何が故に

おいかわ まさき

第1話 出逢い

 夜半より、雪である。

 弥生半ばにして、霏々と降る。

 時節を外した寒さも、容易ならない。

 東京。この、誰もが認める世界屈指の大都会は、たった一晩、踝が埋まるばかりの降雪で、その脆さを露わにする。

 比類なき時間の正確さを誇る鉄道は、見るも無残な運行状態となり、自動車は、次々と起こる事故で身動きを失う。そして、転んで怪我を負う数多の人々。

「雪国の人たちの目には、これがどんな風に映っているのかねえ」

 正士は、淹れたてのコーヒーを味わいながら、テレビの画面に向かって呟いた。

 朝のワイドショーは、知見という言葉が凡そ相応しくないタレントまで加わり、『大雪対策』で騒ぎまくっている。

 当然、雪深き土地に住む人間にとって、これくらいの天気は、頓着する程のものではないだろう。

「まあ、今日は日曜日だ」

 曜日に関係なく働いている人には、本当に申し訳ないが、このありさまの中での通勤は、避けることができた。

「あぁーあ」

 欠伸をしながら、窓の外に目を向けると、よく見る運送会社のトラックが、スノーチェーンをチャリチャリいわせて走って行く。

 休日の正士は、全く活動的でない。ほぼ例外なく家の中に引きこもっている。

「休みというものは、何もしないから休みなのだ」

 聞きようによっては、それなりの説得力を感じさせる考え方である。

 3月生まれの彼は、先週、33歳の誕生日を迎えたが、休日を共に過ごす女性などは居らず、男同士で遊びに出るようなことも好まない。

 グルメだファッションだと言った類も、興味や関心の対象ではなく、無駄金使いに外に出るくらいなら、家の中でのんびりすることに、大いなる価値が有ると信じて疑わない。

 風景写真を趣味としてはいるが、この出不精が災いして、撮りためた作品の数は今一つである。手元に揃えた立派な撮影機材が、泣いていると言って良いだろう。

 しかし、本日は少々事情が異なる。いたく心が沸き立っている。

「都会の、へんちくりんな雪化粧を捕まえよう」

『夜半から雪』という、昨日の天気予報を聞いて、久しく居眠りしていた写欲に火が灯った。

 美しい雪景色などは、この際どうでも良い。そういうものは、他の誰かが撮ってくれるだろう。

 正士が狙うのは、雪が故に妙なる姿を晒す街の風景である。

 さらに、先月手に入れた中古の四輪駆動車が、今日のような天候の中で、どれだけ役に立ってくれるか。これも興味が有る。

「降りかたは、峠を越したのかな」

 外の様子を気にしながら、昨晩用意した撮影機材を、もう一度点検する。

 一眼レフボディ2台、それぞれに広角系のズームレンズと望遠系のズームレンズを付け、先端には円偏光フィルター。

 悪天候での撮影は、機動力が命である。

 2台のカメラは、防水用のカバーで包み、いつでも使えるよう、助手席に積む。

 お気に入りの85ミリF1.4も持ち出すが、恐らく今日は出番が無いだろう。

「やっぱり寒いな」

 玄関のドアを開けると、冷たい空気が襲いかかって来る。細かく舞い散る雪は美しい。

 アパートの駐車場は、朝から誰も立ち入っておらず、一面に真綿を敷きつめたようである。並んでいる車のタイヤは、サイドウォールの高さまで埋まっている。

「これくらいなら、スノーチェーンを巻く必要は無いか」

 まっさらな雪面に、ゴム長靴の足跡を付けながら、一番奥に居る自分の車まで機材を運ぶ。三年前、災害復興のボランティアに参加して、一度だけ履いたこの靴に、やっと二度目の出番が巡って来た。

 正士が乗る車は、2004年式のイギリス製四輪駆動車である。

 輸入車への憧れとか、道なき道への冒険心などというものは、一切持ち合わせていない。しかし、この車の佇まいには、学生の頃から心を惹かれ続けていた。ずいぶん長い時を経たが、やっと、自分のもとへ迎えることができ、幸いである。

