第4話 旦那と若旦那
「ガソリン満タン、忘れ物なし、さて行こうか」
向かうは職場。心躍る気分で、正士は車を発進させた。
本日の、取材を兼ねた食事会にあたり、当初正士は、メンバーそれぞれの家を、車で迎えに回るつもりだった。
しかし、どれだけ効率の良い走り方をしても、全員の家を回り切るには、2時間近くを要してしまう。
そこで、皆、職場に集まったうえで、正士の車に乗り、キッチンジャヌーに向かうということとなった。
早起きして、ボディにワックスを施し、車内も念入りに掃除している。
綺麗な車は、運転していて心地が良い。
日曜日のため、道路も混んではいない。
「ありゃ、もう着いちゃうか」
はやる気持ちのせいだろう、待ち合わせの時刻よりも、30分以上早く職場に着いた。
当然、まだ誰も居ないものと思いながら、車寄せに停車すると、玄関に人影が見える。
「誰だろう」
窓越しに目を凝らしていると、電源の落ちた自動ドアを手で開きながら、由美が出て来た。
これは、思いがけない。
「中森さん、ずいぶん早いけれど、どうかしましたか」
車から降りて声をかける正士の顔は、自然と緩んでいる。
「あっ、有川さん、今日はよろしくお願いします。実は、事務長から預かったメモリスティックを、机の上に置きっぱなしで帰ってまって。少し心配で、確認して来たんです」
「もしかして、あの自己紹介のファイルが入っているやつですか」
「はい、そうです。幸い無くなってはいませんでした」
「それは何より」
些細なことでも騒ぎたてる金木である。メモリスティックを紛失したなどと言ったら、それこそ子供のように、悪態をつきまくるに違いない。
「わあ、すごい、大きな車ですね。色も素敵」
正士の車を見た由美の第一声である。彼女の反応を、あれこれと妄想していたが、最高に近いものが現実となった瞬間と言って良いだろう。
「先月手に入れたのですが、もう20年近く前の、古い車なんですよ」
調子に乗って、車の蘊蓄を語りまくるのは禁物だ。さり気なさこそ格好良さである。
「さて、中森さんは、どこの席がいいですか」
正士は、『助手席』という返事を、心の底から望んだ。
「おっと、これですか。デザインから察するに、2004年式あたりですね」
正士と由美の背後から、高瀬の声である。
「おはようございます。有川さん、今日はよろしくお願いします。いやあ、いい車に乗っておられますね。現行モデルも秀逸ですが、この頃のやつも武骨な感じで好きだなあ。ブリティシュ・グリーンのボディカラーもいいですね」
高瀬は、正士の車について、妙に詳しい。
「おう、高瀬さん、こちらこそよろしく。しかし若いのに、こんな古い車のことを良く知っているねえ」
由美とのひと時を、またもや高瀬に奪われた。しかし、車の話題を盛り上げてくれるのは有り難い。
「その年式だと、自動車税は、忌まわしき割増だね。エンジンも大きいだろうし、ランニングコストが高そうだけれど、それを補って余りある魅力が有るに違いない」
この声に驚いて振り返ると、三橋が立っていた。
「あっ、施設長、お疲れ様です。今日はよろしくお願いします。おっしゃるとおりで、元々高い自動車税は、さらに15%増し、ガソリンも大喰い。でも好きなんです」
由美の前で車を褒められるのは喜ばしいが、三橋、高瀬ともに、もう少し時間にルーズであってくれれば、さらに正士は嬉しかった。
「施設長も、高瀬さんも、車にお詳しいですね」
『なるほど』。由美の、この言葉に、正士は感じ入った。『男の方って、車にお詳しいですね』という言葉が出てもおかしくない場面だが、そういうアンコンシャス・バイアスの轍を踏まないところは、さすがである。
人との会話について、いちいち論理的分析をはかることなど無用かも知れないが、思慮深き発言は、やはり耳への当たりが良い。
「では、そろそろ出発しましょう。皆さんお好きな席へどうぞ」
正士は、場の成り行きに任せることにした。
由美が助手席に座って欲しいことは間違いないが、期待や気遣いが過ぎると、メンタル面の健康を害す。
