場を手っ取り早く収めるには、ばかばかしい空気でしらけさせてしまうのが一番である。
「あらあら、施設長、僕にも見せて下さいよ。おやおや、このお店はキッチンジャヌーじゃないですか」
ひと足遅れで戻って来た高瀬も、場を瞬時に察して三橋に同調する。
「相変わらず若旦那も頑張ってるね。この写真もいい感じに撮れてるわ」
「本当ですね、有川さんが撮ったんですか。空ばかりじゃなく、こういう写真もお上手だったんですね」
二人の、どうにも仕方のないかけ合いが続く。
その意図を理解した正士も、流れに加わる。
「いやあ、こっちの雪うさぎ撮ったときはあんまり寒いんで、トイレに行きたくて、仕方なかったんだよなあ」
ただ一人、目の前の空気が読めない金木は、為すところを知らず立ち去った。
「施設長、野卑な言葉を発して、申し訳ありませんでした」
正士は、三橋に向かって頭を下げた。
「有川さん、友人をあれだけ愚弄されれば、頭に来るのも無理はないよ。ただ、今の世の中、どんな理由であれ、手を出した方が悪者になる。あんな人間をぶん殴ったくらいのことで、君程の人材を絶対に失いたくない」
「恐れ入ります」
「いまだに、ああいうことを平気で言う人が居るなんて、本当に情けないですね。でも施設長と高瀬さんのかけ合いに、有川さんまで加わったときは、さすがだなと思いました。垢抜けないトリオ漫才みたいでしたけれど」
『垢抜けないトリオ漫才』とは、嬉しい表現と言い難いが、由美に感心してもらえればそれも悪くはない。
「さて、それぞれの仕事に戻ろう。有川さん、今日は、本社の会議が昼過ぎまでかかると思うので、すまんが、午前中の高校生の見学対応よろしくね」
「承知しました」
正士は高瀬とともに、デイサービスのスペースへと歩きだした。
由美も、ケアマネージャーの部屋へと向かう。
「有川さん、『ケア女』って聞いたこと有りますか」
歩きながら、高瀬が尋ねてきた。
「いや、聞いたことが無いけれど、何だいそりゃ」
ケア女などという言葉に、お目にかかったことは無いが、時流に便乗した『○○女』や、『○○ガール』なる呼称が、もてはやされることが有る。
そんなものは、上っ面主義の軽薄な現象に過ぎず、正士は、まるで関心を持っていない。
「毎年、本社が企画コンテストをやるじゃないですか。そこに事務長が『ケア女プロジェクト』という企画を出しているんです」
愚にもつかない内容であることは、容易に想像できるが、高瀬がこんな情報をどこで拾ったのか、少し不思議だった。
「高瀬さん、何でそんなこと知ってるの」
「昨日、柴さんの所に、事務用品を貰いに行ったんですが、奥の席の事務長が、『ケア女プロジェクト』という企画書の表紙を、わざとらしく机の上に置いているんですよ。『自分はこういうことができるんだぞ』って言いたいんでしょうね。あまりにも見え透いたアピールなので、僕なりの反応をして差し上げたんです」
「どういう風に反応したの」
「『事務長、けあおんなって何ですか。雪女の友達みたいで、なんか怖いっすね』と」
高瀬の行いは、反応と言うよりも茶化しである。褒められるべきものとは言い難いが、正士は思わず笑ってしまった。
「で、事務長のリアクションは」
「有川さん、笑わないでくださいよ。あの人は真顔で怒って、『けあじょって読むんだよ。けあじょ。だから企画をやったことが無いレベルは嫌なんだよな』って、怒鳴りつけて来たんですから」
「柴さんは、どんな顔してた」
「呆れた様子で、笑いをこらえてました」
その場の状況を想像した正士は、我慢できず大笑いしてしまった。
周りの人間が、一斉にこちらを向く。
「すみません、皆さん。何でもありません。失礼いたしました」
朝から、少々気恥ずかしい。
「それで、あいつの企画とやらは、何がしたい訳」
「僕も、詳しく知ろうなんて気はないんですが、介護に従事する女性を『ケア女』とイメージ化して、戦略的な人材の確保と事業の拡大をはかるプロジェクトだそうです」
案の定、軽佻浮薄な臭いに満ちている。