 年式の古さ故、あちらこちらに小さな傷が見えるものの、走行には何の問題も無い。

 機材を車内に収めてエンジンをスタート。ボディに降り積もった雪を払い落とす。

 前のオーナーが、しっかりとメンテナンスを行っていたのであろう。すこぶる元気の良い車である。

『不要不急の外出は避けましょう』

 ラジオのスイッチを入れると、アナウンサーによる、お約束のごとき台詞が車内に響く。

「あらあら、俺のことだ」

 確かに、傍から見れば、雪の中を用も無くうろつき回る輩に違いあるまい。さらに、事故など起こそうものなら、迷惑な存在以外の何者でもなかろう。

 分かってはいるが、本日は、天より与えられた撮影日和なのである。

 少しの間暖気運転を行った後、トランスミッションをスノーモードにして発進する。ギシギシと、タイヤが新雪を踏みならす。

「コントロールを失ったらおしまいだぞ」

 自分に言い聞かせながら、慎重に車を進めるが、雪道の運転に自信など無い。

『空のさまと人のわざ』

 正士は、これを自らの写真のテーマとしている。

 幼い時分から空を見上げることが好きで、時間さえ有れば、青空、朝焼け、夕焼け、そして、そこに浮かぶ雲を眺めていた。

 中学生になった頃、父親から、フィルム式の古い一眼レフカメラを譲り受けたが、やはり撮影の対象は、空と雲がほとんどだった。

 そのあたりを原点として、今もなお、カメラのレンズは地平線の上側へ向く。気象に関する知識も、独学で身に付けた。

 しかし、『空のさま』ばかりでは、気象図鑑の写真でしかない。

 故に、人や人工の事物を、進んで画面に織り込み、自然が為すさまと人間の営みを、その折々の原風景として、切り取りたいと考えている。

 さて、本日である。

 空のさまとしての雪と、それが故に、普段はお目にかかれない、妙なる姿を晒した人のわざ、これを是非とも作品にしたい。

 車内の時計は、午前9時24分。

 アパート前の路地から左折して、広い国道へ入る。

「信じられないくらい、空いているな」

 ルームミラーに、後続車の姿は無い。

 普段の朝なら大抵渋滞しているこの道も、今日は日曜日、しかも大雪警報発表中である。

 ちなみに、正士が住む地域では、12時間での降雪が5センチを超えると大雪注意報、10センチを超えると大雪警報が発表される。

 走り始めたばかりではあるが、四輪駆動車の走破性能も、なんとなく実感できる。しかし、雪の上では、タイヤによる路面のグリップなど望むべくもなく、ハンドル操作の手応えは、恐ろしく軽い。