「有川さん、運転させてもらってもいいですか」
高瀬が、全く予期していなかったことを言い出した。
「えっ、ああ、構わんよ」
不意を突かれた気分の正士は、そう答えるしかない。
運転技術を疑うような態度を示しては失礼であるし、任意保険も運転者が本人や家族に限定されていないので、不測の事態が起こったとしても何とかなる。
高瀬の申し出を断る理由は無いだろう。
「それじゃ私は助手席へ、この車のコックピットを、一度見てみたかったんだ。できれば、帰りは運転もしてみたいな」
三橋も、想定外のことを言い出した。
「あっああ、どうぞ、どうぞ」
もはや、二人の為すがままである。
結局、後部座席に由美と二人で座ることになった。ある意味で当初の希望がかなったかたちと言える。運転する姿を見てもらうことが、ベストではあったが。
「有川さん、すみませんが、後ろから道を教えてください」
「了解した」
運転席に高瀬、その後ろに正士、助手席には三橋、そして正士の隣に由美である。
皆、それぞれのドアを開け、乗車する。
「おおっと、本革シート」
高瀬は、気付いて欲しいポイントを外さない。
「すごい、古い車っておっしゃいましたけれど、とても綺麗ですね」
由美の感想も期待どおりである。
「コックピットも、イギリス車的な風格が有るね」
三橋のコメントも有り難い。
「えっ、今、施設長がイギリス車っておっしゃいましたけれど、有川さん、この車ってイギリス製なのですか」
由美は、あまり自動車には詳しくない様子である
「あれ、中森さん、知らなかったの。これは、世界的に有名なイギリスの四輪駆動車だよ」
正士が答える前に、三橋が振り返って説明してくれた。
嬉しさこの上ない正士だが、平静を装って三橋の言葉に頷き、高瀬に指示を出す。
「高瀬さん、まずは国道に出よう。そこまでの道は任せる」
「はい、では発車します」
高瀬は、ゆっくりと車を発進させた。運転は、相当手慣れていると見える。
「やっぱり4リッターエンジンは、低速から力を感じさせますね。すごく動かし易い車です」
「4リッターエンジンって、どういう意味ですか」
由美は、高瀬の言うことが呑み込めない。
「エンジンンの排気量が4リッター、つまり4000㏄ということです。ちなみに、うちのデイサービスの送迎車は2000㏄ですから、この車は、その倍の大きさのエンジンということになります」
高瀬が上手に説明してくれるが、恐らく由美には、排気量というもののイメージが湧いて来ないだろう。
「有川さん、大きなエンジンだと何か良いことが有るのですか」
由美が、再び正士に質問して来た。待ちに待った瞬間である。
「高瀬さんが言った排気量というのは、燃料を爆発させるシリンダーの容積です。当然これが大きい程、強いパワーやトルクが発生するので、運動性能に余裕が生まれます。特にこういう重量の有る車では、エンジンの力がないと、まともな走りができません。ただし、小さなエンジンの車に比べて、どうしても燃費が悪くなり、また自動車税なども高くなりますから、ランニングコストが嵩むという欠点が有ります」
「なるほど、よく分かりましたけれど、トルクって何ですか」
自動車や機械に詳しくない人間にとって、エンジンのパワーは何となく理解できても、トルクは馴染みが薄い言葉であろう。
「そうですよね、パワーについては、100馬力とか200馬力なんていう表現を、時々耳にする機会が有りますけれど、トルクは、日常ほとんどお目にかからない言葉かも知れませんね。簡単に言ってしまえば、パワーは、エンジンの回転によって継続的に生み出される力で、スピードの源。トルクは、そのエンジンの回転を生み出す瞬間的な力で、粘り強さの源です」
「なんとなく理解できました。でも、有川さんは、どんなことにもお詳しいですね」
「いやいや、とんでもない」
自分への評価が、上向いていると信じたい。
「あっ、高瀬さん、次の路地を左に入って行こう」
もう少し、由美と空間を共にしていたかったが、すでに店は近い。
