第2話 無愛想な朝と新生活
「坊っちゃま、朝です」嗄れた声が安眠を妨げる。「お食事の準備も出来ております故、起きて下さいまし」そして老婆は起床を渋る俺をハタキで容赦無く打つ。
「分かりました、解りましたから!」
俺を『坊っちゃま』と呼ぶのは腰の折れたヒュームの老婆だ。名をヘーゲルと言う。申し訳程度の敬意で少しの家事と愛想を幾らか振り撒いた後に、孫の自慢を小一時間聴かせて帰るのが彼女の日課だ。雇った覚えも無い婆さんに毎朝世話を焼かれるのは正直苦痛である。
朝だというのに我が家は暗く、気分は鬱屈としている。気晴らしに窓を眺めても無愛想な向かいの壁の染みがほくそ笑んでいる様に思えて落ち着かない。気休めの蝋燭が虚しい灯火を揺らし、弱った心を煽る。
照明も無ければ薪の一つも無い。幾ら属国の騎士とて、騎士であるからしてこの扱いは不愉快極まりない。
「ヘーゲルさん、買い物を頼みたいのですが・・・」
家をくまなく探す。探すほどの広さも無いが彼女の姿も無い。帰ったのだ。
皿に佇む硬いパンを喰み、匂いの悪い茶を啜る。
「今日は孫自慢は無しか」
いつも鬱陶しいと思いながら聴いている彼女の話も無いとなると何処か寂しい。一人ぼっちは得意だと思っていたが、存外そうでは無かったらしい。
感傷を肴に孤独を愉しむのも悪く無いかも知れない。
帝国から支給された立派な身ぐるみはどれも上質で公国には回らない代物だ。燻んだ姿見で帝国に染まった自分を眺めるのはもう何度目にもなるが、写った顔がくすんでいるのは姿見のせいでは無いだろう。一月前の自分はもう少し明るい顔をしていただろうか。
ほんの一月前だ。住環境の整っていない新居に足を踏み入れた俺は僅かながらでも心踊らせていた。出向祝いに仕立て屋のハンスさんが仕立ててくれた背広を羽織り、襟と気持ちを正した俺は軋む玄関扉を潜り、快晴が濃く染める日蔭の路地を縫って帝国外交館に向かう。そのついでに物見遊山でもといずれ世話になる同盟本部庁舎に寄り道する。それはポルケピの中央に在る円形の巨大な建築物で、各国の官職が集う場所だ。各々の外交館でお頭を捻った作文を発表する場所だ。その発表役を担うのが俺の仕事な訳だが、無愛想な面の憲兵が囲むそこに入るのは遠慮したい気分だ。ずらりと並ぶ窓をなぞるように眺めていると一つの窓に目が留まる。そこには此方に目をむける人影がゆっくりと手を振っている。
「変なやつだな」そう言いながらも釣られて手を振る自分に向けられる居た堪れない視線に顔を俯けた俺はそそくさと歩き始めた。その時、始業を告げる鐘が鳴る。ガランゴロンと遅刻を告げた。慌てて一番通りに抜け館を目指す。
帝国外交館は一見宮殿である。軒を連ねる諸国外交館の中央に威張るように建つ。帝国人の態度の様に大きいそれを揶揄する言葉を探るべく暫く門前で耽る俺を門番が咳払いで急かす。大遅刻である。
初日から遅刻した俺を歓迎するのは狼女の遠吠えだった。
「アンタねぇ、初日なんだから時間くらい守りなさいよ。そんな為体で良くもまあ公国騎士が務まるわね」
「すみません」ぎゅっと歯を食いしばり罵声を堪える。
「その顔は何?不満でもあるの。不満があるのはこっちなんだから。田舎者はこれだから」
「すみません・・・」ぎゅっと拳を握り締め堪える。
「それに、その小汚い格好は何?帝国の顔に泥をぬる気?」
捲し立てる罵詈雑言の極め付けに一張羅を貶された俺は「プツン」と何かが千切れる音が聞こえた気がした。
「そこまで言わなくたって良いだろうが!」気づけば既に怒りは堰を切っていた。「これでも公国一番の仕立て屋の一品だ。形式だって俺の方が上官だろう、どうして初日からこんなにも小娘に叱られなきゃいけないんだ」
「小娘、って。アンタ喧嘩売ってんの?買ってやるわよ。ボロ雑巾の公国騎士様、さあ来なさいよ。本当の立場ってのを教えてあげる」
「ボロ雑巾!?言いやがったな。ハンスさんに謝れ!いいさ喧嘩だ」