 免許取りたての頃を思い出すかのような、おっかなびっくりの運転を強いられる。

「おおっと」

 これといったあても無いまま、しばらく車を走らせるつもりでいたが、期待に勝る被写体が、いきなり目の前に現れた。

 道路脇の駐車場に、綺麗な横一列で、雪まみれの車が並んでいる。そして、そのボンネットの上に、誰の仕業か、小さな雪うさぎが、これまた綺麗な横一列で置かれている。

 1台の車に5体、車は6台、なので合計30体。独りの人間の手によるものだとすれば、なかなかの仕事量である。

 恐らく、車の持ち主の了解など無い、ゲリラ的な作品であろう。

 置かれてからの時間の経過で、それぞれには、新しい雪がうっすら被り、少々曖昧になった輪郭が、また良い感じである。赤い眼は南天の実、耳は椿の葉だろうか。

 ハザードランプを点灯させて、勘を頼りに路肩へ寄って行く。縁石がどこら辺に有るものか、分かる由もない。

 エンジンを切り、はやる気持ちを抑えながら路上に降りて、被写体に向かう。

 使用するのは、広角系レンズのカメラだ。

 ぐうっと寄って、ぎゅうっと脇を固め、シャッターを切る。

 両腕を伸ばして、液晶モニターを見ながら撮ろうなどという構えは無用。しっかりとファインダーを覘き、被写体を切り取って行く。

 トリミングなど前提としない、一発勝負のフレーミングである。

 夢中になると、夥しいコマ数を撮影してしまうものだ。常にコマの残数を心配していたフィルム式カメラが、今となっては懐かしい。

「よしよし、いい感じ」

 手応えのある撮影ができた。

 カメラを肩にかけ、寒さに凍えた両手を擦り合わせながら車中に戻る。

「さて、郊外へ向かうか、都心方面を目指すか」

 エンジンをかけながら、少々迷った。

 郊外の方が、さらに道が空いていて、駐車場所にも、それほど困ることはないだろう。

 しかし、街が込み入った都心の方にこそ、意図するところの、妙なる景色が期待できる。

「都心へ向かおう」

 そろそろと車を発進させる。

 片側3車線の一番外側を、轍を頼りに走るが、路面に雪が張り付き、決して安全な状態とは言えない。

 走行する速度は、せいぜい時速30キロくらいでなければ、いざという時に、曲がれず止まれずということになる。いわんや四輪駆動への過信など、確実に論外である。

 慎重に慎重を重ねておよそ一時間、南の方角へ車を進める。ゆっくりとしたペース故、大した走行距離にはならない。

 自宅を出発した頃に比べると、交通量は増して来たが、それでも車の姿は、普段の日曜日よりも、圧倒的にまばらである。

 雪は、ほぼ止んだ。

 残念ながら、先程の雪うさぎのごとき、心ときめく被写体は現れない。

「一発目のうさぎで終わりかな」

 溜息まじりに呟いた。

 時計は、11時半になろうとしている。慣れない雪道の走行は、思いのほかくたびれる。そろそろ腹も減って来た。

「帰って、昼飯にするか」

 飲食店を利用することに積極的ではない正士は、基本的に、独りでの外食という行動パターンを持っていない。

 それ故、本日の昼食も、自宅で鍋焼きうどんにライスと決めていた。食材は十分に揃っている。自炊の生活が10年以上続いているので、料理の腕も、捨てたものではない。

 まあ、家に帰って昼食を食べようものなら、出不精の心根に全身が支配され、再び撮影に出て来ることは無いだろう。

 来た道を戻ることにして、少し狭い路地に入って行く。裏道をぐるりと回り、次の交差点で再び国道に戻れば間違いは無い。

「裏道の方が、雪が深い感じだな」

 表の国道に比べると、さらに交通量が少ないため、轍は浅い。

「あらっ」

 少し進むと、路地の奥に、山小屋のような建物が見えて来た。看板らしきものも有る。

 眼を凝らしながら近付いて行く。

『キッチンジャヌー』

 どうやら、洋食店のようである。

 周囲の建物とは明らかに異質の造形だが、決して不調和な存在には見えない。

「良い感じの店だな。おっと、営業中。あらま、駐車場も」

 店の脇に、駐車場のマークが立てられ、車2台分の空きスペースが有る。

 都心に近い個人経営の洋食店で、たとえ2台分とはいえ、駐車場が用意されているとは有り難い。

 この店は、正士を惹きつける何かを感じさせる。入って行けば、さらに良いことが有るかもしれない。

「鍋焼きうどんは、夕食に回そう」

 久方ぶりに、外食をすることにした。

 綺麗に雪掻きされた駐車枠に車を入れ、店の姿を数枚撮影した後、カメラをバッグに詰め込んで、入り口に向かう。

 ドアの脇には、黒板に手書きで、本日のおすすめメニューが書かれている。

『ダブルハンバーグ』

 これを見て、ふと、子供の頃の記憶が蘇る。