「高瀬さん、同じ考えだと思うけど、放っておこう。そういう戯事には興味無いし、関わる必要もない。コンテストでも何でも、勝手にさせておけばいいさ」
取るに足らない者の話題よりも、本日は、利用者殿と関係先に機関紙を配布するための、封入作業をしなければならない。
A3サイズの機関紙を、綺麗に折って封筒に入れて行く。デイサービス利用者殿の分には、各々に先月の利用料の請求書も同封する。
黙々と作業するが、正士も高瀬も手先が器用とは言えないので、遅い。
「高瀬さん、いつも思うけど、こういう作業って、結構しんどいね」
「そうですね、紙の角をぴったり合わせて、折り目はまっすぐになんて、得意な人には何でもないことでしょうけれど、はっきり言って僕らは適性に欠けているかも」
愚痴をこぼしつつ、何とか二人で100通をやり終えた。そろそろ、見学の高校生がやって来る時刻である。
「はい、ご苦労さん」
金木がデイサービスのスペースに入って来た。揃いのブレザーを着た男女4人を引き連れている。
「ああ、見学の高校生だ」
対応を引き継ごうと、向かって行った正士を無視して、金木が4人に説明を始める。
「君たち、例えば『徘徊』という言葉を使ってしまっていないかな。これは不適切な表現なので『ひとり歩き』という言い方に改めなければならないね。僕は、こういった間違いも気付かせながら、『ケア女』を大々的に発信して、この施設に限ることなく、世の中全体を啓蒙したいと考えている。君たちの世代にも、どんどん参加して欲しいな」
脈絡の無い話しに、高校生たちは当惑している。
「今朝の仕返しのつもりかい」
正士が呟く。
三橋から任されてはいたものの、見学対応を巡って、金木ごときと諍うのも大人気ない。この場は静観することにした。
「有川さん、良くないですよ。何も分っとらん奴に、ああいうアホ丸出しの説明をさせといちゃ」
高瀬も憤る。
「珍しく言葉が厳しいね。でも、確かに高瀬さんの言うとおりだ。放っておけば、あれがうちのレベルだと誤解されかねないな。適当なタイミングで介入しよう」
どこかで見たようなやり取りである。
「何か質問は有るかな、何でも良いよ」
相手は高校生、金木にしてみれば、た易く対応できる相手ということなのだろう。
「おいおい大丈夫か、そうやって人を軽んじていると、今に痛い目を見るぞ」
一連のやり取りを眺めながら、もはや高瀬は、憤りを超えて呆れ返りの心境である。
そして、その言葉どおり、小柄な女子生徒の口から、思いもよらない質問が示された。
「ノーマライゼーションとアンコンシャス・バイアスは、関連するものなのでしょうか」
正士と高瀬は、顔を見合わせた。
「有川さん、高校生って、侮れないですね」
「ああ、ノーマライゼーションとアンコンシャス・バイアスの関連とは恐れ入った」
女子生徒の顔立ちを見る限り、聞きかじった言葉を、知ったかぶって振り回すようなタイプではない。
二人は感心したが、金木には、分かる由もない単語が並んでしまった。
「ああ、それか。ええーと、どういうふうに説明するのが一番分かり易いかなあ。なかなか難しいところだね」
狼狽える姿が見苦しい。
「早々に化けの皮が剝がれたな。さて、我らの出番だわ」
そう言いながら、正士は容赦なく話しに割り込んで行く。金木の立場など、どうでも良い。
「ノーマライゼーションの阻害要因として、アンコンシャス・バイアスが関連することは間違いないね。ここで、ひとつのキーワードとなって来るのが、ダイバーシティ」
生徒四人の目が、一斉に正士の方を向く。
「私は、有川。このデイサービスの管理者です。そしてこちらは、高瀬生活相談員。さてさて、ダイバーシティというのは、どういう意味かな」
「ちょっと分かりません」
生徒らが口々に答えた。
「ダイバーシティというのは、多様性ということ。言い方を変えれば、人それぞれ。ちなみに、ここに写っている人を見て、どう感じるかな」
正士が指し示したのは、壁に貼られた機関紙の中の若旦那である。
