第3話 小人の不合理

「有川さん、人間がトイレを使うのは恥ずかしいことですか」

 高瀬の唐突な質問に、正士は少々戸惑った。

 一日のスケジュールが終わり、デイサービスのスペースは、静まり返っている。

「いや、排泄は日常の極々当たり前の生活行為だから、トイレに行くことが恥ずかしいなどという発想は有り得ないだろう。何でそんなことを聞くの」

「今回の研修先のグループホームで、トイレに行こうと歩き出した利用者さんに、『行ってらっしゃいませ』と声をかけたら、先方の担当者からお叱りを受けまして。『トイレに動き出す方が居たら、周囲の方々には、わざと声をかけ目を逸らさせて、トイレの使用ということに気付かないような気配りが必要』だそうです」

「またか」

 正士は、思わず呟いた。

 グループホームは、5人から9人の人数を単位として、認知症の方が共同で生活をする場所で、制度上は、認知症対応型共同生活介護という名称である。

 今回の研修は、『認知症の方に対する総合的ケア』をテーマに、グループホームでの演習という、本社の事業部から指示を受けてのものだった。

 研修先に指定されたグループホームは、『一流ホテルと同様の接遇』を標榜し、仲間内では、プライド高く業務を行っている所として知られている。

 しかしながら、介護事業において『一流ホテルと同様云々』などは、自ずから物事の本質が見えていない様を、知らしめているに等しい。

 グループホームやデイサービスをはじめとした介護事業所は、利用する方の日常生活について、それを支援するための社会資源である。

 これに対し、高額な料金が発生する一流ホテルでは、普段の生活とは異なる、非日常の時間や空間を、客に対して提供する。

 高い次元の礼節をアピールしたい気持ちは、百歩譲って分からぬでもないが、そのために、非日常のサービスを日常生活支援に重ね合わせるなど、実にナンセンスである。

 高瀬が『ご指導賜った』、トイレに行く利用者殿への対応も、このナンセンスな感覚の延長線上に有ると言って良い。

 その場面は、レクリエーションに参加していたご本人が、何も言うこと無く、付き添いのスタッフとともに席を離れるという状況であったという。当然、周囲の人間は、それがトイレへの移動とは認識していない。

 ここで高瀬が『どうぞおトイレに行ってらっしゃい』などと、わざわざ発言したのであれば問題だが、自然に離席する方に対しての『行ってらっしゃいませ』という声かけは、礼にかなった当たり前の挨拶である。

 例えば、利用者殿に対しトイレの使用を尋ねたり促したりする際、耳元で、ご本人だけに聞こえる程度の声で話すといった気遣いは、常識的マナーとして必要だろう。

 しかし、この担当者のごとき、『トイレの使用即ち無条件に隠すべき』という発想は、短絡的かつ浅慮の極みと言う以外にない。

 もしも、当の利用者殿本人が、『トイレに行ってきます』と大きな声を発したならば、そこの職員連中は、どのように対応するのか、是非見てみたいものだ。

「高瀬さん、そこの代表者と話す機会は有ったかい」

「はい、『うちは、よそとは違うぞ』という気概に満ちた方でした。『施設の看板にグループホームという文言は一切入れていない』とか、『利用者の居る所では、職員に、認知症という言葉を絶対に使わせない』とか、力を込めてお話しくださいました。まあ、言わせていただければ、イカサマ尊厳擁護の類だなと思いましたけれど」

 全く高瀬の言うとおりである。

 老人ホームの例を引くと、そこにはかつて『生活指導員』という、人を見下すがごとき職名が存在した。こういう、明らかなる不適切表現は、排除されて当然と言える。

 しかし、グループホームや認知症は、少なくとも、そういった部類にはあたらない。にもかかわらず、これらを表層的な観念で一方的に忌み嫌うのは、思慮無き愚行である。

 先程のトイレに行く方への対応と似たようなもので、グループホームや認知症も、普遍的な生活要素から外れた恥ずべきもの故、日常の表舞台に出してはならないといった次元の発想に違いなかろう。

