第2話 施設長見参
「柴さん、お客さんですか」
施設長の三橋が尋ねた。
正士とともに、デイサービスの利用者殿を迎える車の運転から戻ると、綺麗に磨かれた靴が三足、玄関に並んでいる。
「あら、施設長もご存じなかったのですか。昨日、本社の事業部から急に連絡が有って、今、都議会の議員さんが3人、見学にお越しですけれど」
「えっ、こんな朝一番に」
正士と三橋は、思わず顔を見合わせた。
事務担当者である柴君子は、事業所の誰もが認める優秀な人物である。
そんな彼女が、来客スケジュールの伝達を失念することは有り得ない。
「柴さん、まさか見学者の対応をしているのは」
三橋は、嫌な予感がした。
「事務長です。昨日の事業部からの電話連絡も、施設長がご不在でしたので、事務長に取り次ぎました」
柴の説明で、今の状況が理解できた。
連絡の内容を聞いた事務長の金木は、これを誰にも伝えず、無断で対応を受け持ったに違いない。午前9時という、見学には不自然なスケジューリングも、三橋が送迎車の運転で不在であることを意図してのものだろう。
そんなことをする理由は、相手が都議会議員だからである。
社会的立場が高いと目される人物と接することにより、自分も大きな存在であると錯覚する。
実に救い難いが、いかにも金木らしい感覚と言える。
しかし、専門知識を有さぬ素人の一知半解な対応では、事業所への評価が、いわれなく下向いてしまう。
三橋は、これを少なからず懸念した。
「ちょうど今頃が、デイサービスの利用者が到着する時間帯になります。私どものデイサービスでは、利用者それぞれの残存能力に合わせてリハビリを提供いたします。認知の方も居りますが、徘徊するのであれば、それも自由です。結局、歩くことでリハビリになりますので」
半可通を絵に描いた金木の説明が、こちら側にも聞こえて来る。
三橋の懸念は、残念ながら現実となりつつあるようだ。
「施設長、良くないですよ。何も分っとらん奴に、ああいうアホ丸出しの説明をさせといちゃ。」
正士も憤る。
「相変わらず言葉が厳しいね。でも、確かに有川さんの言うとおりだ。放っておけば、あれがうちのレベルだと誤解されかねないな。適当なタイミングで介入しよう」
そうしているうちに、金木が議員たちを連れて、二人の所へやって来た。
「当事業所の施設長と、デイサービスの管理者です。人手が足りないため、デイサービスの送迎車両の運転手も兼務しています」
金木は、もはや議員側の人間といった顔つきである。
「施設長の三橋でございます。本日は、せっかくお越しいただいたにもかかわらず、直接のご対応が叶いませんで、誠に失礼いたしました。さらに、ご案内した職員による説明に、看過できない誤謬がございます。責任者としてお詫び申し上げますとともに、改めてご説明をいたしたく存じます」
金木の顔色が変わる。
施設長たる者、たとえ金木であろうとも、事業所の人間として、その立場を擁護すべきなのだろうが、そんな一般論などお構いなく、三橋は話しを始める。
「当事業所において、デイサービスならびにケアマネージメントの現業を担う専門職者にあっては、権利の主体である利用者殿、すなわちクライエントについて、『残存能力』や、『徘徊』、そして『認知』などという、誤った認識による文言を、一切使用せぬよう指導いたしております」
三橋が指摘するとおり、残存能力という発想には、その根本に、『能力を失いし者』『辛うじて能力を残したる者』という、あくまで非障がい者を基準に置いたうえでの、否定的視点が存在する。今なお介護従事者に対する教育の場面で引用される、アナセンの3原則の中にも、『残存能力活用の原則』という表現が使われているが、提唱されて40余年を経過した概念の訳語を、教条的に継承する必要はなかろう。
また、徘徊という単語は、『目的も無くうろつく』という意味を持つ。これの無批判な使用は、クライエントがあちらこちらを歩く行動について、そこに潜在する意思を慮ることなく、一方的に、合目的なものでないと短絡する行為に他ならない。
さらに、認知症を『認知』と表現する振る舞いは、『身体障がい者』に対する『身障者』や『アルコール依存症患者』に対する『アル中』などと同様の、不見識な短縮呼称の乱用であり、そこには、例外無く侮蔑的なニュアンスが存在する。
これらのごとき、人の在りようを軽んじる構えは、社会的常識の次元において排除されなければならない。