「病気か事故か、よく分かりませんが、お顔の姿が変わっていらっしゃいます。でも、こういう方も、そうでない方も、全ての人間が、普通で当たり前に生活する社会の実現が、ノーマライゼーションだと思います」
もうひとりの女子生徒が答えた。
「そのとおり、良く理解できているね。心身に障がいを持つ人や持たぬ人、社会的少数派の人々や多数派の人々、これらをはじめとした全ての人間が、分け隔てなく当然に生活できる社会こそ、通常すなわちノーマルであるという理念が、ノーマライゼーションだよね。ちなみにこの人の容姿は、病気が原因です。仕事は、キッチンジャヌーという洋食店で、接客を担当しています」
「えっ」
正士の説明に、背の高い男子生徒が、思わず声をあげた。
「君は、今なぜ『えっ』という声をあげたのかな」
「はい、接客の仕事は、この方にとって、いろいろ大変なことが有るのかなと思いました」
男子生徒は、申し訳なさそうに答えた。
「うん、それが、アンコンシャス・バイアス。つまり、無意識による偏見だね。こういう顔の姿では、直接お客さんに対応する仕事は無理だろうという、意識しない偏った見方が、さっきの『えっ』につながったと言える」
「このおじさんは、決して君を批判している訳じゃないから、それは心配しないでね」
高瀬のコメントで、厳しくなりかけた場の空気が、一気に和んだ。
「高瀬さん、相変わらず空気の読みが抜群だね。良いフォローをありがとう」
高校生たちが、一斉に笑う。
「さて、改めて考えたいのが、ダイバーシティということ。つまり、顔の姿、身体の姿、知力や体力、そしてものの考え方等々、人間の様々な在りようによって、社会というものは成立している。この多様性を、しっかりと理解することで、一方的な感覚や見方による、偏見とか差別は消えて行く。これが即ちアンコンシャス・バイアスの消滅であって、ノーマライゼーション実現への、ひとつの道筋ということになる。さらに言うと、こういうことが当たり前になれば、多様性という概念を、いちいち引っ張り出す必要すら無くなって来る。『そんなことは理想に過ぎない』と言う人も居るが、それも然り。現実というものは、なかなか思うような方向には進まない。しかし、理想論を放棄した現実論は、単なる保守的な妥協に過ぎず、これではいつまで経っても、社会の進化というものは無い。逆に現実を見つめることをしない理想論は、安易な空論でしかないので、これも意味を持たない。現実をふまえ、地に足をつけながらも、理想は高く持って、考え、行動する。もちろんこういう姿勢を押し付ける意図は無いので、今後の参考にでもしてね」
自らの信念であるものの、これを高校生に無理強いするようなことは、正士の本意ではない。
「まあ、『理想は大きく現実は小さく』ってところだよね。それと、僕らが生業としている社会福祉という領域は、あくまでも実践哲学なので、きれいごとの理屈だけに終始する、頭でっかちにはなっちゃいけない。しんどいけれど、理論と実践の両方を高め続ける『全部でっかち』で在りたい。でも、これがまた本当に大変なのよ」
一見冗談めいた高瀬のコメントだが、結構真理に迫るものが有る。
正士と高瀬の話しに聞き入る四人の表情は、言うまでもなく、ここへ入って来た数分前とは別人の輝きである。
そういえば、いつの間にか金木が姿を消している。
正士は、予定の時間を少しオーバーして、見学対応を続けた。
「有川さん、事務長を弾き出しちゃいましたね」
見学を終えた高校生たちを見送りながら、溜息交じりに高瀬が言った。
「放っておいて構わんさ。能力無き者が差し出たことをして、勝手に自滅しただけだから。」
「よく、中森さんが、『コミュニ―ションを放棄すべきではない』とおっしゃるじゃないですか。事務長相手に、やっぱりそうして行かないと駄目なんですかねえ」
「ああ、確かに中森さんの言っていることは正しいけれど、その時の状況次第だよね。必要以上の気遣いなどは、一切無用だわ」
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