 このような姿勢は、自らが運営する社会資源はもとより、それを利用する方々をも特殊視することに他ならず、基本中の基本であるノーマライゼーションについてすら、理解の域に届いていない情けなさが有る。

 誇り高くお仕事なさるのは結構なことだが、『うちは、よそとは違うぞ』など、小者の心得違いに他ならない。

「高瀬さん、実は私も、ここへ転職した早々、同じ所に研修に行かされてね、今回の君と同様の経験をしているんだよ。研修の最終日に感想を求められたので、矛盾を感じる事柄をいくつも指摘したんだが、何一つまともな答えは無く、『ひとつの意見として聞いておきます』だってさ」

 独善的観念と慢心に汚染された人種というのは、絶滅の道を辿ることもなく、図々しく生き残りを果たしている。

「しかし、なぜ、あんな所が研修先となり続けるのか、不思議ですねえ」

「まあ、本社の事業部には、ああいう類の虚像を見抜ける眼力が無いんだろうね」

 高瀬邦彦、24歳。社会福祉士と介護福祉士のライセンスを持つ、デイサービスの生活相談員である。

 正士の性質が、いわゆる『剛』だとすれば、高瀬は、明らかに『柔』と言える。

 当然、それぞれに良い面と、そうとは言えない面が有る訳だが、管理者と生活相談員として、二人は実に良くかみ合っている。

「ところで有川さん、施設長からお聞きしましたけれど、今度の日曜日、機関紙の取材を兼ねて、皆でおいしい洋食屋さんに行くんですよね。店の名前は、ええと」

「キッチンジャヌー。高瀬さんのスケジュールは大丈夫かい」

「全く問題無しです。中森さんも、『すごく楽しみ』って言っていましたよ」

 胸を張って紹介できる店だ。皆が満足する姿が、今から目に浮かぶ。

「お疲れ様です」

 がらんとした部屋に、由美の透き通った声である。

 今日は、これから二人で、時間外での機関紙編集作業を行う。

「あら、高瀬さんも居たのね。手伝ってくれるの」

 由美のこの発言は、正士にとって、ちょっと余計だった。

「あっ、迷惑でなければお手伝いしますよ。どうせ暇だし」

 高瀬のこの返答は、正士にとって、ずいぶんと余計だった。

「おう、すまないね高瀬さん、それじゃ、中森さんと一緒に、レイアウトをお願いしようかな」

 楽しみにしていた由美と二人きりの時間は、高瀬のおかげで脆くも崩れ去った。

「どれ、コーヒーでも飲みながらやろうか」

「わあっ、嬉しい。私、有川さんのコーヒー大好きです」

 由美の言葉に、気持ちが救われる。

 正士のコーヒー好きは、職場では結構有名で、上手な淹れ方にも定評がある。

 通を気取るつもりなどは微塵もないが、良い豆を選び、こだわりを感じさせる器具一式を持ち込んで、就業時間後のひと時に楽しんでいる。

 ドリップケトルをガスコンロにセットし、銅製のミルサーに豆を仕込んで挽き始める。

 ガリガリという響きとともに、いい香りが漂う。

「柴さん、早く早く。有川さんが美味しいコーヒーを淹れてますよ」

 ミルサーの音を聞きつけたのであろう。三橋が、芝を連れて入って来た。

「あら、いい香り。でも施設長、私などが来てしまって、迷惑ではないですか」

 柴は、少々心配顔である。

「全然問題無いよね、有川さん」

 他人にコーヒーを供することが、自分で飲むこと以上に好きな正士を、三橋は十分に分かっている。

「ええ、もちろん。施設長も柴さんも、どうぞこちらにいらしてください」

「有川さん、いつも使っている、そのビーカーみたいなやつ、何て言いましたっけ」

 高瀬は、職場の中で、正士に最も近い立場の人間である。それ故、コーヒーを飲ませてもらう機会が多い。毎回見ている淹れ方にも、自然と興味が湧いているようだ。

「ああ、フレンチプレス。原型はフランスで発明されたらしいんだが、今のこの形は、イタリア人のデザイナーが特許を取ったものだって聞いたことが有る。あっ、そうだ高瀬さん、今日は君が淹れてみるかい」