「そして、リハビリテーションにつきまして。これをリハビリと軽々に言い放ち、身体的な運動や機能訓練という側面でしか認識しない行為は、明らかに本質からの逸脱でございます」
三橋の話しは、さらに勢いを増した。
確かに、適切なプログラムや客観的な評価の方法を持ち得ず、中途半端な内容の身体的運動を『リハビリ』と言い切ってしまうのは大いなる過誤である。
クライエント個々について、その心身の能力が、それぞれにおける本来の姿で保持されること。それと合わせて、住環境や社会的活動の場など、生活というものを、全体的な視点で考察し、クライエントが、自らの価値観により、主体的に運営する日常を獲得できること。
このための総合的かつ具体的な支援が、リハビリテーションの本質である。
「サービスの実践にあたり、各専門職員に対しましては、非論理的な姿勢と慢心を戒め、常に問題意識を持たせて、業務の質向上に努めているところでございます」
途中、金木が何度も口を差し挟もうとするが、三橋は眼中に置かない。
議員たちも、詳細の事情はともかく、今回の見学における事業所側の対応は、然るべきプロセスと人物によるものではなかったことを、察したようである。
「なるほど、では『残存能力』や『徘徊』ではない、適切な表現というのは、いかなるものですか」
議員のひとりが、三橋に尋ねた。
「『本来の能力』『ひとり歩き』という表現を用います。民間の組織や自治体においてもこういった文言の見直しは、徐々に始まっております。まあ、遅きに失した感は否めませんが」
議員は、苦笑しながらも感心した様子である。そして、さらに質問した。
「失礼かも知れませんが、言葉での表現を整えるだけで、終わってはおられませんよね」
「おっしゃるとおり、言葉狩りよろしく文言だけを整えても、その本質を理解していなければ、何の意味もございません。先程申し上げました、非論理性と慢心の戒めに相通じますが、浅慮なる認識という愚を犯さぬために、『如何なる根拠のもとに、それぞれの事象が存在するのか』という意識を無くさぬよう、注意を喚起いたしております」
「それから、リハビリテーションについて、平易で簡潔な定義はありますか」
「『個々において、納得できる社会状況が実現されるための、心身の機能訓練をはじめとした総合的な支援』となります」
「結構。最後に施設長さんとお話しできて、本当に良かった。また、いろいろ教えてください」
『何かと大変そうですね』と目で語りながら、にこりと笑みを浮かべ、議員たちは帰って行った。
対応をあからさまに否定され、金木は憮然とした顔である。早々に立ち去るが、当然、三橋が議員たちに示した説明の真意など、理解できてはいない。
「施設長、今日は厳しく行かれましたね」
「ああ、現場サイドで一生懸命良いサービスを提供しても、道理に暗い人間のせいで、いたずらに事業所の評価が下がってしまっては、どうにもならんからな。まあ、事務長としては、さぞ面白くないだろうけどね」
性格が直線的であるが故に、言動が過激になりがちな正士に対して、クールなブレーキ役としての立場を取ることが多い三橋であるが、本日は、その正士も顔負けのアグレッシブな構えであった。
三橋と自分の姿が重なり合うようで、正士は良い気分である。
二人が勤務する事業所は、デイサービスとケアマネージメントの、二つの部門で構成されている。国の介護保険制度においては、それぞれ、通所介護、居宅介護支援という名称である。デイサービスは、定員内の利用者殿を、一日もしくは半日等お引き受けして、人的交流、レクリエーション、心身機能にかかわるエクササイズ、健康状態のチェック、入浴、食事など、日常生活の支援を具体的に提供する場であり、ケアマネージメントは、利用者殿からの相談や依頼にもとづき、日常生活の支援に資する介護計画の作成、それにともなう社会資源の調整や助言、情報提供等を行う。
三橋常男は、これらの業務を統括する施設長である。
正士と同じ、社会福祉士、介護福祉士、ケアマネージャーに加え、精神保健福祉士のライセンスも持ち、現場の業務から、組織の運営管理、人材の育成、そして自らの専門領域にかかわる研究等、ノウハウを発揮するステージは幅広い。
事業所の母体となっている会社は、東京証券取引所のプライム市場に株式を上場している大手企業である。
しかし、異業種からの参入であるため、三橋や正士のような専門職の人材は、もともと存在しない。