行きつけの仕立て屋を馬鹿にされ頭に血が昇った俺はつい喧嘩に持ち込んでしまったーーーーーーー。と言うのは勿論妄想で、暫く激しい喧嘩を繰り広げた俺を正気に引き戻したのは彼女の罵声だった。
「ホント使えない。ボケっとしてないで早く着替えて」
いつの間にか傍に立っていた使用人が差し出す制服に伸ばした俺の手は小刻みに震えていた。
「正午には仕事だからそれまでに支度して。机の書類も片付けておいてね」
滲む視界に映る彼女の姿は揺れていた。滲む視界を袖で拭う。袖に滲んだ涙のしみは存外大きかった。それは歳の近い女性に気圧されて言い訳も出なかった己の不甲斐さからか、はたまた初日から時間も守れない己の無能さからか来るものなのか。
その感情は左遷が決まった夜を思い出させる。
公国の中でもそれなりの家に生まれた俺はそれなりの努力と惰性で出世や金には困らなかた。亡き一族が築き上げた公国大手にもなる家業が勝手に金を産み、拝金主義者の子息が集まる騎士団の中では上官に土産を贈る努力さえ怠らなければ出世に困る事はなかった。
もちろん派閥争いなんてものもあったが優秀な部下や取り巻きに恵まれた事もあって苦労はしなかった。親の七光りを贅沢に浪費する人生は俺にとって好ましいものだったが、面倒事から目を背けて来た自堕落の付けが回ってくるのは存外早かった。余りに頼りない俺に愛想を尽かした忠臣たちは皆掌を返したのだ。
彼らが仕えていたのは祖父が築き上げた気高きバッセンハイム家であり、家の名を汚す道楽息子では無かったのだ。祖父も父も居ない彼らにとっての廃墟に僅かにあった『道楽息子を立派な当主に仕立てる』と言う希望も潰えたらしい。そんな彼らは父の妾の子を何処ぞから連れて来て当主に当てがった。新しい希望を見つけたのだ。歳は俺より幾つか下で、エルフの母を持つ少年。名をアランと言う。アラン・フォン・バッセンハイムだ。それを知ったのは出向命令を受けた夜だった。出世だと浮かれていた俺は暫く口が塞がらなかった。だが俺は彼らの勝手に文句をつける事が出来なかった。
思い返せば「認めない、出て行け」と喚き散らせば良かったのだっが、家臣連中の何処か安堵した目を前にした俺には「家を任せたぞ」と心にも無い言葉をかけるほかに出来なかった。
直接「用済みだ出て行け」と言われた訳では無いが、彼らの目は確かにそう言っていた。
暫くは悲劇の主人公を悲観していたが、俺が黙って出ていけば済む話だと、今までと同じように黙って流されていれば良いのだと頻りに自分を慰めている内に自分の惨めさに呆れて涙が引っ込んだ。その時の涙が今になって溢れてくるとは迷惑な涙だ。それに、王国との取引が増えている昨今の当家では俺よりもエルフの血が利益を産むかも知れない。そう納得することにした。
執務室にあてがわれた部屋は見渡す限り立派なもので、例えるならば『物置』である。湿気と埃臭さに淀んだ空気は正しく記憶にある物置を想起させる。急いで掃除したのだろう。引き出しに隠された『物置』の表札には目も当てられない。部屋角に静かに佇む錆びた甲冑飾りとグレイトホーン種の頭部剥製は物憂げに此方を見ている。職場を共にする仲間が錆臭い鉄屑と臭い剥製かと思うと憂鬱になる。その感情は行き場の無い彼らと自分を重ねて悲観するものなのか、不遇への文句なのか。どちらにせよ物語の初っ端から俺の心が折れそうなことには変わり無い。
ぼうっと天井を見上げる俺を気付かせたのは数回のノックだった。
「失礼します」先程の使用人が軽食を運んできた。「遅ればせながらハインツです。ベルナー様からの差し入れと『言い過ぎちゃったわね』との伝言…おっとこれは内緒でした」初老のヒュームは楽しげに笑う。
不恰好なサンドイッチの隣には綺麗に畳まれたハンカチが添えられていた。爺さんの手製なのだろうか・・・。そんな茶目っ気は俺の傷心にはかなり応えた。
ポルケピ! に〜とろまっは @nitoroMaxMach
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