時刻は、そろそろ午後2時である。
事前に、取材についての了解を得ているが、若旦那からは、客の出入りが一段落する、この時間帯をすすめられた。
それ故、各人相当空腹である。
「施設長、腹減りましたねぇ」
高瀬が、左にハンドルを切りながら、隣の三橋に声をかけた。
「そのとおりだ、有川さんの話しだと、料理の質も量も素晴らしいということなので、思いっきり食事を楽しめそうだね。しかし高瀬さん、運転上手いね」
「本当ですね、施設長。後ろに乗っていても、とてもスムーズに車を走らせているのが分かります」
三橋の言葉に、由美も納得している。
少々悔しい気もするが、正士の目から見ても、確かに高瀬の運転は見事である。
ドライバーの技量は、左折などの動きの際に推し量ることができる。いわゆるコーナーリングテクニックの巧拙である。
技術の足りない者は、大きく外側へ膨らんでコーナーに進入したり、ブレーキを踏んだまま曲がったりする。また、『内掛けハンドル』という、明らかに誤った操作を行う者も居る。
路地への左折の際、高瀬が取った走行ラインや、スローイン・ファーストアウトの速度コントロール。そして『プッシュプルハンドル』というテクニックなどは、稚拙なドライバーが、到底真似できる次元のものではない。
「有川さん、あの左側に見える店ですか」
「そうそう高瀬さん、店のすぐ先に駐車スペースが有るから、そこへ入れよう」
「はい、了解です」
高瀬は、すいすいと枠の中央に車を収める。もちろん、切り返しなどしない。
「さあ、入りましょう」
ドアの横の黒板には、本日のおすすめメニュー。今回は、ミックスフライである。
正士は、まず由美を入り口に促した。
「いらっしゃいませ」
旦那と若旦那の声が揃う。
「旦那さん、まだ深いお付き合いでもないのに、取材などという無理なお願いを聞いていただいて、有り難うございます。若旦那、職場の面々とやって参りました。今日はよろしくお願いします」
正士は、旦那と若旦那に三人を紹介した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。取材をしていただくなんて、本当に初めてのことなので、緊張しています」
若旦那は、一番奥のテーブル席に四人を通した。店内は、他の客で半分くらい席が埋まっている。
「うわぁ、本当に素敵なお店ですね」
由美の言葉に、三橋と高瀬も頷いて、店内を見回す。
皆、この雰囲気を気に入ってくれたようである。
「さあ、まずは美味しいものをいただきましょう」
正士は、お気に入りのダブルハンバーグと、大盛りライスをオーダーした。
三橋も同じくダブルハンバーグであるが、ライスは普通。由美と高瀬はミックスフライで、由美はバターロール、高瀬は正士と同じく大盛りライスだ。
スープは全員ポタージュを選んだ。
もちろん食後には、日替わりのおまかせコーヒーである。
「あれが、店名の由来になっているジャヌーか。素人目に見ても、物凄い山だな」
三橋は、壁の写真を畏怖するように眺めている。
「標高は、7710メートル、第一位のエベレストから数えて、32番目の高さだそうです」
「有川さん、本当に何でも良く知っておられますね」
正士の説明に、由美がまた感心した。
「いやいや、中森さん、今のは、先日ここの旦那さんから教わったんです」
若旦那からオーダーの内容が伝わると、早速旦那の手の中で、パンパンとハンバーグの種が往復する。
「旦那さんが今やっておられるのは、空気抜きですよね」
スープとサラダを運んで来た若旦那に、正士が尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「そうおっしゃる方が多いのですが、あれは成型の作業です。ご存知のとおり、種から空気を抜くことはとても大切で、それをしっかりやりませんと、焼いたときにハンバーグが割れてしまうことがあります。ただし、その空気抜きは、種をこねる時に行っています」