 月に1度か2度、親がデパートに連れて行ってくれた。別段楽しいというものではなかったが、その中に有るレストランでの昼食は嬉しかった。

 その時に、必ずオーダーしていたのが、ダブルハンバーグという名のメニューである。

「これ食べよう」

 大きな木製のドアを開けて、中に入る。良く効いた暖房のために、眼鏡のレンズが一気に曇って、様子が見えない。

「いらっしゃいませ」

 品を感じさせる、男性2人の声である。

 眼鏡を外し、改めて店の中を見渡す。

 オープンキッチン、6席のカウンター、4人掛けのテーブルが3つ、外装と同じく山小屋風のインテリアであるが、わざとらしい造りではない。

 キッチンには、店主と思しき中年の男性、ホールには、白いシャツに黒いソムリエエプロンの若い男性。

 この二人で、店を切り盛りしているのだろうか。

 こんな天気にもかかわらず、テーブルは満席である。

「いい雰囲気だ」

 カウンターの、一番奥の席に進んで行く。

 決して大きな店ではないが、広めの通路は、来た者を受け入れる懐の深さを感じさせる。

「いらっしゃいませ。お足元の悪い中、ご来店有り難うございます」

 良き言葉の挨拶は、良き心持ちを与えてくれる。

 感心して振り向いた正士だが、相手の姿を見て少し驚いた。

 歳の頃は20代半ばくらいか、背が高く均整の取れた体格に、清潔なシャツとロング丈のエプロンが良く似合う。

 品位が備わった人物であることは、すぐに分かったが、両眼が垂れ下がり、顎が非常に小さく、耳が無い。

 咄嗟に、ある疾患名が頭に浮かんだ。

「初めてのお客様は、息子の姿を見て驚かれることが多いんですよ」

 場を察したかのように、キッチンの中の男性が声をかけてきた。

「なるほど、ここは、お父さんと息子さんでやっておられるお店ですか」

「まあ、親子で共同経営です」

「旦那と若旦那ですね」

 そう言われて、旦那は満更ではなさそうな笑みを浮かべた。

「初対面で、こんなことをお聞きするのは、失礼かも知れませんが、若旦那は、トリーチャーコリンズ症候群でいらっしゃいますか」

 迷いは有ったが、まず病気を話題とすることが、スムーズな語らいにつながると、正士は直感した。

「うわっ、若旦那なんて呼ばれたのは初めてです。お客様のおっしゃるとおり、私はトリーチャーコリンズ症候群ですが、この病気をご存じとは、医療に携わるお仕事でいらっしゃいますか」

 水の入ったグラスを差し出しながら、若旦那の方も、少々驚いた様子である。

「いえ、私は、社会福祉系の人間です。今は、高齢者の介護事業所に勤務しています」

 正士は、名の知られた大手企業による介護事業所の、デイサービス部門を受け持つ管理者である。

 社会福祉士、介護福祉士、ケアマネージャーといったライセンスを有する、社会福祉畑の人間であるが、当然のことながら、近接領域である医学の知識も、ある程度は持ち合わせている。

 トリーチャーコリンズ症候群。

 遺伝子の突然変異が原因で、発症率は5万人に1人と言われている疾患である。

 眼や口、耳、顎など、顔面を構成する部位が欠けていたり、形が変わっていたりすることが特徴的な症状であるが、そのために、聴覚や発語が不自由であることも少なくない。

 また、実に嘆かわしいことだが、そういう容姿に対し、21世紀の今日でもなお、偏見や差別の念を持つ愚か者が、消え失せていないという現実が有る。

「さて、若旦那、ダブルハンバーグと大盛りのライスをお願いします。それと、食後に日替わりのおまかせコーヒーも」

 日替わりのおまかせコーヒーとは、初めて出逢うメニューである。

 恐らく、日ごとに異なる銘柄のコーヒーを、店が選んで出してくれるのだろうけれど、手間はかかるし、クオリティに自信がなければできるものではない。

「かしこまりました。スープが付きますが、コンソメとポタージュ、どちらになさいますか」

「ポタージュで」

 病気の話題は、これ以上続ける必要は無いだろう。

 カウンターの反対側の壁には、大きな山岳写真が掛けられている。

「もしかするとあの写真は、お店の名前にもなっているジャヌーですか」

 キッチンの旦那に向かって尋ねてみた。

「はい、そのとおりジャヌーです」

「標高こそ8千メートルに届かないものの、その姿と登頂の難しさ故、『怪峰』とも称されると聞いたことが有りますが」

 風景写真を撮影するために、正士は登山について、少しの経験と知識が有る。もちろん、国内の低山にしか登ったことはない。

「お詳しいですね。おっしゃるとおり、標高は7710メートル、第1位のエベレストから数えて、32番目の高さですが、なにしろご覧のとおりの山容です。ヒマラヤの中でも特異な存在と言えるでしょう」