「えっ、いいんですか、うまくできないかも」

「大丈夫、大丈夫、決まった手順を踏めば何てことないよ。それじゃ、ここで実演しながらやってみよう」

「分かりました、でも、なぜ有川さんは、この淹れ方なんですか」

「確かに、ペーパーフィルターとドリッパーを使う方法が多いかも知れないけれど、その淹れ方だと、フィルターの紙が、コーヒーの油を吸い取ってしまう」

 好みの問題になるが、コーヒー本来の味わいは、フレンチプレスの方がしっかり出せると、正士は考えている。

「では、挽いた豆を容器に全部入れて、まずは、ここに少しだけお湯を注ぐ。ただし、沸騰したやつをいきなり注いじゃうと、豆が一気に膨張して、雑味が出まくるから、少し冷ましたものを入れる」

「温度はどれくらいが目安ですか」

「92、3度ってところだね。もう少し低い温度が良いと言う人も居るけれど」

「温度計とかで計りますか」

「いや、お湯がひと煮立ちしたら火を止めて、2、3分放ったらかしとけば、それくらいの温度になるよ」

「意外とアバウトですね」

「うん、かなりアバウト」

「うふふ、話しの呼吸がぴったり」

 二人のやり取りを見て、由美が笑っている。

 正士は、気分が乗って来た。

「よし、お湯がいいタイミングだ、ゆっくりと、少しだけ注ごう。見てごらん、豆が蒸らされて膨らんで来るだろう」

「ああっ、本当だ。何が始まっているんですか」

「豆の中の炭酸ガスが抜けて来ている状態だね。これで30秒置いておく。炭酸ガスは、抽出にとって邪魔者だから、この蒸らしは、結構大事なプロセスだよ」

 正士の説明を聞いて、皆、容器の中を覗き込んでいる。

「いい香りだね。今日の豆は何」

 三橋が尋ねた。

「グァテマラ・ウェウェテナンゴです」

「中米の豆ね、焙煎は中深煎りのフルシティっていうところかしら。そして、フレンチプレス向けに少し粗挽き」

 正士が答えた豆の名前に、柴がコメントを返す。意外だなどと言ったら失礼だが、皆が少々驚いたのは事実である。

「柴さん、コーヒーにお詳しいですね。なんだか嬉しくなっちゃいます。しかし高瀬さん、これは俺たちにとって、なかなかのプレッシャーかも知れんぞ」

 コメントから察するに、柴は、コーヒーに関して、相当に深い知識を持っている。

「さて、高瀬さん、30秒が経過したので、いよいよ本格的にお湯を注ぐ。注ぎ方は、豆が暴れ過ぎないように、ゆっくりと容器の内側を滑らせる感じで。5人分だから、8分目より少し上まで入れちゃおう。そして、フィルターを浅く被せて4分間抽出する」

「有川さん、今日やってみて分かりましたけれど、結構手間がかかりますね。これからは、もっと感謝しながら飲まないと」

「まあ、好きだから、あまり手間とも感じていないけれどね。さて、4分待つ間に、事務長の自己紹介記事を見ようか。中森さん、彼は、ちゃんと記事のファイルをよこしましたか」

「はい、今日預かって来ました。完全原稿なので、一切の校正は無用とのことです」

 由美が、パソコンにメモリスティックを差し込み、ファイルを開いた。

 皆が画面に注目する。

「うわっ」

 写真のファイルが開いた途端、全員が同時に声をあげた。

 スーツ姿の金木が、これ見よがしに英字新聞を広げ、わざとらしい笑顔でこちらを向いている。

 さらに自己紹介の文章を読んで、正士は眩暈がした。

『本年3月1日、本社より出向し、事務長に着任いたしました。これまで、様々な事業部でスーパーバイザーとして実績を積んで参りましたが、この事業所にも新しい風を吹き込み、業務をレベルアップさせたいと考えております。趣味は、哲学と海外の美術館を中心とした、現代アートの鑑賞です。』