「ああ、そうだったんですか。私もハンバーグを作るときに、旦那さんの真似事のようなことをしますが、今のお話しを聞くまで、空気抜きだと信じていました」
正士よりも由美の方が、思いがけないといった表情である。
若旦那の病気については、三人には全く話しをしていなかったが、誰も気にかけることはなく、普通に語らいが始まっている。
料理を待つ間に、正士は、バッグからカメラを取り出して、動作のチェックを始めた。
「有川さんのカメラ、すごいですね」
正面の席に座った由美が、驚いたように見入っている。
「まあ、機材に見合う腕が有るかどうか、全く自信は無いですけれど」
「あらま、ご謙遜」
二人の会話の合間に、出入口脇のレジの方から、常連と思しき客と若旦那のやり取りが聞こえてきた。
「雅志さん、さっき取材って言ってたけれど、グルメ雑誌か何かの人たちなの」
「あっ、いいえ、近くの介護事業所の方々です。たまたま、うちの店を気に入ってくださり、事業所内の機関紙で、記事にしていただけることになったんです」
「そうか、それならあまり心配ないな。いや、情報誌みたいなもので大々的に紹介されて、ここが繁盛してくれるのは嬉しいが、客が増えると、来なくてもいいような奴まで来るようになるからね」
正士も、この客と同意見である。
この店の雰囲気と料理の質ならば、情報を大きく発信することによって、客の行列が絶えない状況になることも、十分に想像できる。
商売が盛んになることは、喜ばしいことであるが、そうすると、マナーなどとは縁を持たない類も、必ず混じって来るだろう。言うまでもないことだが、こういう連中が為すのは、店の空気の確実なる破壊でしかない。
「あのお客さんの言うことは、全くもって正論だ。無責任かも知れないが、ここが、軽薄な面々でごった返すような状況は、見たくないよなあ」
三橋も、考えは一緒である。
由美と高瀬にも、敢えて意見など聞く必要は無いだろう。
「お待たせいたしました」
メインの料理が運ばれて来た。
「本日のミックスフライは、牛のヒレ、カレイ、そして甘海老のクリームコロッケでございます」
「すげぇー、美味そう、量もすげぇー」
高瀬も、正士に劣らぬ大食漢である。目の前に置かれた料理を眺めながら、心底感激している。
「高瀬さん、もっと品良くしろよ。さもないと、さっきのお客さんからの駄目出し第1号にされちまうぞ」
正士がいつものように突っ込む。
「おっと、それはいかんですね。では改めまして、抜群です、この上なく食欲がそそられます、量についても抜群です」
「なんじゃそりゃ、言語機能がぶっ壊れたロボットかい」
「お二人は、いつもこんな感じなのですか」
正士と高瀬のやり取りを見ながら、若旦那が笑っている。
「でも、今おっしゃった『さっきのお客さんからの駄目出し』というのは」
料理を配り終え、改めて、若旦那が正士に尋ねた。
「先程、レジの所での、お客さんと若旦那の会話が、耳に入っちゃったんです。あのお客さんがおっしゃったとおり、このお店の来客が増えて行くことは大変喜ばしいですが、そうなると当然、無分別で招かれざる連中も、それなりの割合でやって来るはずです。少なくとも我々は、そいつらの仲間に成り下がっちゃいかんなと」
「ああ、そうでしたか」
若旦那は、少々複雑な面持ちである。
「お立場上、こういう意見に、いきなり『はい』とも言えませんよね」
由美の言葉は、若旦那にとって、有難い助け舟だった。
「さあ、いただこう」
三橋がそう言いながら、ハンバーグにナイフを入れた。
肉汁があふれ出る。
「ああ、こういう瞬間は、本当に生きていて良かったと思っちゃうなあ」
料理の質の高さに、空腹という状態が手伝い、各々口数少なく、食べる、食べる。
皿の上には、破片すら残さない勢いである。
「このように召し上がっていただくことが、私どもにとって、最高に嬉しいことです」
四人が食べ終わると、空の器を下げながら、若旦那は感謝した。
「いやあ、この料理の内容ならば、完食は当然ですよ」
高瀬の顔は、この上ない満足そのものだ。