よく有ることだが、各地域に展開された事業所では、本社から出向した総合職と称する社員が施設長に着任して、事務的な管理業務のみを担い、実際のサービス提供や、それに付帯する業務については、現地採用の専門職者に丸投げするという運営手法が取られている。
そのような中、現地採用の立場から、実力本位で事業所の施設長となった唯一の人物が三橋である。
こういう施設長の方が、現場を担う者にとっては頼りになるし、言うまでもなく仕事もやり易い。
正士も、自分たちの上長が三橋であることを、心底有り難いと考えている。
「ところで施設長、あの金木っていう事務長は、いったい何者ですか。大体、こういう小規模な事業所に事務長職など必要無いし、他の事業所でも、そんな役職は存在しておりませんでしょう」
金木が、本社からやって来て事務長に着任し、もうじき1か月、ここで働く者の多くが感じているはずの疑問である。
「有川さんの疑問は、もっともだね」
三橋は、苦笑いしながら話し始めた。
「確かに、この事業所に事務長職など、全く必要が無いことは事実だ。はっきり言って、これは本社の厄介払いに他ならない」
金木忠彦、35歳、本社の取締役の親戚。
つまりは縁故採用の人間である。
縁故採用であろうとも、能力に長けて、良い仕事ができているのであれば、文句を言う者は居ないだろう。
だが、この御仁におかれては、卓越した能力など持ち合わせる由もなく、一般職としての物差しを当てても、使いものになっていない。
さらに、こういった手合いに有りがちなのだが、プライドだけは一人前以上という態度を改めないため、周囲の人間とのトラブルも少なくない。
大きな会社故、異動させる部署は数多いものの、どこへ行かせても戦力外である。
とは言え、後ろ盾になっている取締役の立場も考えねばならず、困った人事部が、苦肉の策として捻り出したのが、会社としては後発で立ち上がった介護事業部への異動、そして、この事業所への着任という方法であった。
「何も、厄介払いの行き先が、うちの事業所でなくても良かったのに」
「まあ、ここは、本社から配属された社員が1人も居ないので、与しやすいと考えたんだろうね」
「しかし、ここでどんな仕事をして行くのですか。事務関連の業務は、柴さんが完璧にこなしているし」
「事業部は、企画とリスクマネージメントをやらせると言って来ている。まあ、そんなことができるとは思えんし、今日のような状況を見れば、彼本人が、この事業所にとってのリスクファクターだと言える。ちなみに、ここへ異動する調整作業の際、本人からは、スーパーバイザーという職名の希望が出たそうだ」
「えっ、何についてのスーパーバイザーですか」
「そんなことまで考えてなんかいないさ」
「おやおや、とりあえず肩書上の格好はつけておきたいということですか。まさに噴飯ものだな。人間、恥を忘れたらおしまいだ」
「さすがに人事部も、そういう虚飾まみれの職名を与えることは認めず、事務長というポストをでっちあげた。気付いていると思うが、新しく来た組織図も、無理やりって感じだよね。まあ、私としては、どうでもいいんだけれど」
三橋が言うとおり、常識的には施設長の下位の立場にあるべき事務長職が、最近事業部から送られてきた組織図では、施設長と横並びのかたちになって、各職員の上位に座っている。
「ああいう人間でも一応本社の総合職扱いなので、現地採用である施設長の下に配置する訳にはいかない。ということですか」
「ご名答」
「良く理解できました。やれやれ、迷惑な話しだけれど、こういうのが組織の現実なんでしょうね。でも、まさかずっとここに居座るということではないですよね」
「いや、本人が大きな問題も起こさず、ここに定着してしまえば、人事部にとっては面倒が1つ減るので、何処へも動かさない可能性が高いね」
憂鬱この上ないが、金木については、その言動による実害の芽を摘みながら、適当な距離を保って行くしかないだろう。
当人にかかわる人件費が本社の勘定で、事業所の収益を直接損なわないことが、不幸中の幸いではある。
「施設長、拝見していましたよ」
振り返ると、ケアマネージャーの中森由美が、こちらを向いて微笑んでいる。
先程の、議員たちとのやり取りを、一部始終見ていたようである。