「英字新聞、スーパーバイザー、海外の美術館、こんな子供だましの虚勢張りまくりを掲載しなきゃならんのか。大体、哲学が趣味ってどういうことだ。中森さん、こりゃ困った内容ですね。施設長、こんなものを載せてしまっていいんでしょうか」

「まあいいでしょう、結局恥をかくのは本人だから、このまま行っちゃおう」

 哀れみと放任という三橋の姿勢が、ここでは最善の策なのかも知れない。

「有川さん、私もちょっと驚きました。なるべく隅の目立たないスペースに割り付けるというのはいかがでしょう。機関紙は縦組みですから、読む方の目線が最後に移動する、左下あたりがよろしいかと。でも、編集責任者としてお名前が載ってしまう施設長がお気の毒」

 由美も、当惑した顔を隠せない。

『ピピピッ』

 呆れた空気の中に、4分経過のタイマーが響いた。

「まあ、つまらん奴よりコーヒー。それでは高瀬さん、フィルターをゆっくりと押し下げよう。下げきったところで、中身をカップに注ぐ。底の方に溜まっているやつは雑味が多いから残してね」

「うまく行ったでしょうか」

 自信無さ気に、高瀬が皆にカップを配った。

「さてさて、コーヒーをご馳走になって、気分を変えましょう。このコーヒー、きっと柴さんのお眼鏡にも叶うと思いますよ。」

 由美に促されて一口飲むと、芝の顔がほころんだ。

「本当、すごく美味しい。高瀬さん、お上手だわ」

 高いハードルを越えた気分である。高瀬も正士も、ほっとした。

「ところで有川さん、キッチンジャヌーの記事は、どれくらいのスペースをお考えですか」

 由美が正士に尋ねると、柴の表情が、ほんのわずかであるが変化した。

「そうですね、くどくなってはいけないので、写真と記事を合わせても、1段がマックスでしょうかね。ああそうだ、よろしかったら柴さんも、今度の日曜日、ご一緒に食事などいかがですか」

 正士も、柴の表情の変化には気付いていた。しかし、コーヒーに詳しい柴も加われば、さらに豊富な話題で楽しめそうである。

「ごめんなさい。今度の日曜日は、ちょっと予定が入ってしまっていて。さて、美味しいコーヒーもいただきましたし、私はそろそろ失礼します。高瀬さん、有川さん、ご馳走様でした。皆さん、お先に失礼します」

「お疲れ様でした」

 柴の後ろ姿に声をかけながら、四人は顔を見合わせた。

「柴さんって、本当に綺麗な人ですよね」

 高瀬がしみじみ語る。

「お前、そっちかい」

 間髪を入れず正士が突っ込んだ。

 由美が、目鼻立ちのはっきりとした、少し異国的な美しさであるのに対し、柴は、和を象徴するかのような美人である。

 年齢は、正士や高瀬よりもずいぶん上だが、二人にとっては、憧れの存在と言って間違いない。

「柴さんが綺麗なことは確かだが、キッチンジャヌーの名前が出た瞬間、少し表情が変わったろう」

「有川さん、僕もそれには気付きました。しかし、嫌な感じの変わり方じゃなかったように思います。でもまあ、妙な詮索は無用ですよね」

 高瀬の言葉に、三人とも頷いた。

「さて、キッチンジャヌーの記事と合わせて、もう1つ、この間の日曜日に降った雪にまつわるものは、いかがかなと思っているのですが」

 正士は別の写真のファイルを開いた。

 あの日撮影した、車のボンネットの雪うさぎである。

「ああっ、かわいい。これは有川さんが撮影した写真ですか」

 由美の言葉が嬉しい。あの朝、いつも以上に、撮影に気持ちが入っていた理由が、実はここに有る。

「雪景色を撮影しようと出かけたら、家の近くに、偶然この子らが居まして。そして、その後に、これまた偶然、キッチンジャヌーにたどり着いた訳です」

「すごい、すごい、雪の中で面白いものを見つけて、その後、素敵なお店と出逢ったなんて。いい流れの構成になりそうです」


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