「この後は、日替わりのおまかせコーヒーですね。私、すごく期待しちゃいます」
由美も、大いに気に入ってくれている。
いつの間にか店内の客は、正士たち四人だけとなった。
「失礼いたします。日替わりのおまかせコーヒー、本日は、ルワンダ・ニャマシェケでございます」
「ええっ、ルワンダって、確か1990年代頃に、大虐殺があった国ですよね」
意外な産地名に、由美は驚きを隠せなかった。
「おっしゃるとおり、1994年にジェノサイドが起こっています。コーヒー豆の生産量も、この時に激減してしまったそうですが、現在は、アフリカでもベストテンに入るくらいの生産体制にまで回復しています」
「ジェノサイドって、どういう意味ですか」
若旦那が発した聞き慣れない単語である。高瀬は、隣の由美に小声で質問した。
「人種や宗教や国といった、特定の集団に対する抹消行為のことよ。殺戮に限らず、強制退去や断種ということも含まれるわね」
由美も小声で答えた。
「そのとおりです」
若旦那には丸聞こえである。
「有川さんのコーヒーも美味しいけれど、やっぱりプロが淹れたコーヒーは、ちょっと違うね」
「施設長、そりゃ当然ですよ」
確かに、とても質の高いコーヒーである。
「『日替わりのおまかせ』というのは、どなたのアイデアですか」
改まった取材という空気はつくらず、自然な会話の中で、店の成り立ちや特色などを聞こうと、正士は考えていた。
「この店がオープンして、今年で9年目になりますが、3年くらい前に、ここで働いていたウエイターが、このコーヒーの出し方を提案してくれました」
若旦那も、普通に話しを始めてくれる。
「以前は、ご家族以外の従業員の方も居られたのですか」
「オープンから4年くらいまでは、両親二人だけで切り盛りをしていたのですが、今から5年前に母親が亡くなりまして、私が大学を卒業するまでの間、何人かの方に、ウエイターとして働いてもらいました」
「失礼ですが、若旦那は、今、おいくつですか」
「24歳です」
「うちの高瀬さんと同い年ですね。五年前ということは、お母様を亡くされたときは19歳ですか。誠に、残念なことです」
「恐れ入ります」
場の空気が少し重くなった。
「大学では、何を専攻しておられたのですか」
今度は由美が質問した。
「皆さんと、恐らく同じ、社会福祉学です。実は、社会福祉士の資格も持っています」
「おっと」
正士と高瀬が、同時に声をあげた。
「不思議な縁のようなものを感じますね」
三橋も、感慨い表情である。
「私も、皆さんと同じ仕事に就くことを考えていた時期が有ったのですが、父親の力になることが正解かなと思いまして、大学在籍の後半は、夜間の調理師専門学校にも1年半通いました」
「調理師免許もお持ちで」
「はい、持っています」
「旦那さん、若旦那は大したもんですね。見習わなければいけないな」
高瀬が、キッチンの旦那に向かって言った。
「日替わりのおまかせコーヒーに話が戻りますが、今は、どれくらいの産地のコーヒーを用意しておられますか」
「12種類です」
「12種類、すごいな。豆の鮮度を管理するだけでもひと仕事だ。若旦那、産地名を教えていただいても良いですか」
「はい。インドネシア・スマトラマンデリン、コロンビア・サンタマルタ、コスタリカ・トリアルバ、エルサルバドル・サンビエンテ、エチオピア・モカ、東ティモール・コカマウ、グァテマラ・ウェウェテナンゴ、ニカラグア・ヒノテガ、タンザニア・キリマンジャロ、メキシコ・サンフェルナンド、ブラジル・アララクアラ、そして今日お出ししたルワンダ・ニャマシェケ。となります」
「格好いい」
由美が思わず声をあげた。
「先ほどのルワンダ同様、それぞれの産地の特色みたいなものも、勉強しておられるのですか」
「広く浅く、非常に大まかな学習ではありますが」
「すごい人だな。ちなみに、ルワンダの首都ってどこですか」
「キガリです」
高瀬のいたずらっぽい質問に、若旦那は、全く動じる気配が無い。
「高瀬さん、そんな程度の質問で、狼狽えるような相手じゃないぜ」