「普段なら、有川さんが厳しくコメントして、施設長が場の空気の補いをなさると思うのですけれど、今日は直接的に参られましたね。でも、私たちの立場を、いつもしっかりと考えていてくださって、有り難いです」
正士と三橋の人となりを、由美は良く理解している。
彼女は、もともとこの事業所で、デイサービスの介護職リーダーとして、勤務していた。
27歳。年上の職員が多い中で、やりにくさも多々有っただろうが、スタッフを良くまとめて、業務の質向上に貢献して来た。
対クライエント、対職員にかかわらず、良好な関係を築くためのバランス感覚は、正士を凌ぐものが有ると言って良い。
昨年試験に合格し、本人の希望で、現在は、相談支援および介護サービスのプランニングや調整等を担うケアマネージャーとして、新たな可能性に臨んでいる。
「中森さんならば、事務長のようなタイプとは、どういう風に向き合って行きますか」
由美が、金木について、どのような捉え方をしているのか、正士は知りたかった。
「はい、まず、基本的にああいう方は好きではありません。いわゆる能力者ぶった凡人、いえ、凡人未満としか思えない方です。とは言っても、露骨に嫌って避けるような姿勢を取ることは、意思の疎通が途切れて、余計に仕事が面倒なものになりますので、良くないと考えます」
『好きではない』『能力者ぶった凡人未満』
明確にこういう言葉が出て来るとは、予想していなかった。だが、由美が金木に対し好意を持たぬという事実は、理屈抜きに正士を喜ばせた。
「仕事を面倒なものにしないためには、具体的にどういうことが必要ですか」
「有りふれているかも知れませんが、コミュニケーションを、しっかり取り続けることが大事だと思います」
「あの事務長と、実効あるコミュニケーションは可能ですか」
「現実的には難しいことが多いと思いますが、だからと言ってそれを放棄すると、お互いに手前勝手な思い込みが連鎖して、つまらない溝が、どんどん深くなって行くような気がします」
「なるほど、しかし、こちらがロジカルな姿勢で臨んでも、これまでの状況を見ると、いわれなく見下されたり無視されたりすることが多いですよ」
「確かに、有川さんが時々口になさる『○○にロジックは存在しない』という類の方なのかな、とも思いますが」
「ああ、『アホにロジックは存在しない』ですね」
「きゃっ、言っちゃった」
自分が常用する過激な定型句まで、由美が引用してくれるとは。
「見下されるのも無視されるのも、嫌なことですけれど、そういうことは、それこそ逆に無視して、こちらから発信すべき事柄は、十分に伝えて行く姿勢が大切だと思います」
「なるほど」
「『無視されたことなど、逆に無視する』中森さん、これは名言の域に達しているかも」
正士とのやり取りを見ていた三橋は、改めて由美の思慮深さに感じ入った。
「お二人さん、話は変わるけど、次の機関紙の制作状況は、どんな感じ」
事業所では、職員が交代で受け持ちをして、毎月機関紙を発行しているが、次回号は、正士と由美が、この役を担っている。
文章や写真そのものについては、苦手意識が無い正士であるが、それを優れたビジュアルに仕上げる才能には乏しい。正直なところ、機関紙づくりなどは、好きとは言えない業務である。
しかし、今回の相棒は由美である。不謹慎だが、そうなると気持ちの入り方は全く違ってくる。
「はい、掲載する題材が揃いつつあるところです。丁度、施設長と中森さんに相談しようと考えていたのですが、ある所に取材に行ければと」
「ある所とは」
「この間の日曜日、ここから車で十五分くらいの所で、とても良い雰囲気の洋食屋さんと出逢いまして、そこを是非記事にしたいなと思っています。店の名前は、キッチンジャヌーです。取材を兼ねて、たまには皆で食事でもいかがでしょうか。今度の日曜日、施設長と、中森さんと、あと明日研修から戻る高瀬さんも一緒に。私が車で送迎します」
「私賛成です。どんな所か、すごく楽しみ」
由美のこういう返事を、一番期待していた。
「普段ほとんど外食をしない有川さんが気に入るくらいだから、よっぽどいい店なんだろうね。しかし、この間の日曜日に出逢ったということだけど、あの雪の日にかい」
三橋も関心を示してくれた。
「もちろん、高瀬さんにも声をかけるけれど、有川さん、本当に車を出してもらっていいの」
「お任せください」
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