 旦那も、相当山に通じている。

「実際に、あそこまで行かれたのですか」

「いえいえ、山は好きですが、さすがにヒマラヤは、金銭と時間と体力が足りません。しかし、せめて自分の店は、一番憧れている山から名前を貰おうと思いまして」

 話しをしながら旦那は、ハンバーグの種を、両手の間でリズミカルに往復させる。パンパンと、心地の良い音が響く。

「以前、ジャヌーのトレッキングツアーを調べたのですが、少なくとも20日間の行程になってしまうため、今の私たちにはちょっと無理ですね」

 そう言いながら、若旦那が、ポタージュスープとサラダを運んで来た。

 確かに、店を20日間も休みにする訳にはいかないだろう。

 勤め人の自分とて、『ヒマラヤのトレッキングに行くので、有給休暇を3週間ください』などと、上役に相談する勇気は無い。

 多めに盛られたポタージュスープを、ゆっくりと味わい始める。

 これは美味い。

 キッチンからは、ハンバーグを焼く良い香りが漂う。出されて来るものが楽しみである。充実した昼食になりそうだ。

「お待たせいたしました、ダブルハンバーグと大盛りのライスでございます」

 運ばれて来た料理は、期待を大きく上回る内容だった。

 形の揃ったハンバーグが2つ、1つはデミグラスソースで仕上げられ、もう1つは塩と胡椒の味付けのようだ。付け合わせは、人参のグラッセ、そして、ほうれん草と舞茸のソテーである。

 ただし、それぞれが、他の洋食店で目にする量の3割増しくらいは有る。ライスの大盛り具合も然りである。

 大柄な体格で、大食漢の部類に入る正士にとって、これは非常に喜ばしい。

 ハンバーグにナイフを入れると、分厚い切り口から肉汁が溢れ出る。『目にも美味しい』という言葉が、良く理解できる。

「マサシさん、水もらえるかな」

 テーブル席の客が、若旦那に声をかけた。

 思わず正士も振り向いてしまった。

「若旦那、お名前はマサシさんですか」

 ピッチャーを持って、テーブル席から戻って来た若旦那に、正士が尋ねた。

「はい、仁野雅志と申します」

「実は、私もマサシという名前なんです。字は正しいに武士の士です」

「ああ、そうでいらっしゃいますか。私は雅に志すと書いて雅志です。父親の雅之から、一文字貰っています」

 雅なる志の者と正しきなる士、根拠などは無いが、気が合う期待が満ちる。

「私は、有川正士と申します。今日は、偶然にこちらのお店と出逢ったのですが、入り口の黒板に書かれているダブルハンバーグは、子供の頃に、レストランで必ず頼んでいたメニューの名と同じ、私の名も若旦那と同じ、店内の雰囲気と、出していただいた料理の内容は抜群、決してお世辞ではなく、実に嬉しい気分です」

 デミグラスソースと塩胡椒、それぞれのハンバーグを代わるがわる味わいながら、正士は話し続けた。

「有り難うございます。そうおっしゃっていただけると、私どもも、大変幸せな気持ちになれます」

 若旦那は、品良く微笑んだ。

 さて、次なる期待は、日替わりのおまかせコーヒーである。

 コーヒー好きの正士であるが、敢えて何も聞かずに、どのようなものが出されるか、様子を見ていた。

 キッチン隅のスペースで、若旦那が、電動ミルサーを使って豆を挽き、手際よく作業している。淹れ方はネルドリップである。

「失礼いたします。日替わりのおまかせコーヒー、本日は、タンザニア・キリマンジャロでございます」

「おお、キリマンジャロ。苦味は弱く、程よい酸味があって、香りが甘い」

「コーヒー通でいらっしゃいますね」

 若旦那は感心した様子で、カップを置いた。良い感じの緋襷が入った備前焼である。

「いえいえ、通などとはおこがましい。淹れ方に右往左往しながら、楽しんでいる程度です」

 話しながら、コーヒーを一口含んだ。独特の酸味の後に、ほのかに甘い香りが抜けて行く。

「いやぁ、料理と同じく素晴らしい。コーヒーは、いつも若旦那の受け持ちなのですか」

「はい、父が、最近やっと任せてくれるようになりました」

 良い関係で仕事をしている父子故、客に供されるものも質が高いのであろう。

 言うまでもなく料理は完食。コーヒーも余すことなく飲み干した。第一級の満足感だ。

「美味しくいただきました。私は、自宅も職場も、それほど遠くではありませんので、次回は、仕事の仲間と一緒にお邪魔できればと思います。ちなみに、お店のお休みは何曜日ですか」

「水曜日を、定休日とさせていただいています。よろしければ、これをお持ちください」

 若旦那は、店のカードを差し出した。

「有り難うございます。必ずまた参ります」

 正士は、カードを受け取ると、目の前の若旦那とキッチンの旦那に一礼し、席を立った。

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