正士にも、若旦那の深い知見が、十分に伝わって来る。
「料理について、お聞きかせいただきたいことが。質の高さはもとより、量の多さが、我々のような大食漢には、とても有り難いのですが、これには理由が有るのですか」
「それについては、父から説明してもらいましょう」
若旦那は、キッチンから旦那を連れ出して来た。
「私の子供の頃の体験からなのですよ」
旦那には、2歳年下の妹が居るが、二人がまだ小学生の頃に両親と死に別れ、その後は親戚の家に引き取られて育てられた。
その親戚には、旦那兄妹よりも少し年上の子供が二人居て、皆とても親切にしてくれたのだが、決して経済的に余裕のある家ではなかった。
自分の子供を育てるのも大変なところに、さらに二人の子を引き取った訳で、家計は相当に厳しい状況となり、生活は質素そのものであった。
もちろん食事も、贅沢なものなど食べられるはずがなく、旦那も子供ながらに気を遣って、お腹がいっぱいにならなくても、『もう大丈夫です。ごちそうさまでした』という毎日だった。
中学校を卒業して、都内の洋食店で働きながら、定時制の高校に通ったが、『いつか、妹と親戚に、自分が作った料理を腹いっぱい食べさせたい』ということを、常に気持ちの支えにしていた。
「調理師の免許も取得し、20年以上かかってしまいましたが、自分の店を持つことができました。そこで、お客様にもお腹いっぱいで帰っていただこうと、料理のボリュームを大きくして、お出しすることにしたのです」
旦那の話しを聞きながら、皆、座っている姿勢が、どんどん改まって行くようだった。
「旦那さん、妹さんや親戚の皆さんに、お腹いっぱいごちそうするという想いは、見事に実現なされましたね」
四人の中で、由美が一番心動かされた様子である。
「はい。親戚の親御さんは、だいぶ年配になられましたが、まだまだお元気ですし、二人の子供と私の妹、そして、それぞれの家族を呼んで、『ジャヌーの食卓』と名付けた集まりを、毎月続けています。さすがに親御さんお二人は、うちがお出しする量が、手に負えなくなって参られましたが」
「本当に素敵なお話しです。私、感動しました。そうだ、私たちも毎月定例で、このお店での食事会を開くなんていかがでしょう」
由美の瞳が輝いている。
「いいね、『ジャヌーの食卓』にあやかって、『ジャヌー・ミーティング』なんて言うのはどうだろう」
三橋も積極的だ。
「えっ、旦那さんにご馳走してもらえるんですか」
「アホか。そんな訳ないだろ」
高瀬と正士も絶好調。もちろん反対する理由など無い。
「申し訳ありません。取材から脱線してしまいました」
「とんでもない。うちの店を気に入ってくださっただけでも、本当に有り難いことで、嬉しく思います」
恐縮する由美に、若旦那が優しく微笑む。
「記事を書かせていただくためのお話しは、十分にお聞きできたと思いますが、最後に、このお店のアピールポイントをお聞かせください」
正士の質問に、旦那と若旦那は、少々困った表情である。
「あっ、お気に障る質問でしたか。失礼いたしました」
「いえいえ、そんなことは全くありません。ただ、アピールポイントなどという代物は、これまで意識したこともなかったので。雅志、何か有るかねぇ」
「ええっ、そうですねぇ、強いて申し上げるならば、『背伸びせず、手抜きせず』といったところでしょうか。料理に限らず、何事も、上を見始めたらきりがありません。変な背伸びをして、自分で自分の足元をすくってしまうようなことをせず、今できることを手抜き無しに続けて、お客様にご満足いたただくことを旨としています」
「素敵、今のコメントは、何も手を加えず、そのまま記事にできますね。これからも、いろいろなお話しが伺えそうで嬉しいです」
この店との絆は、深まり続けて行くに違いない。
もう一つだけ、若旦那と初めて逢ったときから気になっていたことを、正士は質問した。
「若旦那、もしかして、空手をやっておられますか」
若旦那の両手は、大きくゴツゴツとしていいて、人差し指と中指の付け根には、拳ダコと呼ばれる皮膚の盛り上がりが見える。
「ああ、お気付きになりましたか。私は、病気故にこういう容姿ですが、そのために、差別やいじめに遭うことが少なくありませんでした。いざという時には、自分で自分の身を守ることも必要であると父親に教えられ、子供の頃から空手と柔道をやっています」
「段位はお持ちですか」
「空手も柔道も、三段です」
「文武両道ですね。奥の深いお方だ。記事にできるかどうか、まだわかりませんが、若旦那の武道の段位は、公にしても差し支えありませんか。あと、お店やお二人の写真も、少し撮らせていただければと思うのですが」
「ええ、段位の件も写真撮影も、ご自由にしていただいて結構です」
正士は、店内の様子と、旦那と若旦那の写真を数枚撮影した。
「今日は、美味しい食事と、良いお話を頂戴し、本当に有り難うございました。これからは、ジャヌー・ミーティングのかたちでお邪魔したいと思いますので、よろしくお願いします」
会計を済ませると、四人とも、実に満足な心持ちで店を出た。
さて、帰りは、希望どおり三橋の運転である。
「若旦那は、トリーチャーコリンズ症候群だったんだね」
三橋が、ルームミラー越しに正士に尋ねて来た。
ここで、初めて若旦那の病気の話題である。
「はい、現実には、ご本人でしか分からない大変さが、いろいろ有るんでしょうね。そういった苦労を強いられること自体、社会の側に誤りが多々存在するということですが」
正士の返事に、三橋も深く頷いた。
「差別や偏見の類が、まだまだ社会に巣くっていることは事実ですよね。まあ、矛盾や不合理が、全てクリアされた社会が有るとすれば、そこでは僕らの専門性なんて、ある意味で無用になっちゃう訳ですけれど」
高瀬の言うことは、もっともである。
日々の生活というものは、人と社会が相互に関連して成り立っている。その社会において、個々の人の在りようが阻害されてしまう問題が存在する時、それの改善解決をはかるための方法論が社会福祉である。
そして、社会福祉を具体的に実践する専門的な援助技術が、ソーシャルワークであり、車内の四人は、これを担うソーシャルワーカーである。
確かに、高瀬が言う、その専門性が無用となる状況こそ、在るべき社会の姿と言えるだろう。
「でも、これからいいお付き合いになりそうですね。本当に素敵なお店でした」
由美に微笑みかけられて、正士の顔も和む。
「中森さんの言うとおり、有川さん、本当にいい店と出逢いましたよね。僕も嬉しくなっちゃいました。それにしても施設長、手堅い運転なさいますね。教習所の指導員みたいだなあ」
高瀬の言葉どおり、三橋の運転は、安全第一を絵に描いたようである。
「お母さん、皆さんお帰りになられましたよ」
四人が乗った車を見送り、店内に戻った若旦那が、奥の休憩室に向かって声をかけた。
「雅志さん、無理して『お母さん』なんて呼ばなくてもいいのよ」
ゆっくりとキッチンの方へ出てきたのは、柴君子である。
「皆さんに事情を話すには、今日など、いい機会かと思っていましたが」
そう言いながらも若旦那は、柴の心の内を察していた。店と職場の主要なメンバーとの距離が、これほど急速に接近すれば、当惑するのも無理はない。
実母が亡くなってから5年、武骨な料理人のイメージが強い父親だが、時々講師をしている料理教室で、受講者として参加していた柴君子と知り合い、再婚の相手として連れて来た。
初めは、驚きのあまり、どういう姿勢を取るべきか戸惑いもあったが、今は、自然に『お母さん』と呼べるようになっている。
「雅志さん、もちろん結婚を公にするときが来るけれど、いろいろな流れが速すぎて、私の方がついて行けないのよ。とにかくこの間、職場でいきなりお店の名前が出たときは本当に驚いてしまって」
「まあ、雅志、いずれは皆分かることだし、自然な流れに任せながら、お知らせするかたちでいいんじゃないかな」
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